氷上雹珂 +0日(2)
空き教室は別の校舎の三階にあって、そこまでの距離はとても長かった。学生は毎日このくらいの階段を平気で上り下りしていると考えると頭が下がる。もっともそれは、自分の衰えから来る感情なのかもしれないけど。
ようやくたどり着いた空き教室のプレートには『進路指導室』と書いてあって、どうやら空き教室というよりは普段使っていないというだけのようだ。
実際に中に入ってみる。そこには、三者面談用と思われる机と椅子のセットと、それと大学の資料を詰め込んだ棚がずらっと並んでいた。たしか翆玲高校は進学校のはずだから、資料も必然的に多くなるのかもしれない。就職用の資料はほとんどなさそうだし。
そして中央の椅子に、一人の男子生徒が腰かけていた。二脚並んだ椅子の片方に座っている。そして反対側の椅子には、婦人警官が座っていた。
「ご苦労様です」
私の姿が目に入ると、婦人警官は立ち上がって敬礼をした。二、三言言葉を交わしてから、婦人警官は教室を出ていった。
そして私は、婦人警官が元居た椅子に座る。
「こんにちは、鶴来空君。私は警察の氷上雹珂です。君にいくつか聞きたい事があるんだけど…………」
「…………わかりました」
どうやら実の姉の死体を見たショックは随分と和らいでいるみたいだった。そこそこ時間が経っている事を考慮しても、かなりメンタルが強いのかもしれない。
「これが終わったら、お家に帰ってもいいからね? ご両親が迎えに来てくれると思うわ」
「…………両親は出張しているので。家には僕しかいません」
うぐぅ、場を和まそうとした質問で完全に地雷を踏んでしまった。そもそも家族を亡くしているのに、家族の話題を出すのはいくら何でも空気が読めていなかった。軽い自己嫌悪。
改めて、鶴来空君の事を観察する。
顔立ちは幼い感じで、姉とそっくりで整っている。その表情は陰っているものの、錯乱している訳ではなく落ち着いている。どちらかと言えば、体が縮こまっていて、緊張しているように見える。
大人、ましてや警察の会話に緊張しているのだろう。見た目からして真面目そうだから、警察と話をするなんて事が今までの人生でなかったのだろう、きっと。
「えっと、緊張しなくても大丈夫だからね? ちょっと話を聞くだけだから」
「…………すみません、人見知りするもので」
「うん、大丈夫だから。気にしてないから」
発言に気を遣うあまり、大丈夫しか言えない自分がいる。なんて情けない、年下の男の子相手で私も緊張しているのだろうか。
「えっと、それじゃあさっそく、本題に入らせてもらうね」
「…………分かりました」
お互い気を遣ってもしょうがない。私の仕事はあくまでも彼から情報を聞き出す事であって、決して彼のケアをする事ではないのだから。私情は抜きにして、刑事として彼に向き合う必要が私にはある。
私は彼の眼を正面から見据えた。威圧感を与えないように、けれど卑屈な印象を与えないように、気を配りながら話しかける。
「まず、今朝の君の行動を一通り教えてほしいんだけど」
「…………はい、僕の知っている限りですけど」
空君も慣れてきたのか、少しずつ目線が合ってくる。そのままたどたどしく、空君は自分の行動を説明してくれる。
「まず、今朝の七時半くらいに学校に着きました。そのまま部活棟に寄って――――」
「ごめん、ちょっと待って。いつも部活には七時半に来ているの?」
「いえ、今日は特別でした。姉さんが昨日の夜帰ってこなかったので。昨日の内はいつもの事かと思っていたんですけど、今朝になっても帰った様子が無いのが気になって」
「それで、部室に居るんじゃないかって思ったの?」
「ええ。なんとなくなんですけど、部室にいるんじゃないかって。携帯にも出ないですし、何かあったんじゃないかって思って」
「いつもの事って言っていたけど、帰りが遅くなる事が何回かあったの?」
「そうですね。大体友達と遊んだり泊まったりしているんですけど。連絡が無い事もしょっちゅうでした」
空君の話を纏めると、彼女は昨日家に帰っていない事になる。まあ死亡推定時刻からもそれは推測できるけれど。
