208年・当陽~神様ノオ膳立テ~

  状況はいまだ絶望的だ。

 曹操軍の精鋭が迫る中、守るべき民衆は倍にまで膨れ上がっている。


 もし今、曹操軍が中継地となる襄陽に入城せず、そのまま劉備軍への攻撃を優先してきたら、間違いなく俺たちは壊滅する。張飛が待つ長坂坡ちょうはんはまでも持たないだろう。


 ここは、伊籍を信じるしかない。

 襄陽に残った伊籍に託したのは、「何が何でも曹操を襄陽城内で足止めをすること」だった。


 ……とはいえ彼は文官だ。

 当然力づくの足止めなどできようがない。そこで――。

 

 彼に手渡した手紙には、いわば曹操への“宿題”を記していた。荊州ほどの広大な土地を占領するということは、法制度の整備から食料確保、税金問題から軍隊の鍛錬まで様々な問題を解決しなければならない。


  生まれついての王であれば、そんなことは家臣に任せきるのが普通だ。だが、曹操は叩き上げだ。何でも自分ができてしまうが故に、あらゆるものを自分のコントロール下に置きたがるのだ。


「へー、自分で何でもやりたがる創業社長みたいなものっすかね」

孫龍が、奇妙だが不思議と的を得た比喩を持ち出す。


 俳優の卵時代の孫龍は、老いた父を食わせるためにあらゆる職業を経験したらしい。


 実際は、創業ではなく“創国”に近いので、曹操といえども全てをは見きれない。だが彼の天才性は、それを「仕組化」したことにある。数多くの人材を抱えつつ、根本的には人間を信じきれないからこそ、制度で人を統治しようとする。


 “信じた者にはとことん任せる”劉備とは正反対の統治スタイルだが、実は曹操のやり方それこそ現代の法治国家の思想そのものだ。実際、曹操は流民に農地を与え土地を耕作させる屯田制や、現在の徴兵制に近い府兵制を導入することで、国力を高め、今の圧倒的な魏の戦力を整えたのだ。


 だからこその、高い外交能力と交渉能力を持つ伊籍の出番だ。荊州統治に必要な仕組み作りを曹操に提言し、忙殺することで、少しでも劉備軍への攻撃を遅らせてもらうという筋書きだ。


 ――我ながらセコイ戦略だ。

 だが、疲労と恐怖でよろめきながらも、家財や家族を抱え必死で歩み続ける難民たち間近で見ると、些細なことでもやれることはやり切りたいと思う。


 結月は言う。

「日本にいたときは、難民のことなんて話したこともなかったのにね」


 ――確かにそうだ。日本では、難民は遠い存在だったのだ。それこそ、別世界の住人のようなイメージで、実感ができなかった。その気になれば、今よりずっと救う手だては多いはずなのに。


「曹操軍が襄陽に入城しました!」

 襄陽に残してきた密偵から速報が入る。


 ――よし!

 これで少しは時間が稼げるかもしれない。



 ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽



「虎豹騎隊が動きだした」

 その報を聞いたとき、劉備陣営おれたちは震撼した。


 曹操軍の誇る最強の騎馬隊、虎豹騎。その隊長は、百名の将校クラスの中から選ばれる。難民を連れた劉備軍が到底逃げ切れる相手ではない。


 劉備軍の中で隊長クラスに対抗できるのは、関羽、張飛、趙雲の三人くらいだ。そして、関羽は、援軍を求めに江夏に向かってしまっている。


 神速の騎馬隊は、俺たちが難民と十数日かけて歩んだ道のりを、二日~三日で走破するだろう。幸い、長坂坡は目の前だ。日の出とともに長坂橋ちょうはんきょうを渡り、警戒態勢に入らなければならない。


 ――その夜。

 慣れない馬での逃避行で、体はくたびれ果てていたが、なぜか目が冴えてしまう。

 

 色んな妄想が頭を駆け巡り、脳が眠ることを拒否しているようだ。胃がしめつけられるように痛む。


「外、でよっか」

 気配に気が付いたのだろうか――。

 幕舎テントで横になっていた結月が小声で言う。


 澄み切った夜の空気が、肺を満たしていく。微風が吹き抜け、草むらがさらさらと揺れる。


 ここだけ切り取れば、この上もなく平和な夜だ。


「いやー、やっぱ綺麗だね。この時代の星空は」

 結月が草むらに座りこむ。俺も隣に腰かけた。


 暗闇に目が慣れてくると、星々は更に輝きを増す。

 眩いばかりの星座群は、子どもの頃習ったものよりもずっと多い。

 四年間、天候を予知するために何度も見上げてきた空だ。


「この星空を、今の日本の人たちも見てるかと思うと、何か不思議だね」

 西暦208年といったら、日本はまだ卑弥呼の時代だ。


 地上にはうっすらと火が灯っている。劉備を慕い付いてきた群衆が眠る駐屯地の方角だ。彼らは寝具さえなく、一枚の布を下に敷いて大地に横たわっている者たちがほとんどだ。


俺は、大きく息を吐き、結月を見つめる。

「眠れないんだ。どうしても」


「この数十万という人たちの命が、俺の采配一つで失われてしまう。そう思うと、怖くて堪らなくなる」

 結月が無言で見つめ返す。


「神様なんかじゃないのに、俺」

手元の草を引き抜き、空に放つ。風に舞って、夜の闇に消える。


 少しの沈黙のあと。

「ね、アキラ。神様っていると思う?」

 突然結月が聞いてくる。


「分からない。見たことないし」

「じゃ、なんで今、私たちここにいるのかな」


「それは、創に連れられて……」

「でも、創ちゃんだって全てを計算できたわけじゃない。そもそも、208年の赤壁に着くはずが、205年になっちゃったし」


「……まあ、あれは私のせいなんだけどさ」

 孫龍を助けに、結月が光の道を抜け出した結果、時間軸がずれて205年に転生してしまった。

――少なくても結月はそう解釈しているらしい。


俺は、かけるべき言葉を探し、やがて口をつぐむ。多分、真相は、創だけが知っている。


「……正直、転生しちゃったときは、こんな世界じゃ、絶対一年も生きられないっ!…って落ち込みまくったんだ」

  俺や孫龍の手前、気丈に振る舞ってはいたが、それは伝わってきた。


「でも、四年経った今も、こうしてアキラと隣り合って話せてる。これは絶対、私たちが一日一日を必死で生きてきたからだと思う」


 結月が俺の手を握った。

「だからたぶん、神様はお膳立てをしてくれるだけ。そこから先は、一人ひとりに運命は委ねられるんだと思う。あそこで眠る、一人ひとりに」


 結月の手が熱を帯びる。

 その体が俺の肩に預けられ、僅かな重みを感じた。

 ――今なら、想いを伝えられるかもしれない。


  その時。夜の帳が落ちていた駐屯地に、ぽっと明るい火が灯った。

 ……と思うと、その日は一気に燃え広がっていく。


 伝令の、ほとんど悲鳴のような叫びが、夜の静寂しじまを破った。

「曹操軍の夜襲だ!!!」 

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