エピソード・人魚の吐息
プシュー……プシュー……と駆動し続ける機械ゴーレムのモーター音や、何がしか水気を含んだものが掻き回される音がボコボコと響く通路を抜けて、私が天使職人に案内された部屋は、虫除けの青白い照明に照らされた、石造りの冷たい一室だった。広さは大病院の特別個室程度のものだろうが、天井は高く、ベッドなどの余計なものが何も置かれていないこともあって、実際にはもう少しだけ大きく見える。
四角い部屋の中央には、簡素だが丈夫そうな木製の椅子が一つ、魔法陣の上に金具で据え付けられている。その椅子に、肌の白い少女が一人、暗い目をぼんやりと膝に落としながら、かすかな呼吸に胸を上下させて、じっと静かに座らされていた。手首と腰にはそれぞれ、黒いベルト地の拘束具が
彼女の脚は、膝から先が一体化して、肉を溶接したかのようにひと繋がりになっている。一見、奇妙な爬虫類のようにも見えるその肌の裏側では、骨も絶妙な具合で噛み合わされていて、実際の魚類の骨格さながらの構造で体を支えているのだと、職人が得意げに語っていた。両足の先の加工はほとんど終わっており、薄く、魚の尾ビレのようにピンと張り詰めている。
この少女は、今、人魚の姿へと形を変えられている最中なのである。当然注文をしたのは私であり、本来であれば、こうして未完成品を眺めることなど、絶対にありえないのだが……。
ゆっくりとした歩調で、すでに人形のような
少女は私の目線の下、何も言わず、眉根一つ動かさないまま、黙って呼吸を続けていた。
……美しい少女だ。
彼女を見つけたのは、とある街で行われていた祝祭の帰りがけだった。騒ぐ少年の群れに後ろ指を指されながら、彼女は魅力的な金の髪と安物のドレスをなびかせて、華やぐ表通りを歩いていた。聡明な美少女に特有の、どことなく少年たちを小馬鹿にしたような、冷たくも愛らしい瞳の動き。そこに彼は、おとぎ話に伝え聞く妖艶な人魚の影を見た。
物語の美しき乙女たちは、例え神話に生きる女神たちであったとしても、皆子供であるというのが私の持論である。美しいものは例外なく純粋であり、精神の美は、幼さの中にしか存在しえない。大人の幼さは肉体と矛盾し、己の欲と溶け合い、
私は物言わぬ少女の顔に手を差し伸べて、抜けるほどに透き通った肌に指を這わせた。
冷たい。だが、しっとりと柔らかい。
アゴを軽く持ち上げ、その顔を見る。
……彼女の顔の何が、私に麗しき人魚をイメージさせたのかと言えば、きっとそれはこの、
下唇に親指をあて、古書を扱うような手つきで、ゆっくりとそれをめくる。
子供に特有の小さな歯が、かすかにカチカチっと音を立てた。
私はそこに一枚の厚い紙を噛ませて、手を離す。
そして、左手に持っていた金槌を、躊躇なく少女の耳に叩きつけた。
耳の付け根の肉が潰れ、
鈍い音と共にベロリと裂けた耳は、花の蜜をすする蝶のような頼りなさで、彼女の頭から垂れ下がった。
だがやはり、少女は何一つ反応を示さなかった。
ただゆったりとした速度で、「今、何かしたの?」とでも言いたげな瞳を、私に向けただけである。
ふむ……おかしいな。
なぜこの少女は、痛みに反応しないのだろう。
私が先日、職人の元へと別の天使のための少女を運び、ついでに作業は順調であるかを尋ねたとき、人魚の天使が、何をされても痛そうな素振りを示さないのだということを知った。興味を持った私は、一度人魚の製造作業の切り上げて、一日私に少女を試させてもらえないかと頼んだのだ。職人はいつも通りに、妙に
私は持ち込んだ鋸刃のナイフを取り出して、それを腕木に添えられた少女の右腕に押し当ててから、なるべくゆっくりと皮膚を切り始めた。
