オリジナル

「君は天使をどこで知ったのかね?」

 遺跡のように広大な暗く冷たい地下空洞の中にあっては歩き続ける老人の声は聞き取りにくく、頭の中で意味を組み立て直すためにわずかながら集中力が必要だった。この空間には生きている人間は二人しかいない。彼と、ジャコブという名の背の曲がった老人の二人だけだ。死んでいないだけの人間なら沢山いるのかもしれないが、今のところ、覚悟していた天使の姿は影も形もなかった。

「天使の認知度は今や決して低いものではないですよ」意味もなく口元を隠しながら、お茶を濁した返事を返す。

「だが素材の真実までを知る人間は少ない」老人の入れ歯の隙間から濁った声が染み出す。聞くものが聞けばわかる、特殊な薬物を常用しているものの声だった。「不死の真実を知るものはなお少ない」

「不死はともかく素材に関しては有名でしょう。ここまで徹底的に秘密にされていれば誰だって想像くらいつきます」

「それも噂や与太話以上には浸透していない。誘拐された少女の体で作られた人形など、たとえそれが死体であったとしても、常識の世界で生きる者にとってはオカルト以外の何物でもないからな。見識家気取りの皮肉屋どもほど、価格の吊り上げのための箔付けだと得意げに語ってくれる」

「箔付けね……」つぶやきながら、冷えてきた首筋にマフラーを巻き直し、無音で咳き込んだ。「古い天使につく値段の法外さも、数が少ないからだと誤魔化すわけですか」

「古い天使と言えば、ごく最近、オークションで面白いものを手に入れたぞ」ジャコブは苛立たしいほどにのろい足取りを変えぬまま、ヒッヒと笑う。「とある屋敷に隠されていた可愛らしい天使だ。家主はよほどその天使を愛していたらしくてな……誰にも触れさせまい、見させまいと屋敷にこしらえた秘密の空間で愛でていたらしい。それも、情婦としてな」

「珍しいですか、それ?」

「実の娘をだぞ」

「はぁ」やはり珍しいとは思えなかったが、話が続く気配がしたので、取りあえずは頷いた。

「問題は、だ。持ち主の男が秘密を誰にも明かすことなく心臓の病で急逝してしまったことだよ。以来、屋敷を買い取った家系の血族が五十年以上を過ごし、老朽化により取り壊しになる段に至るまで、天使はタッタ一人で明かり一つない秘密の部屋に閉じ込められた」

 暗黒の中で半世紀以上……一瞬だけ、五十年という年月を人間の人生の基準に当てはめて、すぐに思考をシャットアウトする。天使の心理の考察など、初めて真実を知った瞬間から諦めている。少なくとも、心が人の形を保っていることなどありえないというのが彼の結論だった。

「それがどうして情婦であるとわかったのです?」儀礼的にそう聞き返す。

「股を見ればわかるさ。子供のものなど本来なら実用に耐えない。ちゃんと専用の加工があるのさ」

 鼻から意図していなかった空気が漏れた。恐らくは嘲笑。「なるほど」

「それで、君はどこで天使を知った?」

 心の中で舌打ちをする。答えを二度はぐらかすわけにはいかない。自分から隠し事があると明かすようなものだ。

「楽団経由です。楽器の少女たちを最初に見たときから、素材が人体であることは確信していました」き慣れた嘘を吐く。楽団の客から慎重に糸を繋いでいったこと自体は事実だが、天使の正体はその遥か昔から知っていた。

「なるほど、いい目だ」ふんっと、鼻が鳴る。幸いにしてそれ以上の追求は受けなかった。目的地が近づいたからだろうか。

 シャリっと、どこかで霜を踏みしめたような小さな音がささやく。

 辺りはひどく冷たい……が、寒さは感じなかった。

 地下深くに掘り込まれた巨大な冷凍室。その先の扉が近づくにつれて否応なしに高まっていく鼓動を、意識的な呼吸で押さえつける。この先に何が待ち受けているのかを彼は知らない。知っているのは、天使という存在そのものに関わる重大な何かがここにあるという、ただそれだけだった。罠かもしれぬほど淡く頼りない情報だったが、代償は決して安くはなかった。体を売る程度の覚悟はしていたが、右目と左手までを失う羽目になったのには参った。しかしそのおかげで、性癖以外の全てが卑俗で塗り固められていたあの変態からこの場所への紹介状を手に入れることができたのだから、後悔はしていない。取り付けられた次の約束も甘んじて受けられる。

