第5章
第26話 現実と夢の続き
狭い六畳一間。何かを調べるわけでもなく、何かを見るわけでもなく、椅子の背にもたれかかり、ただパソコンの画面を眺めていた。暗い部屋の中。仄かにパソコンの明かりだけが部屋を照らしている。
右手でグラスに注いである酒を飲む。
ガチャッとドアノブを下げる音が背後から聞こえた。誰かが部屋に入ってきた。透哉は振り向いた。
……阿依か。
透哉はパソコンの画面をみた。
「真っ暗じゃない」
阿依は電気をつけた。髪はポニーテールにしており、部屋着を着ている。
「また、ぼーっと酒を飲んでるの? 今日は何の日か知ってるでしょ?」
透哉は返事をしなかった。知っているだけに、忘れたいけど忘れられない辛い記憶だった。
阿依はため息をついた。
阿依は部屋に入ると、壁に掛けられた写真に目がいった。
「懐かしいな~。葵さん。それに博人さんに麻美さん」
阿依はまじまじと写真を見ている。昔を思い出しているようだ。
「博人さんはかっこよかったし、麻美さんは変な人で面白かったし、葵さんは……」
透哉が振り向いた。
「もうそれ以上言うな」
透哉はそう言うと、グラスに残っている酒を飲み干した。
「言わせてもらうけどね。お兄ちゃんはあの日から変わっちゃったよ。確かに、あんなことがあって皆おかしくなっちゃったけど。失ったものもたくさんあったよ。でも皆、前を向いて頑張ってるじゃない」
阿依の言葉が胸に沁みる。少しイライラしている自分がいるのを感じた。透哉はそれでも黙って聞いている。
「お兄ちゃんは、あの日に死んだんだよ。あの地震の日に、お兄ちゃんは生きのびたのかもしれないけど、死んだんだよ!」
阿依は強い口調で透哉を責めた。透哉は椅子を引いて、クルッと身体を阿依に向けた。
「お前……」
「葵さんだって今のお兄ちゃんを見たらなんてい言うか……」
阿依の瞳から涙が零れ落ちる。
透哉の瞳からも涙が零れ落ちた。阿依が涙を手の甲で拭いながら歩き、透哉の目の前に立った。透哉は阿依を見上げた。
「しっかりしなよ!」
阿依は透哉の頬を平手打ちした。透哉の顔が左から右へと傾く。じんじんと左頬が痛む。左手で頬を抑えた。
「……そうだよな。俺、行ってくるよ。あいつの所へ」
死んだ魚の様な目をしていた透哉の目に光が宿った。
透哉は涙を拭った。
「透哉君」
俺の名前を呼ぶ声が聞こえる。誰かに肩を叩かれた。1回、2回。次いで肩を揺すられた。
目を開けた。雑音が聞こえる。ぼんやりする視界。吊革につかまる人。目の前には小さな子供をなだめている女性。どうやら電車の中にいるようだ。車内放送が聞こえた。車窓から高層ビルが見える。ここは東京だろうか。
「透哉君?」
俺は声のする方へ振り向いた。目が合った。隣には葵が座っていた。
「葵?」
何かの間違いか?
頭はぼんやりしている。目をこする。
涙?
不思議そうにしていると葵が心配そうな眼差しで見てきた。
「大丈夫? 少し強く叩きすぎたかな?」
首を傾げながら、もう一度目をこすった。指に涙が付着する。
あれは夢か? いや……違う。あれは……。あの日、俺は確かに変わったんだ。
「……なんでもないよ」
俺はそう言って微笑んだ。
「え~気になる~」
葵は頬を膨らませ、不満気だった。
東京駅へ着く車内アナウンスが流れた。
そうか。俺たちは東京駅へ向かっていたのか。
車窓からは高層ビルが立ち並んでいるのが見えた。
東京駅に着いた。ドアが開くと一斉に乗客が降りていく。席を立ち俺たちも電車から降りた。
俺は葵の手を取った。葵の柔らかい手の温もりが伝わってきた。葵は少し恥ずかしそうに顔を赤らめていた。
そうか。俺はまた過去に戻ったのか……
葵の横顔を見る。楽しそうに目が笑っている。視線に気づいた葵は俺を見た。
「なに?」
首を振った。
「何でもないよ」
突然葵は俺のお腹めがけて軽く小突いてきた。
「言いたいことははっきり言ってよね」
俺は頭を掻いた。
「いや。ううん。時期がきたらな」
「なによそれ」
葵は不貞腐れ、俺の手を離すと、一人スタスタと歩いて行ってしまった。人込みに紛れてあっという間に見えなくなってしまった。
行先は分かっている。福島へ戻るための新幹線乗り場。どうせ葵はそこで待っている。
俺は20~23番ホームの東北新幹線改札前を目指して歩いた。
やっぱり葵はそこにいた。葵が近づいてくる。怒っているのか? 両こぶしが握られている。
「なんで追いかけてこないかな~。普通追いかけてくるよね?」
葵は腕を組んでムスッとしている。
「色々考えてたんだ。どうやったら葵と一緒にずっといられるかって」
葵が一瞬、照れたような顔をしたようにみえた、刹那、お腹に軽い衝撃が走った。俺はお腹を押さえた。
「変な事言うなし」
「なんでパンチするんだよ」
俺は笑った。葵も照れ笑いしている。葵は何かを思い出したかのように、バッグに手を入れゴソゴソ探している。女性のバッグはそんなに一体何が入っているのだろう。葵は探していたモノを取り出した。
