第6話 月の光
「お!? 起きたか」
透哉のスマホの明かりが二人の周りだけを照らしている。そこには無造作に、恐らく地震によって崩れたのだろう、書類やファイル、椅子などが散乱している。その部屋の片隅に膝を抱え込むようにして眠っていた絵理が起きた。
「……あぁ。私寝ちゃってたんだ」
絵理は目をゴシゴシとこすった。大きく両手を広げ伸びをした。
「今、何時?」
「19時30分だよ。ほら、これ飲みなよ」
透哉は水のペットボトルを絵理に渡した。
「ありがとう。でも、これどうしたの?」
絵理の疑問はもっともだった。この状況下において、水などどうやって手に入れたのか。
しかし、絵理のその疑問はすぐに解決された。透哉は部屋の奥の方を指した。絵理はその指先の奥に目を移した。部屋は電気がなく暗闇に包まれている。奥の方はどうなっているのか暗くてよくわからなかった。
「あそこの奥に冷蔵庫があったんだ」
透哉も自分のペットボトルの蓋を開け、水を一口飲んだ。
「まぁ、こんな状況だしさ、大丈夫でしょ」
透哉が笑うと、絵理はくすっと笑った。
「あんまりよくないとは思いますけどね」
絵理も一口飲んだ。喉を通るゴクッという音が透哉にも聞こえた。
「スマホの明かり消すね」
「うん」
透哉はそう言うとスマホの明かりを消した。理由は二つあった。
一つは、スマホのバッテリーの問題だった。透哉のバッテリーはそろそろ尽きかけていた。
二つは、誰かに見つかってしまうということだ。地震からおよそ6時間を経過していた。
14時2、30分くらいに、透哉と絵理は神保町駅付近のビルに着いた。透哉たちが駆け込んだこのビルは奇跡的に、崩壊の危機を逃れていた。
逃げ込んだ直後、津波の一部が神保町を襲った。危機一髪だった。
二人は停止しているエレベーターを横目に、非常階段を駆け上がり、ビルの屋上まで登った。螺旋階段を上る途中に、大津波が東京駅の方を襲っているのが確認できた。
景さんは無事だろうか。透哉は気がかりだった。
屋上までたどり着くと、津波が押し寄せ、今度は引いていくのが確認できた。車で逃げようとしていた人や、普通に道路を歩いていた人が流されていく。この世の物とは思えない、まるで地獄を見ているかのようだった。
津波が押し寄せてから3時間を過ぎた頃に、水が引き始め、人が歩けるまでになった。
透哉たちのように、津波から難を逃れた、人たちが外に出てくるのが見えた。
透哉は屋上から小さく見える人達の奇行を見て、ゾッとした。
この災害の連続で頭が狂ってしまったのか、道端に転がっている死体を解体していた。何か身に着けているものを盗んでいるのかもしれない。
その連中の一人が透哉のいるビルの屋上の方に振り向いた。
透哉は咄嗟に顔を隠した。どうやら、ばれてはいないようだった。
暴徒は本当にいたんだ。当時は災害のデマだとばかり思っていたが。
ああいう奴らに見つかってはいけない。恐らく、見つかったら何をされるかわからない。それも女性には特に。
「夜はなるべく動かない方がいい」
雲に隠れていた月が二人を照らす。透哉影が絵理の影に重なる。
「なんで?」
「藁谷さんは眠っていたから……外には危ない奴らがいるんだ」
月明かりに照らされている透哉の表情は険しい表情だった。
「危ない奴?」
絵理が聞き返した。
「ああ。暴徒と化した奴らがいるんだ。相当やばいと思う」
透哉はペットボトルを強く握りしめた。そのせいでペットボトルがギチギチと音を立てた。
「そっか。それじゃ彼女の所には中々いけそうにないですね」
「うん。仕方ない。たぶんあいつも無事だと思うんだ」
透哉はそうは言ったが、内心焦っていた。絶対に無事ではない。その言葉だけが脳裏に反芻した。
「だといいですね」
絵理は水を一口飲んだ。
「そういや、ずっと気になってたんですけど、透哉君は高校生なの?」
恐らく、ずっと疑問に思っていたのだろう。フフッと笑うと透哉は口を開いた。
「そうだよ。高3だよ」
本当は28歳だけど。そんなことは言えなかった。
「まじ? もっと上だと思ってました」
絵理は目を丸くして驚いている。しかし、絵理の第一印象は当たっていたのかもしれない。
「なんで?」
「だって、なんか冷静だし、なんかね」
絵理は何か腑に落ちない感じだった。
「ははは。よく言われたりして」
透哉の笑顔は引きつっていた。
「どこの高校?」
「三鷹高校だよ」
えっという驚きと共に絵理の目がまた一段と大きく見開いた。
「……一緒ですね」
「まじで?」
透哉も驚いた。同じ高校の奴がこんな近くにいたなんて。透哉は高校の時の記憶を探るが、藁谷絵理なんて名前は聞いたこともなかった。
「私は二年だから、先輩ということか……」
「……ということになるかな」
二人はクスッと笑った。
「透哉先輩。番号教えてくださいよ」
絵理が聞いてきた。2人の間にスマホの明かりがぽうっと包んだ。
「わかった。ちょっとまって」
透哉は口頭で絵理に伝えた。絵理はちょっと待って、というのを2回程、番号を聞き返して入力していた。
