ウロボロス

 悍ましくも美しい光景だった。

 檻の中にいたのは、南大陸のとある辺境部族が神とあがめていた巨大な白蛇だった。王立開拓部隊が部族を奴隷として輸送するにあたり、興味を持った隊長が部下3名を犠牲に捕獲、奇獣展覧会にて「人喰い蛇」として見世物にされていたのを祖父が買い取ったものだという。もっとも人喰いだの生贄だのというのは興行人による箔付けで、実際には現地で家畜の豚などを捧げられながら人と共存していたらしい。捕獲の際には現地住民に協力を強制したはずであるが、被害が冒険隊員のみというのもそういうことなのだろう。

 さて、蛇というのは本来生き餌を好む捕食者であり、冷たい餌には食いつかない。この蛇に天使である彼女を飲み込ませるのには工夫が必要だったのは間違いない。

 ともかく、蛇は天使を飲んでいた。

 美しい少女だった。

 彼女は蛇をまつっていた部族にて、巫女の役割を担っていた娘なのだという。元は小麦色だった肌は全身の血を一滴残らず抜かれたことで亜人種を思わせるほどに青みがかり、その神秘的な肢体の上には黒い髪が美しい水草のようにまとわりついている。わずかに膨らんだ胸を両腕で覆った姿勢の上半身は古代の彫刻家が作り出した胸像のように魅惑的であったが、下半身は蛇が呑みやすいよう豚の体と溶け合わされたなり損ないのマーメイドとでも呼ぶべき不愉快な有様で、目を閉じた豚が鼻先を少女の股に押し付けているように見える様が驚くほど下世話で不釣り合いであった。腹周りを這い回る奇妙な縫い目の裏にもきっと蛇が食いつきやすいよう、ネズミの死骸でも埋め込まれていることだろう。結局、蛇が下半身を飲み切り少女の体のみが口から露出しているところまで進んで、ようやくこの「演目」は美しさを獲得したと言える。

 悪趣味な貴族たちが見守る中で、蛇が少女を飲み込んでいく。鱗が裂けそうなほど大きく口を広げ、虚ろな目に本能の光だけを宿しながら、ゆっくりと着実に餌を喉の奥へと押し込んでいく。蛇は食事を残さない。毛も肉も骨も臓も、一度口に入れた餌は全て丸呑みにする。それが美しい。祀っていた神の腹の中で生きたまま徐々に溶かされていく少女はひどく哀れではあるが、きっと永遠の時を生きた標本として過ごすよりは死ねるだけマシだろう。

 美しい少女だった。

 異民族の香りがする、眠たげな目の少女。

 あるいは、それは幼い頃から感性が凍りついていた彼にとっては初めての恋であったのかもしれない。

 もう50年以上も昔の話である。


「ではこの蛇はそれ以来、半世紀以上も餌をっていないのですね?」

「ああ……何度もそう言っている」暗い地下で、フードを被った男に車椅子を押されながら、彼は骨を軋ませるように小さく頷いた。「不可解だが事実だ。とうに寿命など過ぎているはずだが見ての通り生きている。不死の天使を呑んだ蛇が、こうして自らの尾をくわえたままズルズルと円環を這い回り続けているなどできすぎた話だと思ったかね?」

「見えているものは、信じますとも」

 ズルリと、柵の中で蛇が這った。巨大な口で自らの尾をくわえこんだまま、地面を時計回りに回っている。牙は折れ鱗も全て剥げ落ち、生皮には大小数え切れない擦過傷が残っているが、それでも大蛇はこの狭い地下の檻の中で、体を揺すぶるように僅かな分だけ動き続けている。

 真っ白な体と、完璧な円。

「ウロボロス、ですか」男は呟いた。

「恣意的なものに過ぎん」彼は鼻で笑って返した。「下らん話だ」

「では、あれは人為的なものなのですか?」

「手はくわえておらんさ、手はね。だが不死の少女を呑んだ蛇が自ら永遠のモチーフをかたどるなど、あまりにも過ぎるじゃあないか。これは神秘ではない、ただのロオマンスだよ。見る者たちが蛇にこうあることを期待した、故に蛇はこうなった、そう考えるのが自然だ。呪術とはそういうものだろう? なにせ蛇の腹には世にも稀なる強力な霊術の媒体が埋まっている……永く人に祀られていた蛇なのだ、人の心の影響も受けやすいだろうよ。くして蛇はウロボロスとなり、妄想でしかなかった神話は無知を自覚せぬセンチメンタリストの中で真実となる。私の祖父がそういう人間だった。下らん……実に下らんよ。この蛇は祖父から屋敷とともに受け継いだものだが、見学を望む馬鹿な学者気取りたちとの会話にはいつも辟易へきえきしている。君はそういう者ではないことを期待したいね」

