第1章
第1話 スーパームーン
今日はいつもより星がとても綺麗に見える。目を擦り過ぎて、赤く腫れた目でもよく見えた。神木透哉(かみきとうや)は、自転車に乗り三鷹駅に向かっていた。前方を注意しながら何度も空を見上げた。
あれから、10年か……
透哉は2018年のあの東京を襲った大震災の事を思い出していた。毎年7月15日に近づくにつれ思い出す。それというのも、テレビで毎年放送されているからだった。一周年、三周年、○○年、なんでも記念にすれば良いってもんじゃない。
そんなことを思っているうちに三鷹駅に着いた。透哉は市が運営する駐輪場に自転車を止めた。そして、籠に入れていたリュックサックを掴み、背負った。
駅前は土曜日ともあって、人で溢れている。路上で演奏するシンガーソングライターの声からは、2000年代にヒットした懐かしい歌が聞こえてくる。が、曲名は思い出せなかった。歩道橋を上り、改札へと向かう。透哉は左腕に身に着けている時計を見た。時刻は19時を指していた。改札から見える電光掲示板。東京行きの中央線快速電車は19時3分発と表示されている。
透哉はsuicaをズボンのポケットから取り出し、改札にかざして通った。急いで5番線に続く階段を下りた。
ホームには等間隔に二列縦隊の列ができている。間も無くして到着した中央線快速電車は人で隙間なく埋まっていた。ドアが開くと、大勢の人が降りたが、それと同じ数だけ乗車した。透哉を乗せた電車は、人々を揉みくちゃにしながら、ゆっくりと走り出した。ガタンゴトンと音を立て、車体が揺れる。
透哉は思い出していた。10年前の今日も電車に乗って新宿に向かっていた。あの時は、心躍るような、一分一秒でも早くあいつに会いたい気持ちでいっぱいだった。透哉は目を瞑った。透哉の脳裏で10年前の映像がフラッシュバックする。
透哉はゆっくりと目を開けた。車窓からは街明かりが見える。10年の歳月は街を、東京を再生させた。しかし、戻らないものも多くあった。犠牲になった人の命だけは戻ってくることはなかった。あいつもその一人だった。
透哉はあの時の事を色々と考えていた。しばらくすると、アナウンスが流れた。
「まもなく、新宿です。お出口は左口です」
透哉は腕時計を見た。19時25分を指している。まだ時間には余裕があった。
電車から降り、東口を目指して歩く。あの当時では考えられないほどの人が新宿駅に戻っていた。透哉は思った。人の力は本当に凄いと。あの絶望の日からここまで持ち直すのだから。
人混みを掻き分け、階段を上り、東口に出た。目の前に見えるビルには当時から変わらないスタジオアルタの巨大スクリーンがある。どうやら、あの後、すぐ作り直したらしい。また、待ち合わせ場所にも使われているサークル上の広場ではイベントが催されていた。
透哉はスタジオアルタの方へ歩いた。巨大スクリーンから音声が聞こえてくる。
「今日、7月15日はスーパームーンの日です! 今年は10年前の2018年と同規模の大きさのようです」女性キャスターが話す。隣に座っているコメンテーターも何か興奮気味に話していた。スーパームーンは願いが叶うという伝承がある。だから、海外などでは、未だにそういう信仰があると言われていると。
透哉は半信半疑でその手の話を信じていた。おそらく、今日は日本中で月を見ながら願う人が大勢いるだろう。それほど、テレビの影響力は大きい。
透哉は目的の雑居ビルまで歩いた。巨大スクリーンから発せられる声は小さくなり、次第に聞こえなくなっていた。
真新しいビルに挟まれるように立っている雑居ビル。透哉はその雑居ビルの裏口の非常階段を一段ずつ上っていく。腕時計を見ると19時45分。半分を上り切ったころに、雲の隙間から月が顔を出した。
あの日のように丸々と大きく、手を伸ばせば届きそうなくらい大きな月だ。
この雑居ビルも当時は倒壊してしまうのではないかと思われていたが、震災後すぐ補修工事がなされた。当時と外観は多少変わってしまったが、透哉にはそんなことは別にどうでもよかった。あの時、助けてくれた、それだけの理由で十分だった。
屋上に着き、透哉は背負っていたリュックサックを地面に置いた。
透哉は地面の砂を振り払って、仰向けに寝そべった。Tシャツしか着ていなかったので、コンクリートの地面はひんやりした。
時計の針は19時55分を指した。ニュースによると、今日見ることができるスーパームーンは、20時が一番大きく見えるという話だった。勢いよく飛び出してきたわりには、なんとかギリギリ間に合うことができた。
透哉は月を見ながら、10年前の記憶を蘇らせた。
新宿で13時にデートの待ち合わせをしていたこと。電話が繋がらなかったこと。待ち合わせ時間に来なかったこと。その後、東京湾を震源とした大地震が起きたこと。しばらくすると、大津波が都心を襲ったこと。自分の事しか考えられず、逃げ回り、雑居ビルに駆け込んだこと。
月を避けるように雲が流れている。上空何万メートルでは風が強いみたいだ。
透哉は首から下げているネックレスの半月のチャームを右手で握りしめ、月に向かって願った。
……葵に会いたい
小さい声で一言だけ呟いた。
透哉はチャームを握っていた右手を離すと、重い腰を起こし起きあがった。ジーンズに着いた砂利を両手で払い落とした。
月に照らされた半月のチャームが美しく光っている。透哉は月を見上げた。あの時のように美しくそして、眩しかった。
目がくらんだ一瞬、突風が透哉を襲った。それはまるで、身体が持ち上げられるように、綿毛のようにどこかに運ばれるような、ふわっとした感触だった。気持ち良いと感じられるほど、とても心地よかった。
そのまま、透哉自身意識が遠くなっていくのがわかった。抗おうとするが、無駄ということが直感的に感じた。意識が消えかける中、ちらっと見えた時計の針は20時ちょうどを指していた。
……葵に会いたい
心の中で念じていると、完全に透哉の意識は消えた。
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