エピソード・窓辺の君2

 この日、シムは二時間くらいで帰ってしまったのだけれど、その夜もまたシルクハットのお客様が現れた。エレナが玄関までお父様を迎えに行ったら、ちょうどの人が家に上がり込んできたタイミングで、彼女は思わず「あっ」と声を上げてしまった。すぐに失礼だったかと思い、謝ろうとしたのだけれど、急にその人が目の前でしゃがみ込んで、彼女の手をぎゅっと握ってきたために、驚いて何も言うことができなくなってしまった。

「こんばんは、エレナちゃん」低く、深く、それでいて濁った暗い声が、乾いた唇からゾワリと耳元に忍び寄った。

 エレナはその声と顔が恐ろしくて、残された左手でスカートをぎゅっと握りしめた。

 シルクハットのお客様は、とても背の高い人だった。昨日の夜に玄関で見たときには、高い位置にあって顔がよく見えなかったくらいだ。今こうして目の前に黒い顔を寄せられると、眼鏡の奥の黄色い瞳とか、赤くシワの寄った頬とか、汗でおでこに張り付く灰色の髪だとかが視界の一杯に広がって、エレナは軽くめまいを感じた。

 その人の真っ赤な舌が、唇を舐める。

 蛇のように不気味な顔だった。

「エレナから離れるんだ」お父様が、聞いたこともないほどに威圧的な声で、シルクハットの男へと語りかける。「黙ってサッサと客室へ行け、奇術師め。私はお前を信用していない」

「……失敬」黒く、恐ろしい男の人は、あざけるように肩をすくめて立ち上がり、不気味な笑いを口元に浮かべたまま、エレナを見下ろした。「それじゃあ、おやすみなさい、エレナちゃん」

 その声ばかりは、顔に不釣り合いなくらい優しかった。

「あっ……その……」

 返事も待たぬまま、奇術師と言われた男の人はスーッと屋敷の奥へと消えていった。

「……すまなかったな、エレナ」お父様の腕が、震えるエレナの肩を抱く。「お父さんはまだあの人と話があるから、エレナは部屋に戻っていなさい」

「あの……」おやすみのキスは? と彼女は言いそうになったが、お父様のただならぬ表情を見て、結局は言葉を飲み込んでしまった。「……はい。おやすみなさい、お父様」



 翌朝の窓辺。

「それでね、私全然寝付けなかったんだけど、しばらくしたらお父様の怒鳴り声が聞こえてきたの。お父様が怒鳴ってるのなんて初めてだったから、私怖くて……」

「怒鳴ったことないって凄いな、うらやましいよ」シムは真面目な表情は崩さないまま、口元だけニヤリと釣り上げる。「俺なんてゲンコツがしょっちゅうだぜ。メグは全然殴られないんだから、兄ってのは損だよ。でもそのシルクハットの男は、確かにちょっとおっかないかもな」

「でしょ? 私ホントに怖くって……それでねそれでね、でも私10時くらいにはやっぱり寝ちゃったんだけど、少ししたら目が覚めちゃって、そしたらね……」

「うん」

「誰かが、私の顔を触ってたのよ……!」

「……夢でか?」

「違うわ! ホントに誰かが、触ってたのよ!」エレナは思わず窓から身を乗り出して、横で壁にもたれかかっているシムの顔を覗き込んでしまった。「最初は私も夢だと思ったんだけど、でも、だって、場所は私のベッドだったのよ? 枕の感触もそのままだったし、布団だって被ってた。だから、あれはやっぱり夢じゃないのよ」

「そ、そうか……」シムは少し不思議な表情をしたまま、エレナから目をそらす。

「鼻の上を太い指がスーッと這うの。怖かったわ。怖くて私、息もできなくて……それでも怖いから、ずっと黙って耐えてたんだけど、いよいよ口の中に指が入ってきて……私我慢できなくて、叫んだの」