絵理は登録した番号を選択し、通話ボタンを押した。数秒後、透哉のスマホが光、バイブレーションで震えた。ディスプレイには番号だけが表示されていた。とてもわかりやすい番号だった。
それよりも、透哉が気になったのは通話ができたということだった。
「あ」
という絵理の声が漏れた。
「電話回線が復旧しているのか?」
透哉はスマホをいじり、連絡先から葵の番号をタップした。通話の接続音が鳴る。繋がった。透哉の強張った顔が笑顔に変わった。
「もしもし! 葵!」
沈黙が数秒続いた。
「誰だこいつ」
知らない男が出た。
「え?」
透哉はスマホを耳から離し、ディスプレイを確認した。楠木葵の名前が表示されている。しかし電話に出ているのは男だった。
「もしもし!?」
透哉は通話越しの相手に呼びかける。
「お前誰だ?」
低い声で透哉に問いかけた。
「お前こそ誰だ!」
透哉の怒声が静寂なビルの一室に響いた。
「ああ。お前。彼氏か」
男は冷静な口調で返してきた。
「葵はどうした?」
「葵? 知らないな」
透哉の手が震えている。スマホがギチギチと軋む。
「ちょっと待て。お前は何か誤解をしている」
「どういうことだ」
透哉は目の前にあった椅子に腰かけた。
「偶然拾ったんだ。ちょうど俺の携帯も壊れちまって」
「だったら、そこに女の子はいなかったか?」
「いや、いなかった」
「そうか……」
「ここももう終わりだ。まるで地獄のようだ。あっ! まただ。すまん電話を切るぞ! またあいつらだ」
通話が切れた。透哉は通話が終了した画面を眺めていた。そこには楠木葵の名前が表示されていた。
「大丈夫? どうしたの?」
絵理が心配そうに話しかける。透哉は絵理の方を見ただけだった。スマホに照らされる透哉は悲しい顔をしていた。
透哉は目の前の机を両の拳で力強く叩こうとした時、ビルのどこかで大きな音がした。
「何か物音がした」
透哉はスマホをポケットにしまうと、絵理の隣に移動した。
「ごめん。大丈夫だ」
「物音しましたよね?」
絵理はそう言うと、スマホをバッグにしまった。スマホのライトが消え、部屋が暗くなった。
「誰か来たな」
「そうみたいね」
「非常階段を使って逃げよう」
透哉はそう言うと、絵理は頷いた。足音を立てないように、デスクの間を低い姿勢のまま進んだ。
「この辺りからなんか音が聞こえたよな?」
部屋の外から男の声が聞こえた。どうやら複数いるようだ。
「反対側のドアから出よう」
透哉は小声で言った。絵理は無言で頷く。散乱した書類やファイルの上をゆっくりと手をついて進んでいく。
ドアのところまできた透哉は、音を立てないように、ドアを開けた。手を絵理の前に出し、制止させた。
男たちが部屋に入るまで透哉は待った。ガチャッとドアが開く音がした。男たちが部屋に入ってきた。透哉は男たちが入ってくるのを確認すると、開けておいたドアから廊下にでた。
そのまま、非常用ドアを目指そうとしたとき、見張りとして廊下に待機していた一人に見つかった。
「いたぞ!」
見張りの男が叫んだ。
「くそっ」
透哉は絵理の手を掴んで、非常用のドアまで走った。透哉はドアを開けると、絵理を先に行かせた。次に透哉が入り、ドアを閉めた。
地上へ逃げようとしたが、下から声がした。
「何人いるんだよ」
透哉は呟いた。
「屋上に行こう」
絵理が言った。透哉は頷くと絵理の手を引っ張って階段を駆け上った。2人の後を追うように男たちの足音が聞こえてきた。
屋上にたどり着くと、透哉の足が止まった。絵理は腕時計を見た。19時58分を回ったところだった。上空にはとても大きな月が透哉を照らしていた。
「綺麗」
絵理が呟いた。こんな状況でも立ち止まって見惚れてしまうほどだった。
透哉が絵理の手を引いた。
「行くよ」
透哉はそうは言ったが、完全に袋小路だった。
男たちも遅れて屋上へ辿り着いた。
「逃げるなよ」
一人の男が言った。どうやら手には何か光るものが握られている。
「やっちまおうぜ」
坊主の男が言った。
透哉と絵理は一歩。また一歩後ずさった。透哉は絵理の手をぎゅっと握った。絵理の身体がフェンスに当たった。どうやら行き止まりのようだ。
「この人たちって、さっき透哉君が言ってた……」
「たぶんね」
透哉の額に汗が滲む。
「大丈夫。君は死なせない」
透哉は握っていた絵理の手を離した。
「ごちゃごちゃ何話してんだよ!」
右側にいる男が叫んだ。
「透哉君?」
絵理は透哉本人が透哉でなく思えた。そんな錯覚を感じた。
「男からやっちまおう!」
男がそう言い終るときには、透哉は男たちに向かって走り出していた。
透哉の背後から絵理が何か叫んでいたが、透哉の耳には届かなかった。
月の輝きが一段と増し、月の光が透哉達を包んだ。透哉は急に意識が遠くなっていくのを感じた。男たちが目を丸くして指を指しているのを見たのを最後に透哉の意識は消えた。
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