208年・新野→襄陽~裏切リノ城~

 五十万の曹操軍が、荊州に攻めてくる。

その噂は、瞬く間に劉備陣営を駆け巡った。


 対する劉備軍おれたちは一万人、単純計算で五十分の一だ。

兵力を過大申告するが戦国の常とはいえ、とても戦える戦力差じゃない。


 頼みの綱は、劉表亡き後、荊州の都襄陽じょうように居を構える新王劉琮りゅうそう、そしてその叔父の最高司令官の蔡瑁だ。彼らの勢力は水軍を合わせると十万とも二十万とも言われている。


 劉備は、逝去した荊州の前王・劉表の信任が厚く、荊州の客将としてもてなされてきた。重臣たちにも劉備派が少なくない。――だが。


「もはや一刻の猶予もない。かくなる上は、この新野の地を捨てて、民とともに襄陽に向かおう。蔡瑁さいぼう殿の荊州軍と合流さえできれば、曹操軍にも対抗できるはずだ」

劉備が、関羽と張飛に告げる。


 だが俺は即座に反論する。

「恐れながら、その蔡瑁さいぼうが曹操の軍門に下ったという情報が入っています。今、襄陽に向かえば、逆に荊州軍に急襲される可能性があります」


 「何?誰がそんなことを言っている!?」

 ――未来の歴史本とはもちろん言えない。


 「とのある情報筋とだけ申し上げておきましょう」

「とても信じられんが……関羽、張飛、何か聞いているか?」

 

 二人とも首を横に振る。

 当たり前だ。裏切りは、裏から切らなければ・・・・・・・・・意味がない。


「孔明の言を信じないわけではないが……、もし蔡瑁の裏切りが本当だとして、劉琮様やその他の家臣はどうなのだ?」


「劉琮様はまだ年若く、叔父の蔡瑁の傀儡かいらいです。ただし、他の家臣の意見は真っ二つに割れているようです。例えば、重臣の伊籍いせき様らはもともと、兄の劉琦様の一派。降伏反対派でしょう」


 俄然がぜん劉備の目が輝きだす。

 ――しまった。余計なことを言ったらしい。


「では、まだ希望はあるということか。よし、やはり俺が襄陽に向かい、蔡瑁や他の重臣の説得を試みよう。まさか彼らも自国の民までは攻撃はしないだろう」


 ――ダメだ、この流れはまずい。

 劉備は、この戦国の世の武将としては、珍しく性善説に近い。


それが最大の魅力でもあるのだが、性悪説の相手と戦う場合は大概ロクなことにならない。


「なればいっそのこと、襄陽に進軍し、荊州軍を劉備軍に組み込んではどうでしょう?それであれば、曹操にも対抗できるかもしれません」


「大恩ある劉表様のご子息が治める、襄陽の地に攻め入るだと!そのような“義”にもとることなどできるか!!!もうよい、張飛、関羽、準備に取り掛かれ!」

 珍しく激高した劉備は、部屋から出て行ってしまう。


 ――どうやら劉備の逆鱗に触れたようだ。

「義」を全てに優先するのが、劉備の道なのだ。このモードに入ったらもう止められない。


 俺とて本当に蔡瑁が裏切ったかの確証は掴んでいない。歴史が変わり得る以上、劉備が蔡瑁を説得できる可能性も皆無とはいえない。ここは、その僅かな可能性に賭けるしかない。


 ただそれ以前の話として――。

家財道具を持った数十万の民を、新野から襄陽までの100キロ近い距離を、一気に移動させる――これ自体が至難だ。


しかも、到着したら、今度は蔡瑁軍から攻撃されるかもしれないのだ。曹操軍と挟み撃ちされたら、全滅の危険性さえある。


 だがあの調子では、もう劉備は俺の進言は聞かないだろう。水面下で動くしかない。


「結月、孫龍、頼みたいことがある」

 ――今は、やれることだけでもやるしかない。


∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽


 曹操軍を警戒し、民を守りながら進軍するのは、予想以上に困難だった。生まれ育った土地を離れて悲嘆にくれる老人や、疲労で泣き叫ぶ子供たち。加えて、武具や食料も運ばなければならないとなると、集団は遅々として進まない。


 だが、不幸中の幸いだったのが、曹操軍が深追いをしてこなかったということだ。

曹操にとって、数十分の一の兵力に過ぎない劉備軍を舐めて見逃してくれているのであれば、正直有り難かった。


――だが。やはり、現実はそう甘くなかった。


 疲労困憊で襄陽に到着した劉備軍と民衆を迎えたのは、雨のように降りしきる弓矢だった。

襄陽の都を取り囲む城壁の門は固く閉ざされ、荊州兵がその周りを固めている。


「自らの民を攻撃するとは何事だ!」

 劉備のそんな声もむなしく、弓矢の雨は止む気配がない。どうやら、劉備を城門の中にさえ入れるつもりはないようだ。


 ――反対に言えば、劉備に門の中に入れてはまずい事情が存在するということだろう。


 城壁の上に蔡瑁とその取り巻き達の重臣達の姿が見える。一方、劉備派の重臣たちは見当たらない。


「一体どうなってるんだ、これは!?」

民を攻撃された怒りで震えながら、劉備が俺の下にやってきる。

俺に対して怒っていたことなど、とうに忘れているようだ。


「やはり、蔡瑁と曹操が繋がっているのでしょう。最高司令官が曹操軍に降伏を決めている以上、荊州軍との合流は不可能だと思われます」


「そうか……。すまない、もとより孔明の言を聞いておけばこんなことには……」

ここで、素直に謝れるところが、劉備の仁徳なのだろう。


「いえ、いずれにせよ、新野にいても曹操軍を迎え撃つことは不可能でした。その意味で、ここまでは計算通りです。ですが、ここで少しでも躊躇すれば、曹操軍が追いついてきます。そうなれば、挟撃され全滅は免れません」


「ではどうすればいい?」

劉備が情けない声を出す。

「私に策があります。将軍たちを集めてください」

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