208年・当陽~張飛ノ蛮勇~
「我が名は張飛翼徳!死にたい奴だけ、かかってこい!!!」
長坂橋の中央で、ただ一騎で数万の曹操軍に立ち塞がっている。
だが、相手も天下にその名が知られる虎豹騎だ。威嚇だけで引き下がってくれるほど甘いわけがない。
そのうちの一騎が、無言で橋の前に馬を進めてきた。手に握っているのは槍のようだ。
緩やかなモーションから、一瞬強く手綱を引いたかと思うと、一気に馬が加速する。次の瞬間、槍と馬が一筋の閃光のように張飛に突進していく。
だが、張飛は全く動じない。上体を反らして槍を躱すと、迷いなく蛇矛を相手に突き刺した。
矛はやすやすと胴体を貫き、張飛はそのまま身体を空中に持ち上げる。蒼天に、虎豹騎の串刺しのシルエットが浮かぶ。
「返してやるよ」
張飛が蛇矛を横に振ると、力を失ったその
曹操軍が俄かにざわつき始める。
次に馬を進めてきたのは、矛を右手に構えた男だった。
甲冑や馬の装飾からして、隊長クラスだろう。体格だけなら、張飛にも劣らないほどの巨漢だ。
「名くらい名乗れよ」
張飛が完全に上から目線で言う。
相手の苛立ちが伝わってくる。
だが、それでも律儀に声を張り上げる。
「我こそは、許昌にその人ありと謳われた……」
ざしゅ!!!
名乗り上げている途中、張飛が放った槍がその喉元を突き破る。
いつの間にか、一人目の兵士の槍を奪い取っていたようだ。
「長げーんだよ」
張飛が吐き捨てる。
――ヒドい。俺でさえ思わず呟きたくなるほどの蛮勇っぷりだ。
「よくも隊長を!!!」
次は、一気に三人が馬を走らせてくる。
この橋の幅だと、三人、多くて五人の一斉攻撃の限界なはずだ。
張飛の矛が、一番右の騎兵を横から薙ぎ払った――と思うと。
ぬんっ!!!
右手の力だけで、中央と左の騎兵ごと巻き込み、そのまま蛇矛を振り切った。態勢を崩した左の兵士は、橋の下に叩き落される。
「張飛兄貴、やっぱ格が違うっすね」
後ろから、感心した声が聞こえてくる。
――今さっきまで曹操軍に囲まれ、ぼろぼろのはずの孫龍だ。
実際、樹にもたれかかるように立っている。お前は帰って救護を受けろ。
虎豹騎隊に、明らかな動揺が見られる。
どうやら、隊の中央付近の誰かの顔を伺っているようだ。
――恐らくは、敵将・曹操孟徳だ。
頼む、ここで引いてくれ。いくら張飛と言えど、これだけの大軍を相手に、長期戦になったら勝ち目はない。
相手の陣形が変化する。
馬群が、さっきと同様に横三列に組み直される。更に、同じ編成が後ろに二列並んだ。
つまり、横3人×縦3人の一団が出来上がっている。
まずい、波状攻撃をかけるつもりだ。
縦の列同士が近すぎれば、当然自軍の馬同士がぶつかり合う。
よほど手綱捌きに自信があるのか、或いは誰を犠牲にしても、張飛一人の命さえ取れればいいということか。
曹操の冷徹な判断力に、背筋が寒くなる。
これが、俺が戦っている相手なのか。
ハッ!
短い気合いとともに、九体の騎馬が一気に橋の上を駆けてくる。
うぉぉぉぉぉぉ!!!
張飛が蛇矛を再び一閃する。
先頭の三人をなぎ倒し、それに足を取られた後ろの三人も落馬する。
だが、最後の三人が、まだ生きている兵士を踏み台にして、張飛の方に向かってきた。
三本の槍が同時に張飛を襲う。
――間に合え!
俺は心の中で叫ぶ。
刹那。
空気を引き裂く音とともに、無数の短弓が、最後列の三人の体に突き刺さる。
背後の草むらから、結月率いる短弓隊が発射した弓だ。
といっても、この兵士不足の中で、呼び寄せられたのはせいぜい十数名だ。
だがそれぞれが、同時に五本の矢が放てる、結月特製のクロスボウを構えている。
射手の姿は曹操軍からは見えない。大軍に見せかけるためだけの
「全員、射ち続けろ!!!」
俺は、号令をかける。
張飛の頭を超えて、短弓が曹操軍へ降り注ぐ。
一本一本の威力は大したことはないが、弓が突き刺さった馬は痛みと恐怖で暴れ出す。そして、その恐怖は隊全体に伝染する。
先ほどまでの一糸乱れぬ用兵が嘘のように、虎豹騎隊はパニックに陥っている。
だが、こちらの矢にも限界がある。このまま射続ければ、あと数分で矢は切れる。
俺は、曹操の聡明さに賭けた。
ここはまだ、雌雄を決する場所ではないはずだ。
そんな思いが通じたのか――。
曹操軍は再び隊列を変え、背中を翻す。
撤退だ――。曹操と思われる男の後ろ姿が、微かに視界に入った。
ひとまず胸を撫で下ろす。
――だが。同時に、俺はこの期に及んで迷っていた。
"あのことを確かめるには今しかない"。
「結月、弓を!!!」
短弓をひったくり、俺は橋の上に立つ張飛の隣に駆け寄った。
「我が名は諸葛亮孔明、又の名を、如月アキラ!曹操孟徳、我が矢を受けろ!!」
俺は、そう
もちろん、俺のへなちょこな矢など刺さるわけはない。
だが、少なくても曹操を取り囲む一団には届いたらしい。
僅かに軍列に乱れが生じ、中央の将軍がこちらを振り向く。
――あれが、曹操。
ほんの一瞬だが、その男と目が合う。
瞬間、得体の知れない悪寒が脊髄を駆け抜ける。
――この男は、危険すぎる。
俺の直観が告げている。
こいつは、自らの覇道の前に立ち塞がるものは、全て飲み込む貪欲な巨大な獣だ。
いや、ブラックホールとさえ言えるかもしれない。
俺は、早くも、矢に託したメッセージを後悔し始めた。
そこには、ただ一言、こう書かれていた。
『赤壁で待つ』
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