208年・江夏~民人ノ咆哮~
曹操軍の追撃を辛くも逃れた劉備軍は、劉琦の治める地、江夏に身を寄せていた。
一週間前、江夏に到着し、ようやく一息ついた俺を襲ったのは、激しい恐怖と後悔だった。
きっかけは、軍の治療テントに足を運んだことだった。
そのあまりの無残な状況に、俺はその場にへたり込んでしまった。腕や足を無くした者、深い傷を負い一歩も動けない者、外傷はなくとも、心神を喪失し、虚ろに空を見つめる者……。
いずれも、現代日本では一度も見たことのない光景だった。もちろん、今まで骨折くらいは経験はある。だが、ここにいる傷の深さも、人数も圧倒的だった。そして、この惨事をもたらしたのは、軍師たる俺の失策なのだ。
孫龍に支えられながら、ふらつく足でどうにか部屋に戻ると、俺はシーツをかぶり、ベッドの中で震え続けていた。
こんなことなら、諸葛家で死ぬまで農業をやっていれば良かった。いや、そもそも、創のメールなんか無視していれば……。後悔が波のように押し寄せ、頭の中で渦を巻く。
結月や孫龍は、こんな俺を何とか励まそうと声をかけてきてくれる。だが、今の俺にとって、あらゆる励ましの言葉が空虚に響く。結月が運んでくれる食事もほとんど喉を通らず、俺は、部屋に引きこもり続けた。
そんな日々が続いたある日。
「劉備殿がお呼びです」
劉備の配下の伝令が、俺の部屋に訪れてきた。
正直、まだ誰にも会いたくはない。
だが、思えばもう一週間以上、劉備たちと顔を合わせていない。
さすがに総大将からの呼び出しを、無視し続けるわけにはいかない。
――軍師、クビかもしれないな。
久しぶりに礼服に袖を通しながら、ふと思った。
この責任から逃れられるのであれば、それもいいかもしれない。
だが、孔明の故郷・襄陽も曹操の手に落ちた以上、帰る地もない。
部屋の外には、同じく礼服に着替えた結月と孫龍が立っている。
――正直、気まずい。
二人も空気を察したのか、何もしゃべらず、ただ、俺の後についてくる。
伝令に連れて行かれたのは、王の間と呼ばれる大広間だった。
「諸葛亮様、諸葛均様、月英様がお着きになられました」
部屋には、江夏の領主たる劉琦をはじめ、客将という立場の劉備、関羽、張飛、趙雲といった将軍たちが一堂に会している。その重々しい雰囲気に気後れし、俺は思わず下を向く。
そんな中劉備は背中を向け、窓の外を見ている。
――やはり、曹操戦での失策を怒っているのだろうか。
敗戦の弁を述べようとするが、言葉が出てこない。
何を言っても言い訳になる。
兵や民の命を失うということは、言葉で贖えるようなことではないのだ。
劉備が、こちらを向いた。
「そなたに、見せたいものがある」
ぎぃぃぃぃぃぃ。
重々しい音を立て、外への
一瞬、熱風が吹き抜けた気がした。
高台に立つこの城からは、城下の様子が一望できる。
そこから見えたのは、地平を埋め尽くすほどの兵と民の群れだった。
傷つき、支えられている兵士や民も少なからずいる。
だが、その顔は上気し、群衆は熱気を放っている。
彼らは劉備の名前を、口々に叫んでいる。
劉備が声を張り上げる。
相変わらず、良く通る声だ。
「この度の戦、皆の者には本当に苦労をかけた……。曹操軍の容赦ない攻撃に傷つき、旅の途上で倒れた者もいよう。家族や財産を奪われた者もいるだろう」
群衆から低い呻きが聞こえる。
すすり泣き始めるものもいる。
「だが!!!いかに曹操軍と言えど、決して奪えないものがある。それは俺たちの誇りと尊厳だ。どれほどの圧倒的な暴力であっても、俺たちの心までは支配できない」
劉備の声が更に大きくなる。
それに呼応するかのように、民は右手を突き上げる。
「俺たちは今、住み慣れた故郷を追われ、この江夏の地に身を寄せている。だが、ここはあくまでも
絶叫にも近い、民の喚声が地上を埋め尽くす。
その熱狂は極限に達しようとしている。
――やはり、劉備の器は本物だ。
常に王であろうとする曹操とは違う。民がいてこそ、劉備は真の王となる。
気が付くと、俺の視界は涙で曇り始めている。
そんな劉備が、一瞬、俺の方を向いた。
そして観衆に向き直して、こう宣言した。
「そのために、皆にこの
――は!?
急に名前を呼ばれ、頭が真っ白になる。
「行ってこい!」
張飛に、思いっきり背中を叩かれた。相変わらずの怪力で、思わずふらついた。
俺は、傍らの結月の方を見る。
結月は、「ちゃんと見てるから」と笑いながら微笑む。
おずおずと出てきた俺の肩を、劉備がぽんと叩く。
そして、自らは半歩さがり、おれを前へと押し出す。
「諸葛亮孔明は、圧倒的な魏の軍勢を前に、最期の最後まで知力を尽くし、俺たちを江夏まで導いてくれた。もし、
民が、口々に俺の名前を叫び出した。
諸葛亮様万歳!軍師様万歳!!
言葉にならない感情が、俺を駆け抜けた。
あれだけの命を奪った俺のことを、こんなにも熱狂的に受け入れてくれている。
――そもそも、人生で、こんなに大勢の前に立つことなどなかった。
格好いい言葉なんて、まるで出てこない。
俺は、ひとこと、こう叫んだ。
「全ては、民のために!そして蜀のために!!」
巨人の咆哮のような民の雄叫びが聞こえる。
熱狂に包まれながら、未来へと続く一筋の光が確かに見えた気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます