キマイラ

 青い雨が、青い市街に降り注ぐ。魚が空を哀しそうに泳いでいる。そんな幻覚が彼女の頭を何度も掠めては、時折勢いを増す雨音と苦しそうな犬の息遣いに掻き消されて目が覚める。

 痛みなんて所詮、他人には決して伝わらないもの。

 他人には決して癒せないもの。

 嫌な匂いがするレンガのお店とお店の間で、彼女は名も無い大きな野良犬を抱えたまま、冷たい砂利の上でじっとうずくまっていた。小麦色の毛並みは赤く濡れ、力強いはずの体は無造作に捨てられた雑巾のようにぐったりしている。往来の馬車にねられたのか、それとも彼女と同じように、酷い大人に暴力を振るわれたのかはわからない。折れた脚と血を流すお腹がどれくらい痛いのかも、どうして誰も助けてくれないのかも彼女にはわからなかった。

 きっととても凍えている。

 わかるのはそれくらい。

 なぜなら彼女も、とても寒かったから。

 降りしきる雨が運んできた射抜くように肌寒い風に、犬が小さく、本当に哀しくなるような声でクゥーンと泣いた。彼女はよりいっそう、傷ついた犬を抱きしめる。温もりが欲しい。そう願っているのは、犬と彼女、どちらなのだろう。せめてお互い様だと思いたいのは虫がいい話だろうか。

 雨は激しくなる。魚はもう泳いでいない。

「君の犬かな?」

 ふと声がして、顔を上げる。傘を差した男が、世界に見捨てられた彼女と犬を覗き込んでいた。

 黙って首を横に振る。

「……酷い怪我だ」男は言う。「君は、その子を助けたいかい?」すっと、手を差し伸べてきた。彼女はじっと相手の瞳を見つめる。

 恐ろしい、獣のような目だった。

 怖い人はみんな動物に似ている。動物は怖くないのに、動物のような人間は怖いのはなぜだろう。

「……助けられるの?」彼女は聞く。

「ああ、私は獣医だ」

「…………」

 男の手には白い手袋がめられていて、細く長い指先が時々ナメクジのようにヒクヒクと痙攣している。こういう手を信じてはいけないことくらい、賢い彼女は十分に知っていた。この子はもう手遅れで、だから道行く誰しもが、まだ生きていたいと必死に呼吸する彼を見て見ぬふりをしていたことも、わかっていた。

 それでももっと、自分にできたことはあったはず。

 本気で助けようと思っていたら、こんなところでじっとしているのが正しいわけがない。

 わかってる。

 助けてほしかったのは自分。温もりを求めたのも自分。

 徐々に鼓動が小さくなっていく犬に(ゴメンね……)と心の中で謝りながら、彼女は犬を抱えて弱々しく体を起こし、差し伸べられた白い手を取った。

 もう、なんでもいい。

 家に帰ったところで、もうお父さんもお母さんもいないのだ。

 この子が助からないなら、自分ももう死んでしまえと、彼女はそう思っていた。




手記:

ファティマ歴11年 4/11

 路地裏で一人の少女を拾った。黒い髪の、東洋の血が混じった13歳の美しい少女である。怪我をした大きな雄犬を抱えて蹲っていたが、飼い犬ではないらしい。犬は危篤の状態だったがなんとか生き永らえさせた。野良犬と少女という今までにない組み合わせだが、新しい発見があることを祈る。


4/14

 少女を「凍える天使コールド・エンジェル」に搬送。


4/24

 不死化された少女を孤児院経由でアトリエに迎え入れる。犬は餌を吐かない程度には回復。


4/28

 少女の右脚の皮膚をピーラーで切除、犬に与える。拒否反応なし。


5/5

 左脚の皮膚の切除完了。これは新聞で知ったことが、彼女は孤児で、名前はクロエと言うらしい。


5/14

 左腕の皮膚切除に失敗。皮剥きは慣れたつもりだったがやはり人の皮膚は体質によって勝手が違う。しばらくは再生を待つ。念のため犬の腱は切り落として、少女の足元に繋いでおいた。


6/10

 成功。感覚は掴めたのでここからは少しはかどりそうである。


6/22

 右腕の皮膚切除完了。犬が少女の悲鳴を聞くたび私に吠えるのが煩わしいが、まだ彼女の皮膚を食わせなければいけないので、耐えることとする。


7/1

 背中から臀部にかけての皮膚切除完了。


7/8

 胴体の皮膚切除に失敗。再生を待つ。


8/6

 成功。これで首から下の皮膚は全て取り除かれた。剥き身の魚介類を思わせる体と陶器のような顔の対比が醜くも美しい。犬が空腹に耐えかね彼女の皮膚の最後一片を食えば下準備は完了である。


8/16

 成功した。信じられない。ついに人間以外の生物の不死化が叶った。絆で結ばれたペットと飼い主という組み合わせではことごとく失敗したにも関わらず、なぜこの組み合わせで上手くいったのかはわからない。ともあれ、ようやく作業が第二段階に移行できる。


8/20

 顔の皮膚の切除に失敗。再生を待つ。その間に不死となった犬の血管に水を注入し、体を膨らませておく。


9/1

 失敗。再生を待つ。


9/18

 失敗。やはり顔は難しい。検討の結果耳は切除することとした。


10/2

 失敗。


11/1

 失敗。


12/21

 成功。犬の準備も整った。明日が本手術。


12/30

 注水により酒樽ほどのサイズとなっていた犬から水と骨を取り除く。引き伸ばされた毛皮の総面積は必要量の倍を確保できた。



ファティマ歴12年 1/5

 少女の頭蓋の中にスペースを作り、犬の脳を詰め込む作業が完了。思いつきで眼球を片方、犬のものと取り替える。


1/14

 少女の腹から体組織と臓器の大半を取り除き、犬の臓器を埋め込む作業が完了。当然殆どの機能は逸失するが問題はない。犬の脳が全身の毛皮と繋がっていることが重要である。

 これから少女の体表に、少しずつ犬の毛皮を癒着させていく。種すら違う両者の生きた体同士の結合ゆえに時間はかかるだろうが、不思議な絆で結ばれた両者の生命が上手く絡み合うことを祈る。