 まだまだ先は長いのだろう。だが、これは大きな一歩だ。

 天使をこの世から一つ残らず消し去る日のために。

 向かう先に迫る、城門のように巨大で厳重な扉。歩み寄るにつれて、その背に描かれた古典的な天使のディティールが視野の中で像を結んでいく。左右それぞれに一体ずつ、翼の生えた裸の天使が胎児のように丸まっていて、永遠のシンボルのように逆さに向かい合っている、そんな構図。

 近づいた……そう思ってから、さらに焦れるほどに時間を消費して、ようやく二人は扉の前に辿り着いた。

 しわくちゃのジャコブの手が天使の壁画に触れる。

 フォン……と、幻聴のように頼りない音が鳴り、岩の砕けるような振動がそれに続いた。

 扉の間にまっすぐに亀裂が走る。喘ぐように苦しげな悲鳴を上げながら、巨大な扉はゆっくりと、内開きにその口を開いた。勿体つけたように緩慢で重厚な動きに冷気が巻き上げられ、白い霧が粉のように宙を彷徨さまよい、闇の中にトゲトゲしく張り詰め消えていく。

「この扉は権利持つ者でしか開けられない」しわがれた低い声。「権利者は私を含め五人しかいない。これがどういう仕組みか、わかるかね?」

 振り返った灰色の顔と、緑色の瞳を見つめる。かなりの老齢だが、少しも耄碌もうろくはしていない。汚れきった執念に己を冷酷に捧げ続けたものの目だ。

「……この扉も、天使だということですか?」

「察しがいいな。流石は謁見を許されただけのことはある」ジャコブはフッと笑うと、また頼りない足取りで先へと進んでいく。「向こうから見れば一目瞭然だ」

 老人の背を追って門をくぐり抜け、円形の地下道へと入る。同時に背後の扉が、背中すれすれをかすめて勢い良く閉ざされた。何かが爆発したような音。硬い肉が噛みちぎられるような、そんなイメージが脳裏をよぎった。

 振り返る。

 軽く見積もって二十以上はある少女の生首が、扉の左右それぞれから虫のように突き出していた。

 顔、顔、顔、顔、顔……。

 目、目、目、目、目……。

 皆美しく、皆、白い。

 皆、生きている。

 ただ、それだけ。

 絶望の吐息が、覚悟と慣れを乗り越えて、わずかに口からこぼれ落ちた。

 そうか……あの天使の絵は、彼女らの骨で作られたレリーフだったか。

 扉に埋め込まれた……というよりも、扉そのものを形作っている天使たちは、あるところでは手を繋ぎ合い、あるところでは抱き締め合って、互いの冷たい体をぬくめようとするかのように虚しく重なり合っていた。胸から下の形が見てとれるものは一つもない。足や背中のは全て、背後のレリーフを作るために総動員されているのだろう。

 冷たい壁に埋め込まれた、美しさに呪われた白い天使たち。中でも一際ひときわ目を引いたのは、扉の両端に2つずつ、計4つ、壁と扉の境目に嵌め込まれているやや年長の天使たちだった。互いに足の裏を合わせて縦に並んだ二対の天使の体は、一見未加工に思えるほどに清純で滑らかだが、中央に走るまっすぐの切れ目が、彼女らの蝶番としての役目を物語っている。体が真っ二つに構造に作られているのか……否、開けるたびに再生魔法で癒着した肉体が引き千切れる、そんなところだろう。ただ、脳を破壊すると効果を失う不死魔法の性質上、きっと脳髄に関わる部分だけは中身が片側に寄っているはず。

 それを可能にする頭蓋の加工手順に一瞬だけ頭を巡らせて、また思考をシャットアウト。

「あの四体の天使たち……蝶番である彼女らは、元は全て聖母だったのだ」老人の声が低いところから響いてくる。「聖母とは何か、君は知っているかね?」

「子を産む能力を保持した天使であると認識していますが」毒づく心を裏切るように、適度に抑えられた冷静な声。この声が出るうちはまだ大丈夫だ。

「うむ、概ね正しい。なればこの扉の構成物質が皆家族であるという道理もわかるだろう」

 天使から目を背け、老人の顔を見つめた。

 天使とは似ても似つかないほど、醜い顔。

 だが……。

「これは……この天使たちは皆、あなたの血縁者なのですね」

 他人の肉体を操れるのは、血の繋がりのある人間だけだ。

「その通り」満足気にジャコブは頷く。「彼女らは見た目は愛らしい少女だが、皆私よりも遥かに永い時を生きている。この施設の始まりは天使の歴史の黎明期の中に含まれているからな」