弾力のある肌がスライムのように揺れ、ジュクリ、ジュクリと肉が裂かれていく。血が一滴もこぼれないため、本当に、調理場で魚でも切っているような気分だった。さほども切り進まぬうちに、硬質な骨の感触。
単調な骨の調べを聞きながら、私は少女の顔をじっくりと見上げる。
うーむ……。
少女がこの程度のことに、顕著な反応をしないことはわかっていた。なぜなら今、私がやっていることなど、天使の加工……それこそ、この足の手術と比べれば、ほとんど
しかし……やはり
「痛いか?」私は聞いた。だが、少女は答えない。これは天使の素体とされた少女なら当然の状態である。
冷たい少女の平坦な胸(後々、少し膨らませてやる予定である)を眺めながら、彼女をさらって来た祭りの夜のことを思い浮かべる。少女は少年たちをやり過ごしてから、コソコソと一人で、祭りの屋台で買った肉の串を裏通りに巣食う猫たちに与えていた。背後から連れ去ることは猫を懐かせるよりもずっと簡単だった。
帰り道、外からは中が決して見えないように作られている馬車の中で、私は少女と向かい合って座っていた。見知らぬ男に突然に連れ去られた彼女は、しかし何も言わず、涙一つ見せないまま、自分の指先をじっと見つめていた。私はそれを普通のことだと考えた。恐怖や混乱への反応は人それぞれだ。泣き喚き、前後も左右もわからぬほどに狂う子もいれば、ただ呆けたように、体を強張らせるタイプもいる。少女もその手の一種だろうと、深いことは考えずに、私は彼女を天使職人の元まで連れてきたのだ。
だがそれも、もしかすれば、彼女の持つなんらかの特質の表れだったのかもしれない。少女の経歴をしっかりと調べなかったことが悔やまれる。ドレスの質から考えても、さほどの金持ち家の娘とは思えなかったのだが……。
職人曰く、少女はミキサーとやらにかけるまでの間も、至って大人しいものだったという。それもまた、「何をされるかわからないが、抵抗をするのも恐ろしいので黙って従っている」という、普通の反応とも取れるのだが……。そして、ミキサーの中は溶液で満たされているために、中で叫んでいたかどうかなどわかるはずもなく、体を再生させ、最初の加工に取り掛かった頃には、すでに少女は無反応となっていたらしい。
ならばやはり、ミキサーからの再生の過程で、少女の肉体か脳の中になんらかの変化が生じ、痛みを感じなくなってしまったのだろうか。あるいは、実際には痛がってはいるものの、痛みへの反応ができなくなってしまっただけなのか。
どちらなのか、私は知りたくて仕方がなかった。
少なくとも、彼女は普通ではない。
気がつけば、ナイフは骨のほぼ半分にまで達し、その骨クズが、肉の断面に白く小麦粉のようにこびりついていた。これも無血の肉体ならではの光景である。立ち上がれば、千切れかけていた耳の断面が、薄っすらと再生を始めているのがわかった。
指先を少女の口に突っ込み、先ほど押し込んだ厚紙を取り出す。
……歯型も薄い。だが、多少なりとも踏ん張った痕跡は見受けられる。
頭に様々な可能性を巡らせながら、糸引く厚紙の匂いを嗅げば、ほんのりと甘酸っぱい匂いが香ってきた。血の代わりに天使を生かしている錬金媒体の影響で、唾液も変異してしまうものらしい。もとから排泄物を作るような物質を摂取しないため、天使の素体が臭くなることはありえないらしいが。
私は今度はナイフで鎖骨を削りながら、片手で少女のまぶたをこじ開けて、その瞳の中を注視した。もし、魔力的な原因で少女が痛みを感じていないなら、その眼の光から兆候を得られる可能性があるからだ。しかし、不死魔法と再生魔法が同時にかかった肉体から、原因となるものの手がかりなど見つかるものなのか……。
そう思いながらも私は、少女の瞳の底を見つめ続けていたのだが、ふとあることに気がついて、手を止める。
……?
