208年・当陽~長坂坡ノ戦~

 虎豹騎隊こひょうきたいの夜襲は、劉備軍を大混乱に陥れた。


 密偵が伝えた情報が遅かったのか、虎豹騎隊のスピードが想像を超えていたのか。――それは分からない。だが、今は考えるよりも動くことが最優先だ。


 俺はすぐさま劉備の幕舎に走り、急襲を告げた。

「一刻も早くお逃げください」

「しかし、息子と妻が……」

「お二人は趙雲殿にお任せを。今は、生死を争うときです」


 騎馬数十騎を付け、劉備を走らせる。


 あんなにも静かだった長坂坡は、既に阿鼻叫喚あびきょうかんの地獄と化している。こんな中で、複雑な命令は絶対に伝わらない。


 俺が兵と群衆に命じたのは、ただ一つだけだった。

長坂橋ちょうはんきょうを渡れ」


 家財も食料も捨て、群衆は、ただその一点を目指して動き出す。

 軍にも食料は全て諦めろと命じている。

 敵が、食料に目をつけてくれたら儲けものだ。その分、動きが遅くなる。


 渓谷にあるこの長坂坡ちょうはんはは、周囲を断崖に囲まれ、隘路あいろが続く。

 ここでは、大軍は意味をなさない。

 勝負を分けるのは、純粋な“個の力"だ。


 劉備軍と曹操軍を分かつ沮漳河そしょうがにかかる長坂橋には、戦闘の天才・張飛が待っている。あの趙雲でさえも、一対一では敵わないという最強の男が。


 ――そういえば、趙雲の姿が見えない。

俺は、周囲の兵に行方を尋ねる。


 彼は僅かに言い淀んだ。

「分かりません。ただ――、曹操軍に寝返ったという噂が流れています」


――やはり。

「それは、張飛には絶対に伝えるな」

「はっ!」


 とはいえ、流言飛語が飛び交う戦場では、そんな命令はほぼ無意味だろう。


 俺と結月は、長坂橋に向かう。

曹操軍はまだここには到着していないようだ。

橋の上には、蛇矛を構えた大男が、たった一騎で立ちふさがっている。


「張飛!」

「おおっ、軍師殿。ご無事だったか」


 まさか、本当に一人で守っているとは――。

俺は月英の方を向き、耳元で策を囁く。

月英は軽く頷くと、劉備軍本隊の方に馬を走らせる。


「ところで軍師殿」

 ギラついた目で、張飛が問う。

「あの趙雲が、裏切ったという噂は本当か!?」


 やはり、戦場での噂は矢のように早い。

俺は強い口調で断言する。

「それは断じてありえない。趙雲は必ず、阿斗殿と甘夫人を連れてここに来る。信じて待て」


 張飛は僅かな間の後、短く言う。

「そうか、分かった。軍師殿を信じよう」


 俺は天に祈った。

頼む。あの二人・・・・を生かしてくれ。


 ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽


 阿斗を抱えた趙雲が、長坂橋にたどり着いたとき、息は切れ、鎧は欠け、全身は血で覆われていた。子どもを抱えながら、あの虎豹騎隊と戦い抜いたのだ。


 張飛は、そんな趙雲を見て、少しバツが悪そうな表情を浮かべる。

疑った自分を恥じているのだろう。


 だが、はっと我に返り、こう尋ねた。

甘夫人おくがたはどうした!?」


「奥方は、俺一人•••では守り切れなかった」

「何だと!?」


 ――張飛が掴みかかろうとしたその時。

 その時、後方から軍馬の蹄の音が聞こえた。


 ――虎豹騎隊か!?と、思わず身構える。

趙雲兄貴ししょう、待ってくださいよー!」


 聞き覚えのある声が戦場に響く。

孫龍だ。その胸には、甘夫人が抱えられている。


――どうやら、策は成ったようだ。


 さしもの趙雲といえど、虎豹騎の大軍を相手に、阿斗と甘夫人の双方を守るのは難しい。 そう判断した俺は、襄陽城じょうようじょうで蔡瑁に対峙した時から、趙雲に影武者をつけていた。それが孫龍だ。


 孫龍は、赤壁公園かつて本人役を演じていただけあって、姿恰好だけでなく、戦闘スタイルも趙雲と酷似している。だからこそ弟子入りさせ、その腕前を近づけたのだ。


趙雲は、孫龍の方を向き、頭を下げた。

「俺一人では、奥方までは守り切れなかった。お主の力添えのお陰だ。礼を言う」


「……とんでもないっす!俺なんか、趙雲様ししょうについていくだけで精一杯で。でも、どうにか役に立てて、俺……」


 孫龍は感極まって、言葉が詰まる。赤壁公園で、毎日演じてきたあのシーンを“実演”できた上、憧れの趙雲から礼を言われたのだ。


「趙雲、孫龍、お前ら本当によくやった!!!」

少し前まで疑っていたことなどすっかり忘れ、張飛が涙ぐみながら二人の肩を抱く。


 遠くで馬のいななきと、蹄の音が聞こえる。それは徐々に近づいてきているようだ。今度こそ、曹操軍だろう。


時を置かずして。

対岸に、曹操軍の騎馬勢が続々と居並び始める。


川岸を埋め尽くすほどの大軍だ。

蹄を打ち鳴らす度、大地が震える気さえする。

あの中に、宿敵・曹操孟徳もいるのだろうか。


そんな大軍を目の前に、張飛は不敵に笑う。

「後は任せろ。今度は俺の番だ」

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