208年・襄陽~劉備ノ逃避行~
「現在の状況を整理すると――」
俺は劉備やその家臣たちに説明する。
一、荊州軍を率いる最高司令官の蔡瑁さいぼうは、曹操と繋がっており、現在劉備軍に攻撃を仕掛けているのも蔡瑁一派である。
二、荊州軍内部には伊籍をはじめとする劉備派もいるが、なぜか沈黙を守っている。恐らく城壁周辺を蔡瑁の手勢が固め、城外に出られない状態なのだろう。
三、曹操軍は間近に迫っており、このまま民衆を連れて徒歩で移動していれば、間違いなく追いつかれ、虐殺が始まる。
「で、どうすればいい?」
重臣たちは浮足立っている。一刻の猶予もないといいながら、なぜこんなところで軍議をしているのかとでも言いたげだ。
「三つの策を同時に動かします」
「一つ目は、劉備様につき従って来る民衆の移動です。関羽殿は、襄陽から南へ流れる漢水を、乗せられるだけの民を乗せて、漢津に向けて船を出してください。その上で、江夏の劉琦様に援軍を求めてください」
「分かり申した」
「二つ目は、荊州内部の、劉備軍との共闘派への呼びかけです。今は、蔡瑁が城壁に陣取り、目立った動きは見せておりませんが、劉備様わがとのが呼びかければ、それに呼応する勢力が必ずいます」
「城門が閉ざされている状況で、どのように呼びかければよいのだ?」
「弩いしゆみを使います。――月英」
月英ゆづきは、自ら発明した大型の弩いしゆみを、数体持ってこさせる。
張飛戦に使ったクロスボウを大型にし、飛距離を格段に伸ばしたものだ。これなら城壁を越せる。
「この弩いしゆみに、決起を促す殿の言葉を記した手紙を括り付け、城内に飛ばします。それを読んだ襄陽内の劉備派が立ち上がることが狙いです」
俺は劉備に向き合う。
「その上で、殿はすぐに江陵こうりょうへと逃走してください。あの地は荊州第一の要塞の上、蓄えも多くあります」
「――分かった」
「三つ目は、曹操軍の食い止めです。張飛殿!」
「おう」
「本気を出した曹操軍は、民衆を連れた劉備軍に必ず追いつきます。その時、曹操軍をできる限り食い止めるのが張飛殿の役目です。特に、江陵との中間に位置する長坂坡は、道が狭く大軍では進めません。そこであれば……」
「任せろ!!!」
言い終わる前に張飛は勢いよく応答する。
「最後に趙雲殿。殿の奥方とご子息を、くれぐれもお守りくださいませ。あらゆる手段を使ってでも」
俺は、その眼を見て軽く頷く。趙雲も小さく頷き返す。
「かしこまり申した」
いよいよ、俺にとって初めての実戦が始まる。
そして、ここで負ければ全てが終わる。
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
月英率いる弩いしゆみ隊は、次々と、城壁内へと決起文を結わいた矢を放っていく。――暫くして、俄かに城内が騒がしくなる。
やはり、劉備派の重臣たちも、城外の異変には気づいていたのだろう。このまま城内で内乱が起これば、時間が稼げる。その間に、劉備とともに、少しでも遠くに逃げなければいけない。
「劉備様との。一刻も早く、江陵こうりょうへ出立しゅったつくださいませ」
周りの兵も急かすが、それでも劉備は動かない。
――何を待っているんだ?
その時、低い鉄の摩擦音を響かせ、南の城門が開いた。
「劉公叔!」
――劉備を呼ぶ声がする。あれは確か、劉表が存命の時に、襄陽じょうようの宮中で会った将軍の一人だ。確か、伊籍とともに劉備を信奉していた――。
「お待ちしておりました。この門は我が配下が抑えております。城内にお入りくださいませ!」
この展開はまずい!