「これあげる。私とお揃い。っていうか2つで1つっていうのかな」
俺はそれを受け取った。
「……これは」
チェーンを持ち、まじまじとそれを見た。
「このネックレス知ってるの? 日暮里の谷中銀座の出店で買ったんだ」
葵はそう言うとネックレスを首に下げた。
「知ってるも何も……いや何でもない」
胸中複雑な気持ちになった。右手でネックレスを握りしめた。
「どうしたの?」
葵が顔を覗き込んできた。
「いや、なんでもない。それより、このネックレスは日暮里の谷中銀座で買ったんだな?」
葵は不思議そうな目で俺を見た。
「そうだけど? さっき言ったじゃん」
「まぁ、そうなんだけどさ。どんな人から買ったんだ?」
葵は、「あー」と言いながら、思い出そうとしている。そして、すぐはっとした顔をした。
「そうそう。おじいさんだよ。おじいさん」
「おじいさん? その人がこれを売っていたのか?」
「うん。まだ何個かあったよ?」
「何個も!?」
俺は右手で口元を覆った。まだあるのか。何とかして止めないといけない。のかもしれない。
「さっきからどうしたの?」
葵は少し混乱しているようだ。当の本人はこのネックレスについて何もわかっていない。当然のことだ。
「いや、なんでもない」
時計を見た。あまり時間はない。恐らく、この話をしても意味がない。景さんも記憶は最初のままだって言っていた。でも話しておきたい。
「いいか? 時間がないから単刀直入に言うから。最初から……最初から、信じてくれるなんて思わない。今から言う事は、結局葵は忘れてしまうんだけど、それでも、葵には話しておかなくちゃいけないと思ったんだ」
「え? え?」
葵は突然のことにそわそわしている。新幹線に乗る人たちが慌ただしく改札を通っていく。
「俺は。俺はな……」
俺は葵の顔を見れなかった。
「……未来からきたんだ。本当は28歳。10年後の俺なんだ」
チラッと葵を見ると、葵の目が丸くなっているのがわかった。ハハっと葵が笑った。一転、表情がなくなった。
「透哉君、何言ってんの?」
葵の言葉を無視して俺は続けた。今度は葵の眼をしっかり見た。
「俺は2028年7月15日に、新宿にお前に会いに行った。そしたら、記憶が遠くなって。気づいたらこの世界にいた。そして、お前に会うことができた。だから、今度こそ助けようと思った」
葵は首を傾げる。
「ごめん意味がわからない。端折りすぎだし。助けようと思った? どういうこと?」
俺は頷いた。
「未来では、葵、お前は7月15日に東京湾で起きた大地震の後、新宿で行方不明になったまま見つかっていない。世間的には死んだことになっている。それで、俺は毎年7月15日にお前に会いに新宿に行っていたんだ」
葵は目を丸くして驚いた。ぽかんと開いた口を手で押さえた。
「すぐ、信じてくれとは言わない」
「うん。よくわかんないもん」
葵は腕を組んで、右足で地面を鳴らしている。
「今年の7月15日に大地震が起きる」
「7月15日って言ったら来月じゃない」
葵の言葉に力が入る。
「うん。そうなんだ。でもな、この日を境に葵は、どう表現していいかわからないんだけど、今の葵は存在しないことになってしまう」
「存在しない? どういうこと?」
俺自身どう説明していいかわからなかった。葵は俺の肩を掴んだ。
「どういうこと?」
俺は葵から視線を外し、首を横に振った。
「わからないんだ。俺は何度かこの世界をやり直している。その度に、葵に伝えたはずの事が記憶になかった。それは葵に直接確認したから間違いない」
葵は目を瞑った。どうやら頭をフル回転させ、理解しようと努めているのだろう。でも、俺が話していることは理解できないだろう。
「ごめん。余計混乱させちゃったかもしれないな。ただ。葵。いや、なんでもない」
肩を掴んでいる葵の手を取った。
「そろそろ時間だ」
葵は納得していない様子だったが、「うん」と一言だけ返事をした。
葵は元気のない足取りで改札を通る。数歩進んだ後振り返った。
「透哉君。何を言っているかよくわかんないけど、多分、私は、今の私はいなくなるんだね」
そう言うと、葵は一度下を向いた。それから顔を上げると笑顔で手を振った。その後、振り返ることはなく、ホームへと歩いていった。俺は何もいう事が出来なかった。葵の後姿が見えなくなるまで立ち尽くすのみだった。
ネックレスを見つめた。この日から始まったんだ。もしかしたら、葵は自分の運命を抗うために、何も知らずこのネックレスを買った。
そして、自分を助けてくれるように俺に託したのかもしれない。
自分本位の考えだが。そうであってほしい。そうじゃなければ、このネックレスは何の為に俺たちの手に渡ったのか。到底理解できなくなる。
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