207-208年・新野~劉表ノ死~

「――あり得ない。創が、あの曹操だなんて」

 思わず俺は呟く。

 確かに二人とも天才だ。ただ、自分の中の兄貴像と、暴虐な曹操のイメージがどうしても結びつかない。


 だが、否定できない事実こともある。


 赤壁公園で、シャオは確かにこう言った。

「208年の赤壁で、創様が待っています」――と。

 208年は、曹操率いる魏と孫権・劉備連合軍が激突した、赤壁の戦いの年だ。曹操であれば、間違いなくそこにいる。


 ――そもそも、なぜ創は俺達をこの三国時代に呼び寄せたのだろう。

 母子家庭で育ったせいか、創は今まで他人を頼ったことはほとんどなかった。


 プログラミングの知識を独力で身に着けてからは、自分自身だけでなく、家族全体の家計を支えていた。俺が大学まで行けたのも、創のおかげだ。


 そんな創が、俺たちを呼んでまで成し遂げたかったことは何なのか。赤壁の戦いに関わる、重大な何かではないのか?

 ――そう、例えば、を覆すような ……。


 ごっ!

 結月が後ろからどついてくる。

「当たり前でしょ。あの創ちゃんが、曹操なわけないじゃない。自分の思い通りにならないからって相手を殺すような男になんか、絶対ならない」


 こんな時の結月はシンプルだ。

信じるべきものを、信じ続けるだけだ。


「そうっすよ、信じましょう。二人きりの兄弟のことを」

孫龍も力強い口調で言う。


「――そうだな」

あり得ない妄想やいまだ起こっていない現実に気をとられ、大切な“今”を見失うのは俺の悪い癖だ。


 俺も信じよう。

俺の中に生きる創を。家族として共に過ごしてきた時間を。


∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽


208年・新野


――劉表死す。

その報が流れたのは208年、孔明おれが劉備軍の軍師として参戦してから、1年が経過したころだった。


 劉表は、魏と呉に隣り合う荊州一帯を治める君主で、この地に20年間の平和をもたらした立役者だ。10万の兵力と肥沃な土地を有し、天下統一を狙う曹操も、彼が健在な間は、容易くこの地に手は出せなかった。


 だが、彼の最大の欠点は、決断力不足にあった。


「魏軍を攻めるのは、今しかありません」

 207年、曹操が遼東に遠征し、魏の本拠地を留守にした際、孔明おれは劉備を通して何度も進言した。だが、様々な言い訳をして、結論を先延ばす。


 急ぐべき理由など言えるわけもない。「殿」なんて言ったら、打ち首ものだ。


 人は誰しも、過去の延長線上に未来を描こうとする。この戦乱の世であっても、20年平和が続けば、事前と来年もまた平和が訪れると自然と思ってしまう。そしてなぜか漠然と、“自分だけ”は長寿を全うできると信じたがる。


 翌208年、曹操が遼東を制圧し、荊州への進撃を決めた時、劉表は既に死の病に臥していた。当然ここで、後継問題が勃発する。だが、彼は後継者についてもやはり決めきれなかった――。


 もともと、彼には二人の子がいた。兄の劉琦と異母弟の劉琮だ。この場合、兄の劉琦が王の座を引き継ぐのが当時の常識だ。


 劉表も、始めはそのつもりだった。だが、二番目の劉琮の母が、荊州で最も力を持つ重臣・蔡瑁の姉だったため、彼らの息のかかった家臣たちの反対に遭う。結果、後継者を即位させないまま、この世を去ってしまう。


 ――っとに、もうっっ!!!

 小学生のころ、初めて三国志を読んだときも、この劉表の煮え切らない態度に苛立った記憶がある。当事者となった今となっては、なおさらだ。


 それでも、劉備軍の軍師として1年を過ごした今は、少しは気持ちも分かる。結局、二律背反トレードオフのだ。


 彼は、荊州数十万の命を背負い続けていたのだ。戦を選ぶことは、その民全てを危険にさらすということだ。


 また、跡継ぎにしても、もし劉表が強引に長兄・劉琦を即位させれば、自らの死後、蔡瑁たちが反乱を起こし、更に多くの死人が出る可能性さえある。


 迷った俺は、折衷案として、兄の劉琦を荊州東部の江夏こうか防衛の任に就かせるよう進言する。都から離れることで、暗殺の危険性は減るが、後継者として可能性も低くなる。結局はこれも二律背反トレードオフだ。

 

 そういう意味で ”歴史の未来”を知っていることは、決して万能ではない。むしろ、決断の足かせになることが多い。


一度、結月と孫龍に聞いてみたことがある。


「もし未来につながる二つの道があって、片方の道には“それなりの不幸”が待っていることが、その内容まで予め分かっているとする。もう一方の道は、50%の確率で幸福が、50%の確率で"恐るべき不幸”が待っている。自分なら、どっちの道を選ぶ?」


 孫龍は即答する。

「幸福になれる道に、決まってるじゃないっすか」

――質問の前提を聞いていたのか?と思うほど、清々しいまでのポジティブさだ。


 一方、結月は少し考える。

「うーん、やっぱ幸福かな。分かっていて不幸の道を敢えて選んでしまったら、その道を歩むこと自体がすごくしんどそう。50%であっても、幸福に向かって歩んでいると思えるプロセス自体は、大切だと思うんだ」


 俺も、当初はそう思っていた。だが、軍師への就任後、迷いが出てきた。待っている不幸の内容が分かれば、それなりに準備ができる。結果として、不幸を緩和することくらいはできるかもしれない。


 幸福を求めて可能性に賭けるか、不幸を最小にすることを狙うのか――。答えはまだ出せていない。


 だが、決断の刻は迫っている。天下統一に向け、曹操軍が今まさに胎動しようとしている。


100万の命がかかった選択が、この手に委ねられる日が、すぐそばまで近づいている。

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