エピソード・窓辺の君3

 人の寝静まった後の大屋敷の廊下は、墓地を思わせるくらいに不気味な妖気を発して、夜の静寂を隅々にまで透き通している。点々と小さく灯るロウソクは、互いの光が絶妙に交わらない間隔で配置され、何も見えない闇の空間が、長い廊下にしおりのように挟み込まれていた。

 誰もが寝静まり、カラスも鳴かない夜のとばりの屋根の下を、黒い装いを身にまとった一人の男が、息をひそめてゆっくりと歩んでいた。男の体がロウソクの灯りをさえぎるたびに、招かれざる客の大きな影が怪物のように壁になびくが、それに気がつく人間は今はいない。

 屋敷はどこまでも静まり返っていた。

 男は慎重さは損なわぬまま、ある種図太いとも言えるほどに大胆な歩幅で、着実に目的の部屋へと歩を進めていた。彼がこの深い時間まで、屋敷の中に身を潜めていた事実と照らし合わせれば、この抜け目のない歩みは驚異である。

 男の目的は、もちろん、エレナという一人の娘。窓辺の花とうたわれていた、近隣一の美少女の寝室である。愛らしき窓の花。美しく、病弱で、それでいて人懐っこい、物語の中の薄幸の姫君のような彼女の身の上は、いつだって周囲の目を惹き付けずにはいられない。そう、例えばあの、路地裏でずっと話しかける機を伺っていた、似合わない帽子をかぶった少年のように。

 だが、それにしてもまさか、彼がこんなこそ泥のような真似をする羽目になるとは、思ってもみなかった。彼女の萎びた父親がまさか、これほど話のわからない男だとは思わなかったのだ。

 全く、忌々しい……。

 あの父親とは、結局マトモな話にならなかった。何度か説得は試みたが、取り合われることはなく、ただただ怒鳴り帰されただけである。エレナは大切な我が子だなどと、白々しいにもほどがある。

 あの子の体のことを、知らないはずもないのに。

 薄命のまま失われるであろう娘の、その肉体の美しさを、親心というには汚らわしすぎる背徳から惜しんでいたことは自明だろうに。

 苛立ちを噛み締めつつ、壁に片手を這わせながら、着実にドアを数えて、目的の寝室へと進んでいく。

 ……ここだ。

 男は少しだけフッと息を吐き、ポケットからコピー・キーを取り出した。先日、正面から父親に会いに来たときに、こっそりとスペアキーから型を取って作ったものである。この手の魔法認証式の鍵のコピー器具は通常のルートでは手に入らないため、必然、費用も馬鹿にならない。

 細く呪文が彫られた鍵を、鍵穴へと慎重に差し入れる。わずかに紫がかった光が音のない火花のように闇にまたたき、ついでカチリと、小気味の良い音が続く。それを合図に彼はドアを素早く開き、体を寝室内へと滑り込ませ、転がるように一気にベッドの足元に身を潜ませた。

 チク……タク……と、規則正しく時計が鳴っている。

 汗をぬぐう。

 呼吸を整えて立ち上がった男は、目と鼻の先で眠っている少女を無視して、まずはカーテンを開き、月明かりの差し込む大きな窓の鍵を開けた。いざという時の脱出路の確保は、実際、目的の達成よりも遥かに重要であるからだ。

 油断なく周囲に視線を這わせ、安全を確かめる。月明かりにふんわりと照らされた室内には、海原に浮かぶ大船の色あせた写真や、大きさの割に収められた本の少ない本棚、クローゼットなどが平凡な位置取りで置かれている。おおよそ怪しいと思えるものはない、裕福な家に生まれた娘の、ありふれた寝室。

 そして……その中心に配置された高級なベッドの上には、布団に顔のほとんどを隠した、ナイトキャップをかぶった少女が、仰向けに体を横たえていた。

 ゆっくりと、その毛布に手を伸ばす。

 鼓動が少し早まるのを感じながら、彼は、細心の注意を払いつつ、白く柔らかな掛け布団をそーっと下ろした。

 つばを飲む。

 窓辺で笑っていた美しい少女。幾度となく見惚れた柔らかな器量が、そのままの姿で、眠っていた。

 胸に、ゾクゾクとこみ上げてくるものを感じる。

 背中に痛みが走り、声が漏れそうになるのを、必死で抑える。

 あぁ……エレナ……。

 やはり君は……。

 その時、バタリと、何かが動いた。

 布団の下、ちょうどエレナの足元と思われる場所が突然持ち上がり、とっさに体をかばった彼の腕の上から、毛布が丸ごと被さった。

 確かな重さとともに、腰が崩れる。

 一瞬、何が起きたかがわからず混乱するが、すぐに無意味な思考を停止して、現状の打破のために窓の方へと身を滑らせた。

 高い悲鳴。

 何か、名前のような響きを伴っていた気がしたが、聞き取れず。

 体勢を立て直し、毛布を払い退けようとしたその刹那に、何かが後ろから、彼の右腕に強く絡みついた。

(な……誰だ!? 人か!?)

