207年・襄陽~張飛トノ決戦~

  蛇矛を俺の顔面につきつけながら、張飛が凄んでくる。

劉の義兄あにきが優しくしてりゃあ、付け上がりやがって。てめえ、さっきの条件はなんだ!?」


 ――マズい。

 今まで読んだどの三国志の関連本にも、この展開は載ってなかった。


 まずは、今にも飛びかかってきそうな張飛を落ち着かせなければいけない。

「どの条件のことですか?」

「とぼけんな、“印綬いんじゅ”に決まってんだろ」


 やっぱりか……。


「印綬」とは、戦の総大将の印のことだ。印綬を与えられるということは、戦の全権代理を任されているということだ。


 “三国志演義”によれば、孔明はそのデビュー戦で、自分の命を聞かない将軍たちにこう伝えたと言われている。


「我は、わが君より、印綬と剣を授けられた。以後、私の命は、劉備玄徳様わがとのの命と心得よ。これに背くものはこの剣で容赦なく斬り捨てる」


 この言葉があったこそ、何の実績もなかった孔明の命令に将軍たちも従った。結果、大勝した孔明は、一気に信頼を勝ち得る――。そんな筋書きだ。


 ちなみにこの孔明の活躍は、三国志演義の作者、羅漢中の創作だと判明している。


  ただ、いずれにせよ、印綬がなければどうせ家臣は従わない――そう思った俺は条件の一つとしてぶっこんでみたというワケだ。


 だが、やはり、張飛と関羽のいるあの場でいったのはまずかった。

 二人にしてみれば初対面で、何の実績もない年下の男に、いきなり「命を預けろ」と言われたようなもんだ。


 隣に立つ、孫龍が心配そうに俺の顔色を伺う。


 よし!ここは潔く引くしかない。

「分かりました。印綬の件は諦めます」


 だが張飛は収まらない。

「何だと、てめえ!!!そんな軽い気持ちで言ってたのか。これだから口だけ野郎は信頼できねぇ」


「ではどうしたら……」

「決まってるじゃねえか、り合うんだよ。命を預けるってのは、そういうことだ」


 ――いよいよヤバい。


 無言の叫びを察知した孫龍が一歩前に出る。「私がお相手します」


「貴様のようなガキが俺の相手をするってのか?この張飛も舐められたもんだ」


 ――頼む、どうにかしてくれ。

 思わず関羽に、懇願の視線を送る。


 だが、関羽は別の方角を見ていた。視線の先にあるのは、茅葺かやぶき屋根の小屋だった。今は、結月が開発した農具や武具の物置場になっていて、孫龍の槍や俺の剣もそこにある。