ファティマ歴20年 2/11

 成功。



ファティマ歴40年 3/15

 クロエの体に異変が見られる。喘息がおさまり次第点検を行う予定。腕が鈍っていないと良いが。













発見報告:

 2月、犬の鳴き声に関わる通報により偶然発見された古い天使の工房の調査が完了した。主(獣医のマルロイ氏と判明、ファティマ歴40年3月に没)はどうやら不死化された少女を自ら天使へと加工していたようである。『犠牲』と題された陳列スペースには動物(ほとんどが犬である)の剥製に人の頭だけを据え付けたような簡素な作りの天使が並んでいたが、『クロエ』と題されたガラスケースの中に一体、興味深い天使が保管されていたので、ここに報告を纏める。私見につき幾らか感情的な表現が混じることをあらかじめ了承願いたい。

 彼女は全身の皮膚を哺乳類、恐らくは犬の毛皮に置換されていた。薄っすら灰がかった黄金色の毛が全身を埋め、手足の先には獣の爪が移植されている。右目は人の瞳で左は獣、三角形の耳はエルフのように真横に突き出し、鼻にはイヌ科の黒い鼻鏡が取り付けられている。一見しても継ぎ目の見つからない見事な造りの天使であり、少女のシルエットに獣の肌が完全に融合した様はおとぎ話の亜人種のように幻想的かつ生々しい。腹が膨らんでいるのは妊娠状態の再現かと思われたが、付属の手記から読み取るに、そこには犬の体組織が埋まっているようだ。不思議なことに私はこの『クロエ』から、これまで見てきたどんな天使よりも原始的な恐怖を感じた。見てくれは単に人に似た生物の死体である彼女の寝姿に、言い知れぬ悪夢のような怖気を覚えてならないのである。仔細は実物を観て確認してほしい。きっと、想像を絶する不気味さを感じてもらえることだろう。

 斯様に面妖な天使であるが、真に特筆すべきはその外観ではなく、内面にある。彼女の体を霊術鏡に映した『魂』の反応が、一つの体の中に二体分重なって存在しているのだ。手記を信じるならば、それは犬と少女の魂ということになる。少女の臓器はほとんど残っていないのに対し、犬の身体はその毛皮を生かすために最低限の機能が残されている。耳を近づければ、時折犬と思われるか細い鳴き声がその体から漏れ出すのが聴こえるだろう。犬は生きているのだ。

 その特殊な魂の有り様、純アトリエ産ではない天使であることも含め、『天使院』での精密な鑑定を薦める。


















鑑定結果:

 まず初めに述べなければいけないことだが、彼女の頭に宿っている魂は一つである。ある時期までは二体の魂が共生していたと思われるが、少なくとも現時点でその肉体に宿っている意思は間違いなく単一である。それが犬のものなのか人のものなのかは判然がつかない。天使の精神が愛好家たちに『Kokytosisコキュートシス』として知られる極度の苦痛に支配されている以上、彼女の体に宿る魂が何者であるかなど知りようがないのだ。ともあれ片方は、永遠なる氷の檻から救われぬ死へと逃げ延びたようである。


※注釈:現代の霊術研究ではよく知られたことだが、過剰な絆は呪術の共鳴性をむしろ薄める。マルロイ氏のアトリエを例に取るならば、天使となった素体にとって思い入れ深い対象ペットであればあるほど、同じ目に遭わせてならじという意思が霊術に影響を及ぼし不死の伝播を妨げるだろう。この『クロエ』と犬が不死の共有を成し得た、その特殊な心理的繋がりの考察は吾輩の専門外である。最終的に少女が犬を手放したか、犬が少女を救ったか、あるいは魂が神秘的な結合により合一を果たしたのか、これも現在の我々に知るすべはない。


 本題に移る。

 彼女の体に宿っていた二つ目の魂の正体は、そのはらに巣食う、ヒトの雄と思しき謎の胎児である。精密霊術鏡に映す限り、その生命も大変な苦痛の中にあるのは間違いないが、『母体』とは違いそれは天使ではなく、また、生きようとする意思の兆候を確認できる。

 恐るべきことにその遺伝子系は、犬と人、両方の反応を示している。

 議論の余地なく、あり得ないことだ。聖母でない天使の体など本質的に剥製と同質のものである。豚肉に鶏卵を混ぜて冷水に浸しても雑種キメラが生まれることなどないように、天使の中に命など発生し得ない。だが一方で疑いなく、彼女の腹の中にソレは生きている。乱雑に埋め込まれた犬の臓器と冷たい肉の隙間で。しかも手記の内容を信じるなら、ソレは驚くべきことに天使の中で半世紀年以上も昔に発生し、現在に至るまでゆっくりと、産声を上げるに到るまで成長を遂げたである。

 吾輩は、錬金術の誠実な求道者として、この赤子の摘出を進言する。これはもはや美術ですらない。人類で最も罪深き男たちの、天秤の量りすら破壊するような悪業の果てに生み出された、神への、生命への大冒涜である。これが錬金術の悲願でなくしてなんであろう?

 今もこれを綴る吾輩の背後で、天使の中に生まれたソレが幽かにグズる声が聞こえるのだ。

 あるいは、吠えている。

 子犬のような声で。

 果たして、どんな姿をしていると思うかね?

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