夕方に部室にいた彼女は、おそらく犯人に襲われた。それを不審に思った空君が、今朝になって部室に行ってみた。そして遺体を発見した、そんな所だろう。
「ごめんね、話を遮って。えっとそれで、部活棟に寄った君はそこで――――」
「――――そこで、姉さんの死体を見つけました」
空君は顔を下げて俯いてしまう。長袖を握って、不安そうにしている。落ち着いているように見えて、やっぱりショックなのだろう。私からは顔が見えないけれど、涙をこらえているのかもしれない。
何か声をかけようとかと逡巡しているうちに、空君は顔を上げた。その表情はさっきと変わらないものだった。
「それで、姉さんに駆け寄って。もしかしたら何かの冗談じゃないかと思ったんです。でも姉さんは」
「…………うん、そこまででいいよ。それで君が人を呼んだのが、七時四十五分だよね」
「ええ、しばらく放心していたんですけど。我に返って、とにかく人を呼ばなきゃって思って。職員室の先生を呼びました」
そこについては、あとで裏をとらなくてはいけないだろう。ただ、遺体を見つけて警察に通報した
東上先生が遺体を発見したのが七時四十五分。彼はその場で警察に電話した後、空君を別の場所に移動させた。そして他の先生方を呼んで、生徒を近づけさせないようにしたらしい。ただまあ、警察がこうやって来ている以上、その努力は無駄だったろうけど。きっと今頃、根も葉もない噂話が広がっているに違いない。
「ああ、そうだ。すみません、言いそびれていた事がありました」
「え、何?」
言いそびれていた事に今気づいたのか、空君は気まずそうにそう言った。
「その、先生を呼ぶ前に、兎川先輩に電話をしたんです」
「兎川さん?」
そういえば、私たちが現場に到着した時に、一人の女生徒が現場にいた。誰なのかと、東上先生に聞いた所、その生徒は生徒会長の兎川雨鷺さんと教えてくれた。その時は、てっきり生徒代表として話を通したのかと思ったけれど、どうやら彼女も事件現場に遭遇した一人だったようだ。
「でも、なんで電話を?」
「とにかく、誰か頼れる人に話をしたかったんです。それでその、姉さんの事を伝えて」
姉の遺体を前にして、動揺してしまったのだろうか。それで空君は鶴来玲さんの死を兎川さんに伝えた。
そのあまりにも衝撃的な事実を知った兎川さんは、急いで学校に駆け付けた。事情を知っている生徒を先生も止めきれず、現場に居合わせた、そんな所だろうか。
兎に角これで、おおまかな話は分かった。次にするべきは、施錠について聞く事だろう。
「それじゃあ、部室についた時なんだけど。鍵はかかっていたかな」
「鍵、ですか。――――確か、かかってなかったと思います」
どうやらそこは過馬さんの言う通りのようだ。しかしそれは、密室という可能性が無くなった事と同義だけど。
その後も私は、ちょっとした質問を空君に投げかけた。
結果として特筆すべき事は判明しなかった。まあ施錠の確認ができただけでも、かなりの収穫だろう。
「それじゃあ、質問を変えて。昨日の事について教えてもらっていいかな」
今朝の事も大事だが、それ以上に大事なのは昨日の事――――鶴来玲さんがいつ死んだのか、その時の関係者のアリバイだ。
「えっと、昨日って言うと、いつから――――」
「それじゃあ、放課後、授業が終わってからの話をしてくれるかな」
「えっと昨日は、授業が終わってからすぐに図書室に行きました。図書委員の仕事があったので」
「誰かと一緒だった?」
「ええ、南沢って言うクラスメイトが同じ図書委員なので、彼女と一緒に行きました。その後も、ずっと二人で図書委員の仕事を」
「図書室はどこにあるの?」
「この階の突き当りですよ。廊下に出れば見えます」
そう言われたので、実際に廊下に出てみる。教室の後ろの扉を開けて、そこから顔を出す。
「…………本当だ」
右を向いたら、突き当りに図書室のプレートが見えた。扉は本の形をした紙を貼っていて、周りから少しだけ浮いている。
顔を引っ込めて、元の椅子に戻る。すると空君の、唖然とした表情が視界に入った。
「本当に見に行くとは思いませんでした」
「論より証拠ってね」
別にそこまでして見たかった訳でもないけれど。実際は空君の緊張をほぐすためにやったのだ。
