天使展・慈母

 まるで拷問具か何かのような台座の上に飾られた少女の成れの果てが哀れにすすり泣く姿を前にしたとき、私はよくぞ吐かなかったものだと思う。人は己の許容量を超えた悪趣味や残酷に触れたとき、自らの心からその毒を排するために、嘔吐という単純な肉体反応を儀式として行うものなのだと、私はこの日初めて学んだ。

 吐き出すという動作は、口から胃の内容物を取り出すだけのことではない。嘔吐に際して人間の内臓及び筋肉は、「吐く」という一連の動作に多大なスタミナを消耗する。その消耗こそが、己に「毒を排した」と納得させるための儀式であり、精神的な爽快感・開放感を呼び起こすための強烈な自己暗示となるのだろう。二日酔いも悪趣味もグロテスクも、本質的には精神の不快感そのものであり、全ては「吐く」という単純かつ生理的な行為によって消化されうるのだ。

 つまり、嘔吐を拒否した私に残された選択肢は、このおぞましい作品を日常として受け入れ、精神を鈍化し、慣れを獲得する以外には存在しないということになる。私はこの先幾度となく、このような悪魔の芸術に向き合わねばならないのだろうから……。

 大きく深呼吸。大丈夫、問題ない。待ち受けるものを知って覚悟さえ決めていれば、存外どんなものでも人は受け入れられるのだ。もちろん、それが他人事である、という条件付きではあるが……。

 さて、結局のところ、私がなぜこの生きた少女の人形を見て吐き気を催したのかといえば……曲がりなりにも、彼女が人間だった頃の姿を知っていたことが原因だろう。情が湧いていた覚えはないのだが、どうも、こうまで極端に悲惨であると、気分が悪くなるのも無理はない。まして、ある程度好かれていた身なら、なおさらだ。

 かつて、父親が両足を無くして帰ってきたとき、その姿の変わりぶりになんとも気味の悪い感覚を覚えたのを思い出す。見知った姿から明らかに形の変わった人体というのは、道徳云々に関わらず、どうしても原始的な警戒心を煽らずにはいられないものなのだ。そして、少女の身に起こった変化の質は、私の父の比ではない。吐き気ぐらい当然である。

 私の前に飾られた少女のアウトラインは、両脚が無い、羽が生えた美しき天使の姿であるのだが、聞くところによるとその翼は、脚を上手く加工して作られたものらしい。なんでも、つま先を無理やり背中に突き刺してから、脚そのものを翼の形に、あたかも背中から生える羽の如くに作り変えたと……そのため、翼の先端はよく見れば、股の部分に細く繋がっているわけである。加工さえしていなければ、サーカスの軟体芸人が、自分のつま先を両肩につけているような姿勢であるはずなのだ。当然そんな姿で直立できるわけもないので、天使には重たく豪華な金属の台座が突き刺さっている。形はまるで違うが、なんとなく、フォークに刺さったチキンを思い起こさせる見た目である。

 だが、少女の全身の中で最も目を引く部位は、幼い顔立ちに似合わない、妊婦らしく膨らんだ腹であろう。

 少女の丸い腹の周囲には、白と桃色の宝石のような突起物が花のように複雑な形態で折り重なっている。一言で表すのならば、美しい乳白色の蓮の中心に、受胎した腹が鎮座するような様、ということになるだろうか。その花弁は職人曰く肋骨と骨盤を加工して作られたものであり、独特の陶器のような質感は、肉を焼き潰しては再生するという作業を繰り返すことで、限界まで不純物を排した結果だという。なるほど花弁を構成する肉の細工は、少女本来の肌とは明らかに質感が異なっていながらに、まさしく茎や葉と花びらの関係性のごとく、彼女の体と見事に調和している。

 しかし、だからこそ、この少女の姿は気味が悪いのだが。つなぎ目が自然であるからこそ、あたかも彼女はその姿で生まれてきた妖魔のようで実におぞましい。前に見たときには普通の体であった彼女が、まさかこんな化物となっていようとは……。

 この件における私の最初の仕事は、どこから連れてきたのかもわからないこの少女をとにかく妊娠させることだった。いくら美少女とはいえ毛も生えていない子供など願い下げだった私は、同僚の変態にその仕事を譲って、自分は世話役兼監視役に回ることにした。同僚が仕事熱心だったおかげか、ストッパーだった私は彼女から少しは頼られる立場であったと思う。