 俺の心の願いが届いたのだろうか。


 視線をこちらに戻すと、関羽はこう言った。

「張飛よ、孔明殿は軍師だ。お前ほどの武力はなくて当然だろう」


 ――助かった。

 ……と思ったのも束の間だった。

「そこでだ。孔明殿が、ご家族を“用兵”し、一撃でも食らわせられたら、孔明殿の勝ちとしてはどうか」


 張飛が蛇矛を軽々と振り回して不敵に笑う。

「もちろんだ。こんなガキどもにやられるはずはねーからな。貴様ら、何でも武器を持ってこい」


 ――十分後。

 武具置き場から戻った俺と孫龍は、張飛に相対していた。

 孫龍は使い慣れた槍を、俺は剣を両手で構える。


「殺す気でかかってこい」

 張飛が蛇矛を軽々と振り回す。


 勝機があるとすれば、張飛が孫龍の腕前を知らないということだ。幼いころから叩き込まれた孫龍の武術は、夜盗程度であれば軽々と叩き斬れるレベルだ。


 ――だが。英雄と呼ばれる張飛にどこまで通じるかは未知数だった。


 始めの一撃は、孫龍が動いた。

 はやい。

 だが、張飛の表情は余裕だった。僅かに上体を揺らすと紙一重で躱す。


 だが孫龍も動じない。

 軽く息を吸うと、吐き出すと同時に槍ごと張飛の方に飛び込む。次の瞬間、槍が残像を残して軌道を変える。頭と心臓を同時に狙った二連撃だ。


 張飛が一撃目を躱わした瞬間に、二激目が心臓を狙う。避けられない――はずだった。次の瞬間、斜め下から上へと跳ね上がった張飛の巨大な矛が、軽々と孫龍の槍をぐ。


 ガキン。激しい激突音を響かせ、蛇矛と槍がぶつかり合う。跳ね飛ばされたのは、孫龍の方だった。あまり衝撃の強さに、孫龍は大きく体勢を崩す。


 張飛の矛が倒れかけた孫龍を襲う。どうにか槍の柄で受け止めるが、槍は大きくしなり、孫龍は地面に叩き付けられる。――一撃の重みが違いすぎる。


 ――情けないことに、俺が入る余地はなかった。もし間合いに入れば、即座に斬られるだろう。


 一度後ずさり、孫龍は呼吸を整える。

 刹那――。裂帛の気合いとともに、孫龍が再び跳ねる。一度だけ見たことがある、孫龍の隠し技。頭、心臓、そして腹部の三連撃だ。


 張飛が僅かに笑ったように見えた。後ろに下がり二撃目まで交わした張飛は、三撃目に合わせて今までを更に超えるスピードで孫龍を横殴る。ギリギリ防御は間に合ったが、吹っ飛ばされた孫龍は、地面にうずくまる。腹部を強打したのか――立ち上がれない。


 張飛がゆっくりと孫龍のそばに歩み寄り、矛を持ち上げる。

 ――られる。


「待て――!」

 喉から声を振り絞り、俺は張飛に向かって叫んだ。

 もつれそうになる足をどうにか進め、張飛と孫龍の前に立つ。


「孫龍は殺らせない」

 言葉とは裏腹に、手の震えが止まらず、構えが定まらない。


 張飛は、そんな俺を冷たい目で見下ろす。


「お前、今更死にに来たのか?」

 死の恐怖に身震いする。

 これが、本物の戦いか――。


 俺は、大上段に剣を構える。切っ先はまだ定まらない。


 だが、ここで引くわけにはいかない。

 身体の向きを変え、太陽を背にする。


 張飛は僅かに目を細めた。

「バカが、目くらましのつもりか。貴様の一撃なんて、目をつむって跳ね返せるんだよ」


 刃に日光が反射する。もちろん、こんな一撃で、張飛を倒せるなんて思っていない。だが俺にはこれしかできない。渾身の力を振り絞って、剣を振り下ろす。


 張飛は、幼稚園児のチャンバラごっこの相手するかのように、気の抜けた表情で蛇矛を振り上げた。


 瞬間、鮮血が舞った。

 血が滴り落ちている。

 張飛の手の甲から。


「なんじゃこりゃあああ!!!」

 手の甲から生えてきている矢に、思わず唸り声をあげる。


 間に合った。

 俺は安堵の息をつく。

 どうにかプラン通り進んだ。


 剣を振り下ろす瞬間、武具置き場に身を隠していた結月が、クロスボウで射撃したのだ。


 俺の一撃など目を瞑ってでも跳ね返せる張飛でも、太陽の光に紛れた短弓までは避けきれない。そう踏んでいた。


「……てめえ、殺す」

 弓矢を素手で引き抜くと、張飛が雄叫びを上げ、俺に向かって蛇矛を振り上げる。


「やめろ、張飛!!!」

 関羽の一喝に、空気が震えた。

 張飛の動きが止まる。


「お前は決戦を挑み、敗れたのだ。漢の約束を汚すな」

「いやでも……もともとこいつが、伏兵を使ったんだぜ」


「儂はこう言ったはずだ。“ご家族を“用兵”し、一撃でも食らわせられたら”、孔明殿の勝ちだと」

「あの納屋に隠れているのは、おぬしの妻だろう?」


 ――ああ、この人は全て見抜いていたのか。

 張飛の性格も、隠れている月英も、俺たちの戦略さえも。軍神と呼ばれる理由が分かった気がした。


 月英が納屋から出てくる。

「――大丈夫ですか?」

 射ぬいた張飛の手を取り、優しく布を巻きつける。


「お、おい……」

 顔を赤らめる。

 初めて、動揺する張飛を見た。


 関羽が俺の方を向く。


「諸葛亮孔明殿。儂は貴君が諸葛均殿弟君を助けに入ったとき、貴君になら命を預けてもよいと思った。ぜひとも、わが軍の軍師を務めて頂きたい」


 左手を右手の上に置き、頭を下げる。揖礼ゆうれいという、この時代の敬礼だ。


「まあ、漢の約束だしな」

 張飛も、まんざらでもない表情でと関羽に倣う。


 地平に落ちゆく太陽が、やたらと目に沁みた。

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