少女の瞳は相変わらず、
私は、気がついた。
もしや……。
しばらく考えた私は、少女の左腕の拘束を外してから、その手に新しいナイフを握らせた。当然、自分が刺されることのないように最新の注意を払いながら……。
興奮が、胸をくすぐる。
「それをお腹に突き刺したら、君は死ねるよ」
私は、伝えた。
「さぁ、どうする?」
少女の手から、ナイフがこぼれ落ちた。床に跳ねて、カランカランと音が鳴る。
そして……。
少女はそれを、追いかけた。
まずはガクンと、落下するように体が落ちた。腰と右手を椅子に固定されたままの状態で、可能な限りに体を伸ばした彼女は、非常に緩慢な動きではあるが、確かな意志で左腕を伸ばし、床に転がるナイフを探し始めたのだ。
その瞳に映った深刻な光を見て、私は確信した。
弱った体と心から、必死で絞り出された意志を見て、恍惚が背筋を駆け抜ける。
あぁ、やはりそうじゃないか……。
ふふふ……ふふふふふ……。
私は少女の髪を掴んで無理矢理に体を持ち上げてから、腕をもう一度拘束し、持ってきた小瓶の蓋を開けて、中身を全て自分の口に含んだ。
苦い液体を泡立てながら、呪文を三度、頭の中で唱えたのち、それを少女へと口移す。
カクテルグラスのように冷たい唇の温度が、妙に心地よい。
やがて全てを飲み終えた少女の目に、ほんのりと赤みが差したかと思うと、すぐにゲホゲホと咳が始まり、同時に彼女は泣き始めた。
「や……やめて……いだい、いだいよぉ……」と、濁りきった声で、痛みに喘ぎ、震え始めたのだ。
ほら見ろ、やはりそうだった。
少女の鎖骨を削ったとき、私は頬に、彼女の呼吸を感じなかった。試しに手を止めれば、それはゆっくりと再開され、冷たい少女の吐息がかすかに、私の肌をくすぐったのだ。
少女は、やはり痛みに耐えている……。
直感的にそう感じた私は、少女に死を持ちかけた。彼女は迷うことなく、それを欲した。もし彼女が、私の行動を痛くないものと思っているならば、あれだけ必死にナイフを取ろうとは思わないだろう。恒常的に死を願うようになるのは、よっぽどに理不尽な痛みに晒された時だけである。子供なら、なおさらだ。
今私が飲ませたのは、かなり上等な強壮薬に、さらに私の治癒術を加えたものである。おそらく彼女のこの症状は、全身の筋肉の著しい機能低下が原因であったのだろう。この術式は、筋力の減退した老人を一時的に歩かせるためなどに使う強引な魔法であり、高価な薬を使うことも含めて、あまり積極的に試みたいと思えるものではなかった。
もし仮に、少女が痛みを感じないほどに麻痺しているのだとしたら、その原因は脳になるだろう。そうなってしまえば、私に打つ手はなかった。詐欺くさいほどに値の張るこの霊薬を使った術式も、まるで無駄になってしまったことだろう。
まぁ、私はついていたというワケである。筋力減退の原因はわからないが、おおかたミキサーから元に戻す工程で何かがあったのだろう。しかしあの職人、あれほどの医術の腕を持ちながらこの程度のことにも気が付かないとは……。奴はきっと、少女が痛みを感じているかどうかということに、あまり興味が無かったのだろう。あの黒魔術師は単純な造形美の狂信的な
つまり、私とは違う。
私は天使として完成された少女へと姿を見て、その制作過程に思いを馳せることことを無上の喜びとしている、真性のサディストである。
だから……はは。
嬉しいぞ、人魚の少女……。
君が死を願うほどに、痛みを恐れていたことが……。
見下ろせば、少女の瞳。
寒さと恐怖に震えながら、私に哀願するような視線を向ける、可愛い人魚……。
痛いのかい?
寒いのかい?
あぁ……やめてくれ。
そんな目で見られたら、私はもう、帰るわけにはいかないじゃないか。
ゾクゾクと熱い呼吸が胸から上がってくるのを感じながら、私は床に落ちたナイフと金槌を、ゆっくりと取り上げた。
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