 胸のむかつきを自覚しながら、今一度、天使の顔を見上げる。ブラウンのストレートヘアの間にのぞく、幅広のデコが魅力的な、愛嬌のある少女である。それだけに口にハメられたかせが不釣り合いで、ますます悪趣味だ。結局彼女が妊娠させられた意味とは、肉体を妊婦として成熟させるためであって、つまりはそれも天使としての加工の一部だったわけである。つくづく、不幸な子……。

 ハラハラと、涙を流していた両の目がうっすらと見開く。ガラス細工のように憂いを帯びたその瞳が眼下に棒立つ私を見つけた瞬間、わずかに驚きの表情を見せたのに耐えられず、私は目を逸らしてしまった。

 ……やめてくれ。

 そんな姿で、人らしい仕草をしないでくれ……。

 あまりにも、哀れすぎる。

 今の今まで忘れていた、彼女に初めて「ありがとう」と言われた瞬間のことを思い出して、また少し気分が悪くなった。情が移ったはずはないのだが……そもそも、彼女を地獄から救い出す素振りも見せず、それどころか天使のアトリエというさらなる悪夢の中へとその身を運び込んだのは私であるのだから、今更同情をする権利などないだろうに。

 ……参ったな。こんなことでは、いけない。

 本番は、まだこれからなのに。

「素晴らしい……」

 と、低く震える濁った声が、私の背筋をドロリと撫でた。先程から、いびつな天使を恍惚と眺めていた私の雇い主、Kの声である。かつては財界の大物として、長く権力を振るい続けていた男であったが、狂った趣向にその身をとした今となっては、往年の威厳など見る影もない。

「本当に、素晴らしいよ……さぁ、はじめてくれ」

 Kの言葉を合図に、ハサミを持った天使の職人が、スッと音もなく私に横に歩み出た。私はこの、素性の知れない黒魔術師が嫌いだ。なぜだかわからないが、近くにいるだけでも精神が摩耗し、呪いをかけられているような心地がする。できれば声だって聞きたくない。

 職人は、黒く大きなハサミをチャキチャキと鳴らしながら、ゆっくりと天使の顔を見上げ、ピエロのようにニッコリと笑う。そして迷うことなく天使の下腹部(だと思われる部分)に、鋭い金属の刃を突き入れた。

 少女の体が、ブルリと震える。

 愛らしかったはずの瞳が見開かれ、防音の口枷の隙間から、叫び声がかすかにこぼれ出した。

 ザクンと、腹の肉が切り開かれる淀んだ衝撃が、空気を濁す。

 ジュクジュクと、血のない体に裂け目が開き、切れ目の皮がブヨブヨと波を打った。

 溺れるような喘ぎ声が、頭上から降り注ぐ。

 気がつけば、私は自分の腹を押さえていた。

 切開手術……本来ならば、麻酔も使わずに行うなど正気の沙汰ではないだろう。改めて「天使」という美術品の残酷さに身震いする。不死という人類の夢も、悪人の手にかかれば、結局はこんなものである。

 だが……こんなものがまかり通る世の中だからこそ、私のようなズルいだけの人間が利益を勝ち得ることができるのだ。

 この程度のことで、心を乱されてはいけない。

 ……やめろ、考えるな。

 引っ込み思案な彼女が、名前を教えてくれたときの幽かな声が、チラチラと頭の中に残響する。

 ……マリア……。

 ……黙れ。

 そんなこと、思い出すな。

 引っ込み思案とか、余計なことを認識する必要はない。

 この少女は、天使だ。

 人形だ。

 やがて少女の腹は切り裂かれ、蛙の口のようにパッカリと、門を開ける。

 ……おそらくは子宮だと思われる薄桃色の空間が、そこにあった。

 息を呑む。

 美しかったからだ。

 いったいどんな手段で職人はこれを作り上げたのだろうか……。まるで、柔らかな貝の身が折り重なってできた、人魚姫の寝室であるかのように瑞々みずみずしく、神秘的な胎内……痛みと悲劇に彩られた花びらの向こうに広がる、胎児にのみ許された桃源郷……。

