現代・赤壁~光ノ道~
「西暦208年!?」
聞き返そうとしたその時。
ごうっ!
音が聞こえるほどの疾風が駆け巡った。
大粒の雨が頬に触れたかと思うと、一気に豪雨と化した。雷鳴が轟き、周囲の観光客が、慌てて建物の方に避難していく。
慌てて折り畳み傘を開こうとするが、この風では一分と持たないだろう。
そんな中、シャオが平然と言い放つ。
「今から、長江のほとりに降ります」
――長江。数え切れない歴史を越えてを悠然と流れるこの大河は、古来より、多くの詩人がその雄大さを讃えている。
だが、そこで俺たちが目にしたのは、想像を絶する光景だった。さっきまでゆるやかだった長江の流れが一変し、激流となり渦巻いている。
だが何より不思議なのは、大河のある一点から、遥か上空に向けて帯状の光が伸びていることだ。まるで台風の目のように、その部分だけは青空さえ見えている。
「きれー……」
横殴りの雨に打たれながらも、結月が思わず呟いてしまうほど、それは神秘的な光景だった。
その光の帯は、ゆっくりと、こちら岸へまで広がってきている。
「あの光の道が、創様の時代へと続いています」
光は既に手の届く距離に迫っている。あと少しで俺たちを包み込むだろう。
思わず後ずさる俺たちに、「大丈夫。動かないで」とシャオが穏やかにたしなめる。
光が俺たちに触れると、光の帯の表面がわずかに震えた。川岸まで広がっていた光が一気に収縮し、ちょうど俺たち二人が入るくらいの筒状の光の筋へと変化する。
俺たちは、長江の中に立っていた。
光の中心は凪ぎのように穏やかだ。だがその外側では、恐ろしい勢いで渦巻いている。
――その時、川岸から、叫び声が聞こえた。
「待ってろ、今助けにいく!」
あの武具と声には見覚えがある。さっきの趙雲だ。
どうやら、俺たちが溺れていると勘違いして、飛び込もうとしているらしい。
「いや、ちょっと待て!」
思わず日本語で叫ぶ。
しまった。これでは伝わらない。えーっと、中国語では...
だが、そもそもそんな言葉は彼に聞こえてないようだ。信じられないことに、彼は武具さえ脱がずに飛び込んできた。
あれだけの運動神経の持ち主だ。
普段であれば決して溺れないだろうが、この急流の中、武具を着たままで泳ぎきれるだろうか?
――どうする?
助けにいったとしても、俺たちもろとも溺れ死ぬ可能性の方が高い。スポーツ万能の結月だが、唯一の弱点が水泳だった。
だが結月に迷いはなかった。「助けてくる」と言い残すと、間髪いれずに濁流の中へと飛び込んだ。
――ヤバい!
思わず俺の身体も動く。
「ダメ!!!今離れたら、時間軸がずれてしまう!!!」
激しい口調で、シャオが制止する。
だが、その間にも結月は離れていく。迷っている暇などない。結月を追って、濁流に飛び込む。
泥水が口に流れ込む。せき込むこともできぬまま、必死で水面に顔を出すと、と遠くに、結月の顔が見えた。趙雲の姿はない。
その方向へと、必死で手足を動かす。息ができない。心臓が軋みだす。
それでも手を伸ばし続ける。何度も何度も何度も。意識が朦朧としてくる。
何かに触れた気がした。必死で掴み寄せる。結月だ。
名前を呼ぶが返答はない。水を飲みすぎて意識を失っている。
両岸は遥か遠い。
結月を抱えては、とても泳ぎきれない。ならば――。
あの光の帯に戻るしかない。まだかろうじて視界にあるが、数十メートルの距離が無限にも感じる。
再び水を飲んだ。心が折れそうになる。
――諦めるな。
自分に言い聞かせる。想いさえも伝えないまま、ここで果てるわけにはいかない。
一メートル、また一メートル光の帯に近づく。手も足も感覚はもうない。気力を振り絞り、水を掻く。全身の筋肉が悲鳴を上げている。
不意に。
身体に絡みついていた抵抗感が消えた。
ずしゃ。
光の帯に包まれたかと思うと、水底の土に頭から突っ込む。
空気が肺に入り込む。辿りついた。
結月は――?
傍らで眠るように横たわっている。
息は――ない。
パニックになりかける頭を、理性で必死に食い止める。
まずは、飲みこんだ水を吐かせなければ。
気道を整え、唇を重ねる。繰り返し、繰り返し、俺の肺の空気を送り込む。
――頼む、こっちに戻ってきてくれ。
酸欠で頭が朦朧とし始める。意識がある限り、何度でもやってやる。
結月の腹部が震えた。
ごぼっ!
口から水があふれ出る。
結月が激しくせき混んだ。意識が戻り始めている。
その名を繰り返し呼び続ける。
「アキラ…?」
結月の目がうっすらと開く。深い安堵が全身を駆け巡る。
その時、武具をまとった男も、俺たちを包む光の帯に飛び込んできた。
全身ずぶぬれで、肩で息をしているが、無事のようだ。
――よかった。
疲労が一気に体に落ちてくる。もう、精神も肉体も極限に達していた。
そこから先のことは、曖昧な記憶しかない。
白銀の光の粒子に包まれた俺たちは、天に向かって上昇し始めた。
――いや、そう感じていただけかもしれない。
浮遊する感覚はあったが、俺たちの身体は、確かに水底に横たわったままだったからだ。
身体から離れた意識だけが、ぐんぐんと上昇している。現実離れした光景だったが、極限に達した疲労で、恐怖さえ感じない。
三つの光が、雲へと届こうとした瞬間――。
俺たちの知る世界は消失した。
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