 ということは、彼女らは少なくとも二百年以上はここにいるということになる。

「……門を天使とすることで、この地を未来永劫一つの血統の管理下に置いたというわけですか」呆れにも似た溜め息を、感嘆へと誤魔化して吐き出した。

「いや、それだけではない」

 ジャコブは何やら愉快そうな笑みに頬を引きつらせながら、またゆったりとした動作で、大聖堂ほどもある巨大な地下堂の中央を振り返った。

 そこには何もない。模様すらない、まっ平らな石の地面。

 だが、そこに何か重大な秘密が眠っていることは、彼も察していた。背後に居並ぶ天使たち……巧みなまでバラされた首の向きとは裏腹に、その目線だけは一様に、同じ方向を見つめ続けていたから。

 老人は歩く。彼は付き添う。

 巨大な空洞の中央から目算して2メートルほど離れたところで、ジャコブは足を止めた。黒い小さな背中は、巨大な空間にあってはゴブリンを思わせるほどにひどくみすぼらしく映る。

「さあ……謁見の時間だ」

 何かが起こることを予感して、息を止めた。

 くうに呪文を刻む老人の手の動きを視界に収めつつ、僅かに白く光を放ち始めた床を凝視する。表層がわずかに沈み込んだような気がしたからだ。気のせいだったかもしれないが、人の視覚がわずかな変化を感じ取る能力は、裏切ることも多々あれど意外と馬鹿にはできない。

 突然、床一面が色を失った。一瞬だけ足元が消えた錯覚を覚え、内臓の一部がざわりと頭皮を逆立てる。

 宝石か、あるいは氷か、霜の張った透き通る地面の下に、巨大な何かが埋まっているのが見える。

 白いラインが、波紋のようにいくつも光っている。

(……コロシアム?)

 コーンと、美しく、高い音色。

 同時に、地下に埋まっていたコロシアムの外周が、不自然なほどに滑らかな動きで地上へとせり上がった。

 ドラムが鳴ったように空気が震え、鼓膜が痺れる。

 コーン、コーンと音は続く。

 その度に突き上がる巨大な円周。現れる度に半径を縮めながら、層を重ねるように、計七段。

 十秒と経たぬ間に、地面の下に埋まっていた真っ白なコロシアムが、地下堂の全てを荘厳に取り囲んだ。

 息を呑む。

 小規模ながらも、あまりにも神秘的な宝石の舞台。

 輝く客席の上に、祈るように両手を握り合わせた天使たちが、ぎっしりと並んでいた。


 顔、顔、顔、顔、顔、顔、顔、顔、顔、顔、顔、顔、顔、顔、顔…………。


(なんて……数だ)

 両手をグッと握りしめ、血の気ごと心を押し潰す。この場所に息づく悲劇の数を、痛みの総量を、意識してはいけない。

 今はその時ではない。

 突然、最上段の天使たちの首が消えた。何かを崇めるように、小さな頭をその膝下へと落としたのだ。

 次いで下段、その下段とリズミカルに音を重ねて、全ての天使が彼らの前にこうべを垂れる。

 美しい光景だった。

 鐘の音がどこからか響きだし、天使の祈りに応えたかのように、中央の地面の下から、一塊の巨大なクリスタルがせり上がってきた。

 月が昇るように、滑らかな動き。

 神秘の輝き。

 息を呑む。

 美しく透き通った氷塊の中に、天使が埋まっていた。

 天使……のような、何かが。

 原始的な吐き気が、胃の腑の奥で泥のようにぬかるんだ。

「は……?」と、思わず声が漏れる。

 咄嗟とっさのことに、彼は口がきけなかった。

 頭も回らなかった。

 自分が予想していた……あるいは見たことのある天使の姿とは、明らかに何かが違っていたから。

「ははは……驚いているね」いつの間にやら背後に回っていた、老人の声。「どうだね、大層な登場の割にはあまりにもチープな出来の天使だろう?」

「えぇ……」気持ちを隠さずに、そう、頷いた。

 クリスタルの中に眠るそれは、ただ肉体をハチャメチャに削られただけの、少女の残骸だった。

(これは……本当に、天使か?)