 応戦の構えを取ろうとするも、突然、足に細い糸のようなものが巻きついたために、彼は再びバランスを失って転倒した。頭をベッドの角か何かにぶつけて、星が飛ぶ。

 何が起きた?

 わからないが、とにかくまずいことは確か。

 逃げなくては……。

「何者だっ!」

(……チッ)

 唐突に室内に光が満ち、過剰なほど暗さに慣れた彼の目を鋭くいた。頭に残る衝撃の余韻から、自分が数秒ないし十数秒ほど意識を失っていたことを悟る。

 状況は、かんばしくない。

「お前は……」身をよじって顔にかかる布団を払いけ、戸口の方へと目をやれば、ガウンを羽織ったあの父親が、冷たい目で彼を見下ろしていた。「そうか、そういうことか。やはりエレナをさらいに来たか……痴れ者め」

「痴れ者だと……?」クラクラと視界が揺れているのを感じながら、改めて自らの置かれた状況と、何が起こったのかを冷静に吟味する。

 先ほど足に絡まり彼を転ばせたのは、ピアノ線のように細い糸であった。それは今も両の足首にまとわりついていて、彼の動きを妨げている。

 そして今もなお、両の足で彼の腕に絡みつき、小さな手を首に回して絞め落とさんとしているこの子は……。

「痴れ者はどっちだ、クズ親父め」怒りのあまりに彼は、満足げな笑みを浮かべる父親へとツバを吐きかけた。

 頭に血が上り、言い知れないほどの不快感がこみ上げてくる。

「あんた娘を……エレナを、人形にしたんだな……っ!?」

 指に操り糸を繋げたエレナの父親……グリュンワルド卿の顔が、醜く引きる。

「あぁ、やっぱり……ちくしょう……」

 右腕と首を不相応な力で締め付ける、冷たいエレナの体を引きずりながら、目の前の唾棄すべき男の前へとにじり寄った。

(だからエレナは……ずっと年を取らずに……)

 あの日、彼が……シムが走り去っていった次の日から、エレナは窓辺に顔を出すことがなくなった。死んだとか、病気だとかという噂は色々あったが、それでも彼は何度となくこの屋敷の前まで通い詰めたし、メグもまた、足が治ってからはしばらくずっと、毎日のようにここまで足を運んだものだが……ついにエレナが窓辺に顔を出すことはなかった。

 サヨナラも言わずに、エレナは彼と妹の前からいなくなってしまったのだ。

 きっと病気が悪化して死んでしまったのだろうと、もちろん彼は考えた。だが、あまりにも突然過ぎたその別れを、幼い彼はどうしても受け入れることができなかった。エレナに会えなくなって、ひどく落ち込んでしまった妹のためにも、死んでいたという証拠でも構わないから、何か納得のできる答えが欲しかった。

 そうやってシムはずっと……メグがすっかり諦めてしまった後も、少なくとも週に一度はこの屋敷のある通りへと、足繁く通い続けていた。それくらい、ずっとエレナのことが心残りだったのだ。

 そして、そんな日々が一年以上が続いたある日……彼は窓の奥、たまたま開いていたあの部屋のドアの向こうに、金色の髪をなびかせている、エレナの姿を見つけたのだった。

 心臓が、止まりそうになった。

 グリュンワルド家の幽霊少女……そんな噂が、近隣に立ち始めたのもその頃からだった。

 結局あの頃のシムは、親に無理やり寮制の学校に進まされたこともあって、噂の真相を確かめることはできなかった。だが、その後もずっと彼女のことは胸に残り続けていた。いつか必ず、エレナがいなくなった意味と、屋敷に残る面影の正体を見つけてやると、十年以上も意志を研ぎ続けた。

(やっと……見つけたのに……)

