208年・漢津~最期ノ希望~

――劉備軍おれたちは必死で逃げ続けていた。

長坂橋では、張飛の活躍と、“大軍が待ち伏せをしている”と見せかけた孔明おれハッタリブラフで、何とか曹操軍を退けられた。


だが、あの曹操が騙され続けるはずはない。

いずれ、俺たちの真の目的地が、荊州の要衝・江陵にあることに気づくはずだ。


「それにしても、軍師殿が俺の策を採用するとはな!」

馬で併走する張飛が、得意気に話かけてくる。

長坂橋ちょうはんきょうを燃やせば、すぐには曹操軍も追ってこれまい。俺の戦略もなかなかだろう!」


 自画自賛する張飛に、俺は思わず苦笑する。


 確かに俺は、長坂橋を燃やした・・・・・・・・。だが、理由は、張飛が思うほど単純じゃない。


 “三国志演義”には、張飛が独断で橋を燃やしたことにより、逆に曹操は劉備軍のハッタリブラフを見破った……と記されている。もし本当に大軍が待ち伏せているなら、橋など壊さず、渡らせた方が合理的だからだ。


 だが俺は、そこからもう一歩思考を進めた。燃え落ちた橋を見て「待ち伏せはいないと思わせて進軍したところを、逆に待ち伏せているのではないか……」という疑心を、曹操に抱かせようとしたのだ。


 もちろん、普通ならいくら曹操でもそこまで考えないだろう。だからこそ、軍師たる俺が、去り際の曹操の前に敢えて姿を晒した・・・・・・・・のだ。


 組織の頭脳たる“軍師”は、通常、最も安全な場所、つまり主力部隊と共に行動するる。だからこそ、孔明おれがあの場にいる以上、主力部隊も潜んでいる――そう思わせたかった。


くぃっ。

不意に、後ろから袖をひっぱられる。

気が付くと、結月の馬も、俺の斜め後ろにまで近づいてきていた。


「あとでちゃんと説明してもらうからね」

……それだけじゃないでしょ、とでも言いたげな眼差しだ。


――その通りだ。

俺たちは、あの問いに答えを出さなければいけない。

あの曹操が、如月創あにきなのかという問いに。


∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽


 俺たちはそのまま一昼夜走り続けた。疲労は既に限界に近付いていたが、ここで留まるわけにはいかなった。


 天然の要塞で、軍資金や兵糧が豊富な江陵を手に入れられるかで、今後の戦局は大きく変わってくる。ここさえ抑えられれば、暫らくは持ちこたえられるだろう。


だが、数刻後、俺たちを待っていたのは絶望的な知らせだった。

「曹操軍が、既に江陵を包囲しています!」


――!?


いくらなんでも早すぎる。

長坂橋から全力で走り続けてきた俺たちを追い抜くのは、物理的に不可能だ。

しかも、全く気づかれずに。


――いや、違う。

恐らく曹操軍は初めから軍を二手に分けていたのだ。


俺たちを追撃するとともに、別動隊が江陵を攻める。

俺たちが一次的に追撃の手を逃れたとしても、江陵に着けば挟撃はさみうちの布陣が完成するという寸法だ。


全ては曹操の掌の上だった。

曹操の底知れぬ才能に戦慄する。


「孔明、どうする?」

やつれた表情の劉備が聞く。


おれはしばし宙を見つめ、苦渋の決断を下す。

「江陵は――諦めます」


兵士たちにざわめきが走る。

ここまで死力を振り絞って走り続け来たにも拘らず、突然目指すべき場所ゴールを失ったのだ。誰もが、魂が抜けたような虚ろな表情をしている。


「では、残っている選択肢は、玉砕覚悟の戦だけか」

「――いえ。まずは長江に面する都市、漢津に進路を変えます。そこから、劉琦様の待つ江夏へと参りましょう」


劉琦は、かつて暗殺者の手から守ってくれた劉備に恩義を感じているはずだ。


だが、劉備の表情からは悲壮感が漂う。

「漢津まではまだいい。だが、江夏は遠すぎる。途上、必ずや曹操軍に追いつかれよう。敗走の兵として後ろから切られるよりも、誇りを胸に曹操軍と正面から戦ったほうがよいのではないか」


「死地に赴くことは、勇気ではありません。最期まで足掻いてもがいて、生き残ろうとすることこそが勇気なのです」


俺は大きく息を吸う。

「まだ希望はあります。あと少しだけ、私を信じてお進みください」

「……分かった」


∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽


漢津にようやくたどり着いたとき、兵はもう一歩も動けない状態だった。

目の前には、長江が悠然と流れている。

千八百年後と、全く変わらない緩やかな流れだ。


結月も疲れ果てた表情で、俺にもたれかかっている。


再び伝令が再び飛んで来る。

「あと数刻で、曹操軍がこの地にたどり着きます。その数、数万!」


その報を聞いても、誰も立ち上がろうとしない。

せめて相手が来るまで、少しでも休みたいというのが本音だろう。


待ち望んでいる希望は、影も形もない。


劉備が、再び俺の傍らに座ってきた。


怒りをぶつけられるのだろう……。

だが、劉備の口から出た言葉は、意外なものだった。


「孔明、俺はお主に謝りたい。襄陽で平穏に暮らしていたお主を、無理に巻き込んでしまった。そうでなければ、月英と今でも平穏に暮らせていただろうに」


俺は言葉に詰まる。


「だが、同時に嬉しかった。漢の再興という俺の夢物語を、本気で信じ、実現してくれようとするその姿が……。お主は、まさに四人目の兄弟・・・・・・だ。だからこそ、この力が尽きるまで、お主と月英はこの俺が守ろう」


既に死を覚悟した目だ。

俺は、死の淵でなお、俺たちを思ってくれている劉備に感動していた。


そして、渓谷に囲まれる長江のその先を見つめた。


――その時。

大河の向こうに、幾多の船影が現れる。

あの旗は……。


「劉備様、劉琦様の水軍です!!」

伝令が全軍に響く声で叫ぶ。


関羽だ。

難民を船で運んでいた関羽が、これ以上動けない俺たちの窮状を察し、劉琦を説得して、救助船団を引き連れてきてくれたのだ。


絶望の中の最後の希望が、ようやく姿を現した。この長い長い逃避行が、壊滅の序章か、逆転の端緒になるのか。まだ誰も知らない。

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