 宝石の中に閉じ込められていたのは、まるで肉食獣にでも食い荒らされたかのように何もかもが欠けていて、大部分が骨だけとなった小さな少女の体だった。剥き出しの背骨や腰骨にわずかな肉や潰れた内臓、外性器の一部が無造作にむごたらしくぶら下がっていて、骨は折れたままに再生もされず放置されている。子供が作った木の玩具のように雑に広げられた腕は、右腕だけ肘から先が無かった。

 生きている……その実感が、天使としてはあまりにも希薄だった。まるで田舎の貧乏農家のカカシのように大雑把な造りだ。天使に特有の頽廃的な美意識は欠片も感じられない。果たしてこれを天使というジャンルでくくっていいのかと疑問に思うほど無意味で残酷な加工である。唯一、多少なりとも芸術性を感じられるところがあるとすれば、それは顔。頭蓋が剥き出しな左の半面とは裏腹に、右半面は目がえぐり取られている以外にはほとんど手付かずのままに放置されている。

 だが、それにしても、この醜い顔はどうだ。頬が落ち窪み、シワが目尻に寄り、頬骨が目立つゾンビのような顔……よくよく見てみれば元は美しい少女であったというのがわかる骨格をしているが、だからこそ、全てが台無しとなっているこの施術が信じられなかった。人形は……天使は、顔が命。それは天使愛好家たちにとって決して曲げられない不文律のはず。

 そして何よりも異様なのは、肌の色……というよりも、骨のほとんどを染め尽くしている、濁った黒い汚れ。

 おびただしいまでの流血のあと

 天使が血を流すなど、ありえないことだ。

「この天使は……なんなのですか?」抑えるべき声が上擦る。良くない兆候だ。

始原オリジナルだよ」ジャコブはそう答えた。

「オリジナル……?」

「彼女こそが天使の始原……生きたまま人形となった最古の少女だ」

 ズキリと頭に殴られたようかのな痛みが走り、血流とともに視界が冴え渡る。

 オリジナル。

 ピクピクと、震える目尻。

 絶望に似た歓喜が、狂気と混乱の底から湧き上がってきた。

 彼はついに、辿り着いたのだ。

 美しくもおぞましき天使たち、その誕生の秘密に。

 生まれ持った焦げ付く使命感が、しどろもどろに剥がれかけた心を律する。自分が目の前にしているものの価値を把握したことで、逆に彼は、己の内に冷静さを取り戻した。

 天使とは……不死魔法とは、なんなのか。

 それを知るために捧げた二十年だ。

「彼女が……オリジナルですか」興奮と混乱の余波に震える声。だが、この位のほうがかえって自然だろう。「いったい何者なのですか? 市井の娘ではありませんよね?」

「……クラリス」

 ジャコブは、そう唱えた。

「は?」

「彼女の名前はクラリスだ……聞き覚えくらい、あるだろう?」

 記憶の底からその名前が、じわりとアルコールのように立ち上った。

「……<消えた姫君ロストプリンセス>クラリス?」

「その通り」当然のようにジャコブは頷いた。

「馬鹿な……」

「与太話だと思うだろう? 見識家気取りの皮肉屋どもには絶対に信じられないような話さ」

 ハハハハハ……と、享楽に汚れた笑い声が森閑とする地下コロシアムの冷気に木霊こだました。

 彼は唖然あぜんとして物も言えなかった。

 ロストプリンセス……それは二百年前の白革命から始まる現在の教会統治以前、四百年に渡りこの国を支配していた旧王家で最も有名な王女の俗称だ。十一代国王である賢帝グラディス王の第三王女として生まれた彼女は、10歳の誕生日に教皇との面会を最後に忽然と姿を消した。当然大々的な捜索が成されたが手掛かりは一切発見されず、しかもその捜索ですら唐突に打ち切られたという、いわくの塊のような失踪劇の主人公。

 そのクラリス王女が、天使のオリジナル?