一部の劉備派が決起したとはいえ、いまだ蔡瑁派が多数のはずだ。罠でないとしても、城内に入れば、囚われるのは時間の問題だ。
「お待ち下さい!」
劉備は、必死で止めようとする、俺の目を見返す。
「――分かっている、孔明。だが、俺自身の口で、襄陽の民と兵に伝えなければいけないことがあるのだ」
その言葉に込められた迫力に、俺は思わず口を噤つぐんだ。
そこには、見たことのない劉備がいた。涙もろくて騙されやすいいつもの劉備とは違う、王としての顔だ。
言うや否や、短く気を吐き、劉備は馬を城門の方に走らせる。
どうにかしなくては――。
俺は周囲を見渡す。今残っている将は……。
劉備の奥方・甘夫人と、子息の阿斗を乗せた馬車が視界に入る。では、馬上にいるのは――趙雲だ。
「趙雲!来い!!」
俺は叫ぶ。趙雲は、一瞬の戸惑いを見せる。それも当然だ。彼にとっての最重要指令は、甘夫人と阿斗の二人を守ることなのだ。
だが、城門に消えゆく劉備の後ろ姿を目にし、すぐに事態を把握したのだろう。趙雲もすぐに馬を走らせる。
俺と趙雲は、必死で劉備を追う。既に劉備の姿は、城門の向こうに消えている。
俺たちが城門を潜りぬけた時――。
劉備は、幾千もの人の群れの前に立っていた。
兵士もいれば民衆もいる。口々に劉備の名前を叫び、高揚した目で劉備を見つめている。凄まじい熱気だ。
群衆の中に、伊籍いせきを見つける。荊州の劉備派の中でも最も信頼でき、外交能力に長けた荊州の重臣だ。俺は急いで彼の下に駆け付け、手紙を託す。
だがその時、別の門を警備していた、蔡瑁の兵士も迫ってくるのが見えた。このままでは、この門が占拠されるのも時間の問題だ。
「襄陽の民よ、兵よ!」
熱気とざわめきの中でも、不思議と良く通る声で、劉備が呼びかける。
「今、この地は漢の逆賊・曹操の手に落ちようとしている。我はまだ、領土さえ持たぬ。だが、必ず、“義を法とし、人を礎とする”新しい国家を作り上げてみせる。その志を共にする者は、我についてくるがよい!」
一瞬の静けさのあと、雷鳴のような歓声が沸き起こる。
我先にと、雪崩のような群衆と兵士が劉備のもとに寄ってくる。
――これが、蜀の王となる男のカリスマ性か。
「我は江陵を目指す。ついて来い!」
もう一度叫ぶと、劉備は反転し、城門の外へと馬を走らせる。
劉備が、門に辿り着こうとした瞬間。
――蔡瑁の兵士が一歩早く回りこみ、城門の前で劉備に切りかかる。
それを薙ぎ払ったのが、趙雲の槍だった。
間一髪で劉備が門を抜ける。俺も必死でその後を追う。
だが、そこに蔡瑁の騎馬軍が追い縋すがってくる。俺の馬術では到底振り切れそうもない。
高速で走り続ける馬から振り落とされないことに必死で、とても刀など抜けない。
ついには横に並ばれる。相手が刀を抜く。もうダメか――。
ヒュッ!
短く空を切る音が聞こえ、隣の兵士が落馬する。
クロスボウを右手に構え、左手で馬を操る月英が走ってくる。
「アキラ、無事!?」
結月を先頭に、劉備の帰りを待っていた一部の劉備軍が合流してきた。
城門の方を振り向くと、群衆と兵士が、まるで一体の巨大生物が胎動するかのように、南の門から雪崩を打って劉備軍の後を追ってくる。この全てが、劉備の徳を慕って付いてきている民なのだ。
蔡瑁軍といえど、この流れはもう止められないだろう。
そこに、伝達の早馬が飛んできた。
「諸葛亮様、曹操軍が襄陽城に迫っています。曹操がこのまま進軍してきた場合、我々は長坂坡ちょうはんはにさえ辿りつけず……壊滅します」
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