「どうでしょうか。我々は現実主義ですが、ある意味ではロマンチストでもあります。邪魔ならば、蛇を殺してしまおうとは考えなかったのですか?」

「……できぬさ。私も、所詮はロマンチストだからね」

「そうですか」

「それで、君たちは一体何をしにきたのだ? そもそもお前は何者だ?」

「我々は『天使の兄弟』という組織のものです」男は答える。「あるいは、『砂粒一つだけの良心に従う者たち』とでも」

「わからんね。なんだそれは」

「我々は、天使を殺す方法を探しています」

「……どういう意味だ?」

「貴方は、現状では教会ですら天使を殺す手段を持っていないことをご存知ですか?」

「…………」

 男の言葉に、死神に息を吹きかけられたような冷たい感覚が背筋に走った。恐らくそれは、半世紀ぶりに彼の身を襲った怖気おぞけであろう。

「かつて、天使という存在が生まれてから最初の百年前後は、天使はおおよそ通常の方法で殺し得たと聞いています」男は続ける。「ですがある日を境に……いえ、正確な時期は完全に不明ですが、しかしどこかのタイミングで、天使は殺せなくなった。永遠に生き続ける脳を破壊することができなくなったのです。原因は呪術の共鳴現象と思われます。不死にして極限の苦痛それ自体が媒体となり、天使たち自身の不死性を完全なものにした、と」

 彼は男の顔を、フードの奥にある冷たい瞳を見つめた。正気とも狂気ともつかない、蛇のような目の色だった。

 同じ目をいつも鏡の中に見る。

 それは思考は明晰なまま、心だけが壊れたものの目だった。

「不可逆か……恐ろしいことを言う」

「恐ろしいです。この世の何よりも」男は声色を変えず、わずかに頷いた。「我々は天使という存在を許容しています。天使の歯車エンジェル・ギアが都市の電力の半分以上を賄っているこの時代に、天使そのものを抹消するのは現実的ではない。我が国が世界の覇権国家足りえているのは天使があったからです。『孤児院』も、口減らしや貴族の妾腹の処理として実に都合がいい……しかし、永遠は望まない。それだけは断じて受け入れがたい。不滅の苦痛など、この地上にあってはならないのです。百年だろうと千年だろうと、天使たちには任期が必要です」

「……それが、砂粒一つの良心か」

「我々は現在、あらゆる方法を模索し、手段を尽くしています」相変わらず平坦な声で男は語る。「単純な圧潰、溶鉱炉での焼却、極低温による分子破壊、溶岩口への投棄、果ては次元兵器の使用まで試みました。当然、肉体は簡単に滅ぼせます。しかし……」

 男は、どこからかガラスの瓶を取り出して、彼の膝に置いた。液体の中に、枯れた樹皮の寄せ集めのような灰色の塊が浮いている。

「これ以上の破壊に成功した例は、絶無です」

「これは……」

「ミリア・シルフォード。あなたが天使の孤児院に斡旋した少女でしたね?」

「ジャスパーの娘か……よく笑う子だったよ。悪い再婚相手に捕まらなければ今でも奴とは友人であれただろう」彼は、項垂うなだれた。「……まだ、生きているのだな?」

「生きています」

「苦しんでいるか?」

「心理鏡試験の結果は、そう示しています」

「そうか……なるほど、君たちがここに来たわけがわかったよ」

「では、蛇の解剖試験には協力していただけるのですね?」男は訊いた。

「無論だとも……期待に応える結果にはならんだろうがね」

「感謝します」

「感謝だと? 私にかね?」

「我々は、誰であろうといかなる罪も問いません。

「だろうな……

 膝の上のガラスの瓶。浮かんでいる葛の根は、かつても彼の膝に乗ったことのある少女。気がつけば瓶の蓋に、彼は額を載せていた。「……まだ、生きているか」

「あの蛇が天使を消化し尽くすことで、不死を継承した可能性はあります」

「で、あればこのウロボロスは天使たちの救世主となり得るのだろうな。ははは……なるほど、君も大したロマンチストだ」

「我々は、全ての可能性を試します」

 そう答えた男の言葉を、彼はすでに聞いていなかった。思い出していたのは、蛇に食われた少女を初めて見た時のこと。あのオークションで、半端な良識など捨て去り、自分の初心うぶに従って少女を買っていれば、彼女は天使とはならなかっただろう。

 それを過ちと認めないために、これまで何人もの少女を天使に変えてきた彼である。

「無駄だ……殺せるはずがない。そんな浅い業ではない」

 呟く彼の見下ろす先で、また蛇が身じろぎした。尾をくわえたまま憎々しげに白目を剥き、ゆっくりと虚ろにを描く。

 人が、その蛇を円環に変えた。

 人が、少女を天使にした。

 永遠だったのは人の罪だ。

 天使たちに死が許されるほど、兄弟たちの罪は軽くない。

「もはや閉じた円環ウロボロスだったのだ……終わりの日など、あるものか」

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凍える天使 小村ユキチ @sitaukehokuro

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