 だが今、その中心には何もいない。少女の子は、ミキサーの中でグチャグチャに絶え果てたのだから、当然である。

 天使が真の意味で受胎するのは、これからなのだ。

 ハサミを置いた職人が、手押し車を……先程から、残酷の具現たるこのアトリエには似つかわしくない小奇麗さから、むしろグロテスクなほどの存在感を発していた白い乳母車を、手元へと手繰り寄せる。

 ザワザワと、心音が高鳴り始めるのを感じた。

 いよいよか……。

 天使職人が、その乳母車から取り上げた赤子の姿に、心底ゾッとする。

 一言で表すならそれは、赤黒い肌をした、セミと豚とのあいの子であった。あるいは、皺と腫瘍に覆われた仔羊か……。

 炯々けいけいと見開かれた大きな瞳と、無駄に腫れぼったい唇を持つそれは、やはり天使の術式と同じ原理で作られた、生ける胎児の人形である。

 違うのは、素材だけ。

「友よ……」Kは喘ぐように、職人に語りかける。「これで私は……彼女から、愛されるのだな?」

「もちろんでございます……」職人は、静かに笑う。「血を抜かれ、零下に魂を閉じ込められた天使の体内においては、あなた様だけがただ一つの温もりとなるのですから……。天使からあなたにそそがれるであろう愛の深さに比べれば、神話にうたわれる慈愛の聖母でさえ、自らをアバズレの娼婦と貶めることでしょう」

「そうか……」今や赤子の身となったKの醜い顔が、満足げにグニャリと歪む。

 この男は……自らを天使の術式にかけ、その身を限界まで小さく削り落としたのだ。骨を切除し、内臓を外し、骨格を限界まで縮小して、彼は胎児となった。だが、流石に本物の胎児と同レベルのサイズになるというのは不可能であったらしい。なにせ脳みそを削るわけにはいかないのだから、どうしたって頭にスペースを食ってしまう。ゆえに少女の腹は、実際の妊婦のものよりも、倍近くは大きく膨らまされている。

 苦痛の深さは人界に並ぶものなしと言われるこの天使の術式を、自ら望んだKという男……しかし、彼はその痛みに耐えることはしなかった。というよりも、できなかった。Kは、後天的な無痛体質なのだ。いや、痛みどころか、寒さや暑さ、快楽、高揚など……肉体に訪れるありとあらゆる感覚を彼は感じられなくなってしまったらしい。長らく特殊な薬を愛好していた副作用が原因だと考えられているが、真相は不明である。

 徐々に症状が進行していく中、無痛ゆえの大怪我を幾度となく繰り返し、肉体の自由をうしなった挙句、快楽までも感じられなくなったKはついに世を儚み、自らを永遠の愛の中で眠らせるというイカれた計画を発動させた。もはや精神の中にしか存在しなくなった喜びを、自らの母の虚像へと求めたのだ。Kの母親は、ちょうどこの少女くらいの年に彼を産んだらしい。望まれた子ではなかったにも関わらず自分を生み、育てた母への愛を、この男は神格化しているわけだ。にも関わらず、彼の記憶の中の母に似た罪なき少女を容赦なく地獄の釜へと引きずり込み、この世に並ぶもの無しと言われる苦痛を与えた上で、自らの胎内回帰願望のために利用するという破綻した精神性こそが、この男を裏社会の大物にのし上がらせた原動力なのだろう。監獄の中にいた、彼の父親……すなわち、母を襲った男には徹底的な復讐を遂げたくせに、私に下した命令は「何をしてでもあの娘を妊娠させろ」である。全く、正気ではない。