「それで、その……」シムは信じてないように引きつった笑顔で、言葉を探している。「顔触ってた奴は、逃げたのか?」

「うん、多分……私、叫んだせいで胸が痛くなって、布団かぶっちゃったからわからないけれど、でも、少ししたらお父様が駆けつけてくれて、それで私、やっと安心できたわ」

「へぇ。でも、親父……あぁ、えっと、父さんは何も見てないんだろ?」

「そう言ってたわ」

「じゃあやっぱり気のせいだろ」

「ううん、ほんとに誰かがいたのよ! あぁシム、私、寝るのが怖いわ」窓辺の椅子に座り直したエレナは、キリリと痛んだ胸をおさえて、ため息をつく。「お父様はピリピリしてて、あんまり真剣に話を聞いてくれないし……今、こうやってお話できるの、シムだけなのよ」

 シムは何も言わず、首の裏をポリポリと掻いている。

「シム、私本当に、寝るのが怖いのよ」同じ言葉をもう一度繰り返して、エレナはシムの横顔をじっと見つめた。「きっと今日もお父様は忙しいだろうし……ねえシム、あなた今日、うちに泊まれないかしら?」

「はぁ? そんなの無理に決まってんだろ……」シムはぎょっとしたように背筋を強張らせてから、慌てたように腕を頭の後ろで組み合わせる。「……無理だよ、バカ言うなって……」

「うーん、やっぱりそうよね……」わかってはいたけれど、それでもちょっとだけエレナは少しガッカリして、あごを窓枠に乗せてため息をく。「ああ、とっても怖いわ。今日もまたあれが現れたらどうしよう……ほんとに、お化けなんじゃないかしら」

「心配すんなって……取って食われやしないんだから」

「そうね……うん、きっと大丈夫」気を取り直したエレナは、ふと、シムが来るまで読んでいた本の中にあった面白い話を思い出した。

 そうだ、今はもっと楽しい話をしよう。そうすれば、きっと夜も怖くない。

「あ、そうだ、ねぇシム聞いて、私ね……」


 それから三時間ばかりが経った、エレナの屋敷が面している通りの一角。帽子のツバを引っ張りながら、サイモン……シムは、ゆっくりと自宅への帰路を辿っていた。今更歩調を遅くしても意味が無いことはわかっていたが、どうしても後ろ髪を引かれる思いがして、シムはわざとらしく何度か立ち止まってしまうのだった。

 ……しょうがないじゃないかと、彼は一人で舌打ちをする。ただずっと話してるだけというのは、活発で健康で遊び盛りな年頃の少年には退屈なことなのだ。

 結局、シムは今日も長居はできなかった。昨日は少し早すぎだとメグに怒られてしまったので、今日はできるだけ粘ったつもりでここに来た彼だったが、これくらいで十分なのだろうか。前の倍くらいの時間は話していた気はする。おかげで正直、暇すぎて仕方がなかった。

 それでもエレナは、昨日も今日も、さよならを告げるときはとても寂しそうな顔をしていた。もう少し話していたかったと、悲しい顔をして手を振ってきた。

 胸がズキズキする。

 あんなの反則だ。

 エレナは、生まれつき心臓が悪いという。だから学校にもいけないし、おかげで友達も作れなくて、偶然知り合ったメグ以外には子供の話し相手がいないらしい。そんなメグが怪我をしてしまったのだから、誰かが話してあげないと可哀想なのはもちろんなのだが……。

(なんで俺がこんなことしなくちゃいけないんだよ)

 シムは道端の小石を軽く蹴飛ばした。

(なんで俺が……こんな申し訳ない気持ちにならなきゃいけないんだよ、ちくしょう)

 会話しかないなんて、そんな時間が楽しい訳がないのだ。今日だって本当ならば、シムは学校の体育場で友人たちとバスケをして遊ぶはずだった。明日からもこんな調子かと考えると、正直気が滅入る。明日からは自分も何か話題を持ってくるべきだろうか。そうやってお互いに話せば、もう少し長い時間を過ごせるかもしれない。

(でも俺、口下手だからな……)

 と、「口は悪いが根は親切」を地で行くシム少年は、なんとも言えない罪悪感と、頼られていることによるほんのちょっとの誇らしさに苛まれつつ、曖昧な気持ちで今まで歩いて来た道をまっすぐに振り返った。