「……エレナは、生まれた時から心臓を患っていた」醜き父親は、ゆっくりと話し始める。「かつて、呪術師に呪いをかけられた我が妻から受け継いだ、呪いの病だ。医者にも教会にも、それを癒やすことはできなかった」

「そうかよ、それであんたは……」微笑を浮かべたま、眉一つ動かさないエレナの顔に睨まれながら、彼は、必死でその腕を振り払おうとする。「死ぬ前に、娘を殺して人形にしたってか……?」

「ふざけるな!」突然、シムの腕に絡みついていたエレナの足が万力のような力を発して、彼の肘をへし折った。

「……っ!?」

「死んでなどいない! エレナは、天使になったのだ!」妄言が、涙とともに垂れ流される。「こうするしかなかったのだ……エレナの命を……美しさを、永遠に残すためには……」

 ジンジンと、腕が軋む。だが、それ以上に吐き気がする。「ふざけんな……よ……てめえ……」

「愛する我が娘……妻のように、死んでいくなど、耐えられない……エレナだって、死にたいはずがなかったろう……そうさ、娘はわかってくれているとも……」

「黙れよクズ……」立ち上がることを諦め、かわりに渾身の思いで、声を張り上げる。「てめえ、エレナの……人形の防衛機構が働いてからここに来るまで、なんでこんなに早かったんだ? 寝てたんじゃねえのかよおい……おら、そのガウンはなんだ? あんた、最愛の娘の人形相手に今夜、何しようとしてたんだよ? それもわかってくれてるってか、言ってみろよ!」

 グリュンワルド卿は、答えない。

 ただ、へし折られた彼の腕をなおも掴み続けるエレナの腕にさらに力がかかり、シムの額から生汗が滲み出した。

 それでも彼は、十年間積み上げ続けた様々な気持ちの奔流を、抑えられなかった。

「……これがあんたの愛する娘の姿なのか? 窓辺で本も読まないエレナが……友だちを待たないエレナが……今だって、俺の腕をへし折りながら、顔色一つ変えられない。あんだけ喋りたがりだったのに、言葉はおろか、息の一つも吐き出さない。なぁ、俺は調べたんだよ……エレナがもしかしたら、死んでんじゃないかってな……だけどエレナのことは、どの病院にも葬儀屋にも記録がなかった。なのに行方不明扱いさえされてない。その病とやらで死んだあとで、その体を人形にしたんだとしたら、こんなの絶対におかしいだろ!! あんたが殺して、人形にして、役人を買収したんだ、違うか!?」

 彼の積年の想いを込めた非難の言葉を、しかし、この父親は受け流す。「……殺してなどいない……はなはだ誤解だ。エレナは間違いなく、生きているのだよ……我が愛しき娘……妻の、忘れ形見……誰が殺すものか」

 世迷言を……と、言い返そうとした。

 だがその前に、エレナの腕が、彼の喉を押しつぶした。

「……っ!?」

「これ以上、貴様と話すことはない……貴様が何者かなど知らないが、貴様のような悪い虫からエレナを守ることもまた、父親の勤めだ。そのまま娘の腕の中で死んでいくがいい」

 喉がありえない力で押されて、ピキピキと硬質な音が響き、首がグリグリと、捻じ曲げられる。

 呼吸が止まる……そんな範囲で収まるはずのない破壊が、彼の首で進行していた。

 首をねじ切る気だった。

 骨が軋る強烈な痛みに、瞬時に視界が暗くなる。

 死を予感する。

 よりにもよって、エレナの手の中で。

(ごめんメグ……俺は……)


 シム……。


 ハッと、目を見開く。


 ……シム……。


 夢かうつつか、かすかな声が耳元でささやく。


 ……エレナ?


 彼女の小さな手が彼の額にそっと触れて、十年ぶりに彼らは、向かい合った。

 その瞳に映る、わずかな揺らぎ。

 微動する、唇。

 途絶えていく意識のさなかに、もう一度、名前を呼ばれる。


 シム……ぅ……。


 …………ハハ。

 おい、なんだよこれ、幻聴か?

 まさか……なあ?

 嘘だろ?

 エレナ……ほんとにまだ生きて……。

 ブチリと、不気味な音が鳴り響く。

 頚椎がへし折られ、真後ろを向いたシムの口から吹き出した鮮血が、凍りついたエレナの顔に降り注いだ。

 

 シム……。


 メグ……。


 真っ赤な血が、涙のように、物言わぬ人形の真っ白な肌の上を伝っていた。

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