「さあ……早く、私を母のもとに……」病的な瞳の光にだけ面影を残したKの成れの果てが、しゃがれた声を絞り出す。「お母さん……今一度……ぬくもりを……」

「はい……ただいま……」

 職人の手に掲げられた醜き赤子を見て、少女の顔色が、また変わる。

 きっとそれは、狂おしき嫌悪の表情……カタカタと震える顎が、彼女の恐怖を物語っていた。

 無理もない……こんなものを腹に埋め込まれるなんて、誰だって願い下げだ。

 だが、現実は非情だ。

 職人は丁寧な手つきで、ゆっくりと、赤子を天使の腹へと差し入れた。

 柔らかな宝石の中に、糞よりも汚い胎児が逆さまに包まれていく。

 少女のうめき声が、濁り、響いた。裂かれた腹にものを押し込まれているのだから、痛いのは当然か。

 くそ……どこかにバケツはないものか。

「お加減は如何いかがでしょうか? どこか、苦しいところはありませんか?」耳に障る、職人の声。

「ああ……いい……とてもいい……早く、ここで眠らせてくれ……」と、桃色の寝床にヌクヌクと埋まり尽くして、Kは笑う。「私はもう……疲れた……」

「かしこまりました」職人はうやうやしく、頭を下げる。「それでは、お休みなさいませ……ご友人様……」

 ……。

 これでもう、二度とKと会うことはないのだな。

 私は、少女の顔を見上げていた。

 少女……マリアもまた、私を見ていた。

 痛みに悶え、何かを哀願するその瞳に……私はハッキリと、同情の念を自覚した。

 彼女は生きている。じきに人形になり、身動みじろぎ一つ取れなくなるのだろうが、それでもマリアは生き続ける。生き続けて、こんな誰かもわからないような老人の夢の揺り籠となる。

 不死の命が、尽きるまで。

 ……ひどい話だ。

 少女の子宮の中で、ひっそりと目を閉じたKに、職人はそっと眠りの呪文を口ずさむ。そしてそのまま驚くべき手早さで、開かれた天使の腹を丁寧に縫い合わせてしまった。おかげで私は、Kの最後の姿に名残を感じることさえできなかった。当然それはありがたいことである。

 これで作業は終わりか……と思ったが、職人はさらに、脇のトレイから銀色の如雨露じょうろのようなものを取り出して、その先端を、少女の腹にわずかに残っていた隙間にゆっくりと差し入れた。

 ポコポコと、茶を注ぐような、軽い音。

 そうか……あれが羊水か。

 やがて水が満ち足りて、ツツ……と隙間からこぼれだしたあたりで、職人は穴を指先で塞ぎつつ、慣れた手つきで如雨露を抜き出し、傷口に白い粘液を塗りつけて、キレイに痕を隠してしまった。

 こうしてKは、あっさりとマリアの腹の中へと納まっていった。

 胎内回帰。

 醜い欲望だ。

「それで……完成までは、あとどのくらいかかりますか?」出来る限り冷静な声で、私は職人に尋ねた。天使の完成品は、私が責任を持って“美を愛するものたちの場所”に飾らなければならないのだ。

然程さほどの時間はかからないと思います」少女の腕の位置を細かく調整しながら、職人は答える。「この傷が塞がり次第薬湯につけて固めてしまいますから……仕上げも含めて、あと一週間ほどでしょうか」

「そうですか……」

 私は不明瞭に呟きながら、天使の全体を眺めた。それに気がついたのか、職人は満足げな表情で身を引いて、漫然とアトリエを照らしていたライトを細く絞る。

 スポットされた、天使の人形。

 美しき花びらの中に咲く、珠のような受胎腹。そこに両手を乗せて、慈しむような姿勢を取る美しき少女の御姿……なるほど途方もなく芸術的で、魅惑的で、それでいてどこか退廃的なシルエットだ。

 しかし、天使は未だ、泣いている。顎を震わせ、嗚咽を漏らし、ボロボロと涙をこぼしている。

 悲痛だ。

 あまりにも無惨な姿だ。

 この様のいったいどこに慈愛などがあるというのか。

 それとも……職人の言ったとおりに、彼女はあの醜きKを、温もりとして愛することになるのだろうか。

 それは果たして、愛なのか?

 あと一週間……一週間で、彼女は呼吸を止められ、強引に安らかな顔へと捻じ曲げられたまま、固められることになる。この美しい天使の肉体も、一皮むけば、あまりにも強引な手段で作られた骨の彫刻だ。

 そしてその心も、同じように残酷な手段で、加工されている。

 ……これが凍える天使コールド・エンジェルか。

 あぁ、やはり私も、クズの一人だ。

 助けを求めるマリアの瞳を見つめながら……彼女を助けたいと願うことなく、さっさと人形にしてくれと、願っているのだから。

 どうせ何もできないのなら、手遅れになってくれた方が、気が楽だ。

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