四話 六の月十日
*
旦那様が不憫でなりません。
若くしてご両親を亡くされて、悲しむ暇もなくご当主になられたときはさぞ不安でらしたでしょう。
当主らしくあらねば、というのが旦那様の口癖でございました。気を張りすぎてお体を壊されることもございました。
そんな旦那様を優しく支えてくださったのが、アレナリア様でございました。
アレナリア様に出会ってから、旦那様には笑顔が増え、顔色も良くなったように思います。
お二人がご結婚なさるとお聞きしたとき、わたくしたちは心から喜んだのです。
皆がお二人の幸せを願っておりました。
なのにあんな、あんな酷いことがありましょうか。
旦那様は眠れず泣き通す夜が続き、食事もままならず、アレナリア様の面影を探してさ迷うばかり。
今日も、雨の中庭園で抜け殻のように座っておられます。
なんと痛々しいお姿。本当に不憫でなりません。
一介の使用人では旦那様を支えるどころか、慰めることすら叶いません。それがもどかしく、わたくしたちの心をひどく締めつけるのです……。
*
六の月十日
彼女を失ったあの日から、ずっと雨が降り続いている。静かに、いつまでも。
何をするでもなく、あの日のように椅子に腰掛けて、宙を見つめる。鳥の歌も、彼女の声も、なにも聞こえない。頬を流れていくのは涙なのか、雨なのか、寒いのは濡れているせいか、胸に穴が空いているからなのか。
長雨の重みに耐えられなかった花々が地に落ちて泥をかぶっている。あんなに色鮮やかだったのに、今はどれもくすんで見えた。
ああ、世界が灰になってしまった。
「――……」
微かに、雨に混じって音が聞こえた。
重い頭をゆっくり起こして、あたりを見る。
庭園の植え込みの向こう。鉄格子の外に、誰かが立っている。
外套に包まれて顔はよく見えない。細い腕が格子の間をすり抜けて、散った花弁を拾い上げた。フードの隙間から長い髪が滑り落ちる。
気がつくと、僕はその人影に歩み寄っていた。水溜りを踏む音に、人影がこちらを向く。
「……」
大人びた表情に幼さの残る、少女だった。穏やかで冷えた瞳が僕を見つめた。胸まで流れる髪は雪解けの清水のようで、雨に濡れてきらめいている。美しい、と思うのとほぼ同時に、その姿には不釣合いな首輪が鈍く音を立てた。
「奴隷……か……」
すっかり掠れてしまった声で、呟くように言った。花弁を持つ手にも無骨な腕輪と鎖が巻きついている。少女は僕の視線を気にするように腕を外套に隠した。
他に人影はない。この子はひとりだ。だが奴隷が外を単独で出歩くなどありえない。ということはこの少女は主から逃げたということか。
「きみ、」
「いやがったぞ!」
主人はどうした、と続けるのを遮って、数人の足音が怒号とともにこちらに向かってきた。少女がはっとしたように外套を翻して走り出す。
僕が呆然と立つ間に、足音の主たちは少女に追いついて石畳に投げ倒し、しなる鞭を飛ばした。
「奴隷風情が勝手な真似を」
「……っ!」
少女の体に当たって鞭が爆ぜる。押し殺した声に僕は思わず顔を背けた。
「市場に戻るぞ」
鞭を持ついかつい男が命じ、脇に控えた痩せぎすたちが少女を引きずるように起こした。
乱れた髪の隙間から見えたその暗く静かな瞳に、僕は、何を感じたのだろうか。
「ま、待て」
「……は、こいつが何かご無礼を」
「その、奴隷にはまだ主がいないのか」
「ええ……数刻後の競りに出す予定で」
鞭の男が訝しげに返す。
「……今、買い取ることはできるか」
「い、今ですか。おれ、いや私達はただの小間使いでして」
少女が力なくこちらを窺う。
僕は背筋を伸ばして、深呼吸をした。
「私は五大公がひとつ、フラネーヴェ家当主リージアだ。その少女、売値の三倍を出すと持ち主に伝えろ」
男が目を丸くする。相場など知らないが、三倍ならば悪い話でもないだろう。
「その子は置いていけ。請求にはいつでも応じる」
「は、いや、ですが」
「……いいな」
「!」
男に、格子の間から金貨を手渡す。男は痩せぎすたちと顔を見合わせると、少女を手放して走り去った。糸が切れたように少女が座り込む。
「……今、そちらに迎えをよこす」
言って、少し語尾が震えた。威厳あるように名乗れただろうか。しばらく言葉も発していなかったので息が切れる。
「……どう、して……」
少女はか細い声で言った。
「どうして……かな……」
僕にもわからなかった。なぜこんなことをしたのか。
少しだけ、雨が弱まった。
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