207年・襄陽~最悪ノ想定~

 ――死ぬかと思った。

 張飛との戦いを終えた正直な感想だ。


「いやー、やっぱ強かったですねー。張飛殿」

 孫龍が、憧れの面もちで呟く。

 ――殺られかけたのに、どんだけポジティブなんだ。


「速かったね、想像以上に」 

 張飛と孫龍の一騎打ちの間も、結月はずっと標準を定めていたという。


 だが、あまりの両者のスピードに、射るタイミングを逸し続けていたらしい。


 逆に言えば、俺の太刀筋が遅すぎたせいで、油断した張飛への最後の一射が命中したと言える。


 俺自身、一度野盗に襲われた時――孫龍がほとんど片づけてくれた――を除けば、実戦は初めてだった。


そして張飛は、農民崩れの野盗とは完全に格が違った。この戦乱の世に、生まれながらに戦い続けている男の実力は、俺たちでは到底測れない。


 だが、何よりも俺を暗い気持ちにさせていたのは、


 張飛と孔明の戦いは、どの歴史書にも書いていない。明らかに、俺が付け加えた”三つの条件”が引き起こしたイレギュラーな展開だ。


 ――そもそも、もし俺があの場で死んでいたら、どうなるんだろう。


 諸葛亮孔明が、三顧の礼のその日に死ねば、当然その後の歴史も変わってくる。天下三分の計は成らず、中華の歴史は大きく変貌するはずだ。


 劉備軍に入ると決めたとき、俺はまだどこかで甘く考えていた。歴史書に書かれている展開さえなぞれば、歴史はその通り進むのだと。


 しかし、この現実はそんなに甘くない。たった一つの失言で、首と胴が離れ、歴史も変わる。


「まーた、なんか考えすぎてるでしょ」

結月が俺の頭を小突く。元気付けようとしてくれるらしい。


「俺、もっともっと修行します!」

孫龍が明るく宣言する。全く、このポジティブ思考に救われる。


 ま、確かに、自分でコントロールできないことを考えすぎても仕方ない。俺は、”三つの条件”をどう実行するかについて思いを巡らし始めていた。


 ∽∽∽∽∽∽∽


 俺が劉備軍に加わることへの条件は、三つあった。


 一つ、戦の際には、印綬を授与し、戦略指揮の全権を与えること。


 ――これがとんだ騒動を巻き起こしたが、結果的に関羽と張飛を説得できたのは収穫だった。最高幹部の二人が認めれば、自ずと他の将軍たちも付いてくるはずだ。


 二つ、灌漑設備と租税制度を整備すること。


 この時代、日照りや大雨により、しばしば農作物が全滅していた。風や雲、星や植物の状況をつぶさに観察することで、天気予測はある程度可能になったものの、肝心の水がコントロールできなければ計画的な農業生産はできない。


 また、集合離散を繰り返すこの時代において、どこに誰が住んでいるかの把握は極めて難しかった。


しかし、魏の曹操や呉の孫権と比して勢力に劣る劉備軍は、農民の戦力化は必須だ。豊作を支える灌漑設備で農民を引き付け、租税制度で人数を把握することで、いざという時の兵力を整える必要がある。


 三つ、こと。


 ――え、誰?

 この名前を出した時の劉備たちの反応だ。

まあ、当然だろう。この時代、創の名前を知っているのは俺と結月、そして孫龍だけだ。


 俺の兄貴、如月創の行方の手がかりは、いまだ見つかっていない。戸籍さえ整っていない戦乱の世において、人探しは極めて困難だった。


 だが一方、優秀な人材については、有力な諸侯による争奪戦が行われていた。まだ勢力は弱いものの、人望と名声は天下に聞こえている劉備が"個別指名"すれば、それだけで世間では噂になるだろう。


 劉備たちには、「如月創は、」と伝えていた。この孔明おれが足元にも及ばない才能の持ち主だとも。――一つも間違っていない。


 もちろん、これでも見つかる保証などない。だが、何もしないよりは遥かにマシな選択肢だろう。


「ホント、どこにいるんだろうね、創ちゃん」

孫龍の手当をしながら、結月が少しだけ遠い目をする。


「俺もお目にかかりたいです!」

赤壁公園での俳優時代、孫龍も創が作った通訳AIにお世話になっていたいらしい。


「いやー、ネットの記者会見見てて、真の天才って、ああいう人のことをいうんだと思いましたよ。この時代でも、意外に有名人になってるんじゃないですかねー」


――言われてみれば。

創ほどの天才であれば、この時代でも既に名が知れていても不思議じゃない。むしろ、諸葛亮孔明なんて、俺なんかじゃなくて創こそが転生すべきなくらいだ。


それを超えるような存在が、この世界にいるのだろうか?


――!!!

最悪の想定が頭をよぎった。

三国志史上、“智の天才”を孔明だとすれば、“全能の天才”と呼べる男が独りだけいる。


魏国王、曹操孟徳。

これから殺し合いを始める相手だ。

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