そのおかげだろうか、空君の表情はさっきよりは多少明るく見えた。
「それで、図書委員の仕事を終えて、帰ったのかな?」
「えっと、そうですね、大まかにはそうです」
「誰かに会ったりした?」
お姉さんに出会っていた事を期待して聞いたけれど、予想外の返事が返って来た。
「えっと、兎川先輩に会いました。本を借りに来たみたいで。帰りも南沢と兎川先輩の三人で校門まで行きました」
「兎川先輩というのは、兎川雨鷺さん? 生徒会長の」
「ええ、そうです」
今朝現れたのに続いて、また兎川さんだ。もっとも時系列的にはこっちの方が先だけど。
案外、前日にそうやって接触をしていたからこそ、姉の遺体を発見した空君は、思わず兎川さんを頼ったのかもしれないけれど。
「一緒に図書室に入った訳じゃないのよね。何時頃に図書室に来たのか覚えてる?」
「えっと、五時半過ぎとかだったと思います。すみません、具体的な時間は覚えてなくて」
「それで十分よ。それで、帰った時の話なんだけど。南沢さんと兎川さんの三人で帰ったのよね、それは駅まで帰ったのかしら?」
「いえ、南沢は徒歩通学なので、校門で別れました。それで、兎川先輩が忘れ物をして、取りに行こうって話になったんです」
「それは、図書室に?」
「いえ、部室にです」
その言葉に、思わず驚いてしまう。
それはつまり、彼らは部室に一度寄っているという事になる。これは事件の真相を掴むうえでは、かなり重要な証言になるかもしれない。
「確認なんだけど、それは何時頃?」
「図書室を出たのが七時くらいで、部室に寄ったのはその十分くらい後ですかね。時計を見ていないので、具体的な時間はちょっと…………」
「いいえ、大丈夫。それで七時十分くらいに、二人で部室に入ったのね?」
「いえ、僕は校舎の入り口あたりで待ってました。兎川先輩だけが部室に入ったので」
「それは、何分くらい?」
「かかった時間ですか? 大体、一、二分って所ですかね。体感ですけど、あんまり待たなかったですよ。本当、忘れ物を取りに行ったくらいだと思っていたので」
兎川雨鷺。どうやら事件の鍵を握るのは彼女のようだ。もし仮に彼女が生きている鶴来玲さんを目撃していたら、犯行時刻はぐっと狭くなる。
「それで二人で、一緒に帰ったの?」
「ええ、駅までは一緒だったので。そこからは別ですけど」
これで、空君の大体の行動は分かった。かなり重要な証言をしてくれたので、これで事件の全貌が少しでも掴めればいいのだけれど。
「それじゃあその、お姉さんの事について質問してもいいかな?」
「……………………わかりました」
鶴来玲さんが殺された以上、その動機については、考えない訳にもいかない。そして彼女の事情を知っているのは、最も親しい家族に他ならないだろう。自分の姉が恨まれている理由なんて答えにくいだろうけど、それでも彼に聞かなくてはいけない。
「鶴来玲さんが、個人的に誰かとトラブルを抱えていた可能性はないかな? その、誰かと喧嘩したとか」
「…………それは、姉さんが殺される動機って事ですか」
「…………平たく言うと、そうなるのかな」
「だったら、僕には心当たりはありませんよ。姉さんは他人の恨みを買うような人間じゃありませんから」
そう言った空君の視線はどこか陰りを帯びていた。そこには何というか、複雑な感情が込められているように見えた。
「…………姉さんを殺したのは、きっと頭のネジがぶっ飛んだヤツなんですよ。理由もなく人を殺せるような奴だ。そうじゃなきゃ姉さんが殺される理由なんてどこにもない」
「……………………」
「お願いします、刑事さん」
そこで空君は、私に向かって頭を下げた。丁寧に、丁重に、目を瞑って祈るように。
「姉さんの敵を取ってください」
「…………もちろん、任せてよ。私たち警察にさ」
この時私は、『私たち警察』ではなく『私』と言いそうになってしまった。
そう、私はこの時、言いもしがたい高揚感に包まれていたのだ。姉を殺された少年の悲痛な願いを聞き、事件を解決する私。
そんなヒーローを、夢見てしまったのだ。
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