 視界の端にチラリと、怪しげな黒い人影が揺らめいた。

 人通りは決して少なくない表通りの中、静止した一人の男。珍しいかもしれないが、取り立てて異常なわけではないその男をシムが気に留めた理由は、大雑把に言えばなんとなくであるし、外しかけた目線をもう一度だけ黒い影に合わせたのも、理由あってのことではない。強いて言えば、やはり、エレナの話していたシルクハットの男の話が脳裏にちらついていたことが原因と言えるか。

 ともかくシムは、やや場違いな黒い装束を身にまとった背の高い男の姿を、雑踏の中に確かに認めた。

 そいつは通りの反対側から、エレナが本を読んでいるであろう窓辺を、じっと見つめている気配である。さっきエレナと話していたときには、あんな男はいなかった。

 誰だろう。

 嫌な予感……と呼ぶにはあまりにも不確かなモヤモヤを感じて、シムはピタリと足を止めた。

 男はしばらくの間、エレナの方向を一心に見つめていた。シムもその男を、立ち止まったまま観察し続ける。ここからではよく見えない。シルクハットを被っているようには見えないが……。

 そして、ちょうどシムが背伸びをして、ギュッと目を凝らした瞬間。

 ふいに意を決したかのように、男はエレナの屋敷へ向かって、まっすぐに歩き出した。

 ピクリと、肩が震える。

(……あ。)

 反射的に引き返そうとしたシムの背中に、しかし、誰かがぶつかった。

「いてっ」

「いてっ……じゃねえよ! 道の真ん中に突っ立つなこのボンズ!」見上げると、みすぼらしい服を身にまとった、酔っ払いと思われるしなびた男が、フラフラと腕を突き上げていた。

 んだよ、こんな時間から酔っ払ってんじゃねえよクソジジイ! ……と、普段のシムなら言い返すところなのだが、今はそれどころではないかもしれないと感じていた彼は、歯噛みしながらまた怪しい人影の方を振り返る。

 黒い男の影は、消えていた。

「おいこら、こっち見ろボンズ!」

 あいつがいなくなったということは、エレナの家に、入ったのだろうか。

「てめえ耳ついてんのか? ひっく……」

 顔を触る誰か……怪しいシルクハットの男……。

(考えすぎか……?)

「ったくよぉ、最近のガキはこれだから……お前、謝ることもできねえのか!」

 戻ってエレナに聞いてみようかと、シムは思う。だが思い違いであったら恥ずかしいし、余計なことを言って怖がらせるのも申し訳ない。

「ボンズ、お前これどうしてくれん……」

 イラッ。

「あぁもう、うるせえなぁ酔っぱらい!! ぶつかったのはそっちじゃねえか!」

「あ……あぁ?」少し驚いたらしき酔っぱらいは、だけどすぐにムッとして、まだ腕を振り上げた。「おい、お前、もう取り消せねえぞ……」

 言葉を待たず、酔っぱらいのスネを蹴りつけて、シムはサッサと駆け出した。

「あいたっ!!? おいこら……いたた……待てこの糞ガキがぁ!」

 シムは、エレナのいる窓に向かってダッシュした。足音を聞きつけたのか、エレナがゆっくりと顔を上げる。

「あら、シム! どうしたの、忘れ物?」

「いや、えっと、ほら……」急いで頭の中を整理した、質問をひねり出す。「あ、あのさぁ……怪しいやつ、見なかったか?」

「怪しいやつ? いえ、誰も見てないわ」

 背後から、足音と怒鳴り声。

「そっか。いや、ならいいんだ、忘れてくれ。じゃ!」

 そう言ってシムは、エレナの返事も待たずにまた、走り出した。

 やはり、考え過ぎだったのだ。こんな真っ昼間に人の家に堂々と侵入する奴がいたら、シムじゃなくったって怪しむだろう。エレナの屋敷は使用人もいるようだし、なんにしたって彼が心配することじゃない。そんなことより、明日何を話すかを考えてたほうが、よっぽど建設的だろう。

 どれだけ言葉で取り繕っても消せないモヤモヤを、確かに胸の奥に感じながら、シムは自慢の健脚で石畳の路地を駆け抜けていた。

(大丈夫……だよな?)

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