 馬鹿馬鹿しいと……冷静な言葉をなぞる心とは裏腹に、胸の高鳴りはすでに痛いほどに深刻であった。喉も灼けるように熱い。

「……その意味するところをご説明願えますか?」氷の中の死骸のような天使を見つめながら、彼は慎重に言葉を選んだ。「もし彼女が本当にあのクラリス王女であるならば、真実は私如きの想像の及ぶ範囲ではないでしょう」

「わかるものかね、真実など」ジャコブは微かな笑いを青白い頬に残したまま首を振った。「血縁証明は成されている。彼女は間違いなくクラリス王女であり、そして生きている。だが言い切れるのはそこまでだ。我が祖先が如何いかにしてこの地を築き上げたかさえ私にはわからないよ」

「しかし……」

「君が何を知りたいかはわかるさ。”何ゆえ”彼女は不死となって、”誰が”彼女を天使としたかだろう。だが、それにまつわる真実はここにはない。彼女は”なぜか”不死身の天使としてここにいるのだ。人並みの寿命しかない我らはただ推察するしかない」

「それでも……」勿体つける老人に業を煮やし、氷の中の王女に歩み寄った。「証拠はなくとも、答えは知りうるものでしょう。王女の失踪は旧代最大のミステリーだ、全てを謎のままで片付けられるはずがない」

「今の君なら、推理し得るのではないかな?」鏡面越しのジャコブの顔が、にじむように歪んだ。

「……は?」

「容疑者はいる。その名は誰もが知っている」

「…………」

「わからぬかね?」フンッと、小さく鼻が鳴った。「クラリス王女の失踪から二年を待たず、消えた王子がいただろう」

 ジャコブの言葉が誰を指しているのは、すぐにわかった。

 様々な情報が頭の中に同時に浮かび上がる。

「……ピーター王子は、病没ではなかったと仰るのですか」頭の中で歴史書のページをめくりながら、ゆっくりと独り言のように呟いた。

 一瞥いちべつした先で、ジャコブは、満足そうに頷いた。

 ピーター……それは、こちらもやはり夭折の天才の代名詞として今なお語り継がれている伝説的な王子の名前だ。大魔道の血統である旧王家の中でも飛び抜けた才能を持った神童として世継ぎを期待されていたが、妹であるクラリス王女の失踪に心身を損ない、闘病生活の末に一八歳の若さで亡くなった悲劇の王子と……そう伝えられている。

「クラリス王女はかの時代に絶対の権力を握っていた王家の直系だ」ジャコブの話は続く。「あの大魔道の血族を外部の者がさらい得るはずがない。ましてや国家を上げた捜索網を抜け切るなど不可能だ」

「…………」

「王女の失踪は俗説のような反対勢力の仕業ではありえず、また家臣たちの政治的陰謀の結果でもない。全ては一人の王子の狂気が成した王家の黒歴史なのだよ」

 馬鹿な……と、彼は再び心のなかでひとりごちた。

 信じ難いという気持ちを拭えぬまま、彼はそれでも冷静に仮説をなぞっていた。与太話であるかどうかの判断は、今は忘れていい。大切なのは、彼がこの話を聞いたのは陰謀論好きの集まる酒場でも霊術サロンでもなく、強大な魔力と天使に守られた秘密の地下堂であるということだ。

「では……ピーター王子が、妹であるクラリス王女に不死の呪いをかけ、その体を切り刻んだというのですか」

「なるほどそうかもしれんな」ジャコブは、しかし、言葉とは裏腹に首を横に振っていた。「だが、そうだとすれば、何故王子は妹君を始原オリジナルに選んだのかに疑問が残る。後に続く天使たちが皆一様に美しいのに、なぜ彼女だけはボロ雑巾のような肉体で放置されているのか……」

 悪寒を感じて、振り返る。

 ジャコブは淀んだ瞳で、氷の中の天使を見つめていた。

「兄と違い、クラリス王女は生まれながらに魔力を一切持たなかった……神話の中で蘇生の魔法に目覚めた女神ミネルヴァと同じでね」

 ザワザワと、見えない虫が足元から背中へと這い上がった。

「では……」

 頷く代わりに、ジャコブの頬が痙攣するように引きつった。

「そうだ……不死魔法とはそもそも、クラリス王女の体に宿った魔法だったのだ。これは錬金実験の果てだ。王子は不死となった王女が不死であるかを確かめたのだ」

 胸の奥からにじみ上がる感情があった。

 吐き気だった。

「……なぜ、そう思われますか」

「私と、この場所の存在だよ。ここは旧王家の血に守られている。罪なき王女にかつて地上に存在し得なかったほどの苦痛を与え、王家から除外された王子の血がなぜ今もここに残り、王女を守っていると思う?」

「…………」

 目を閉じて、唇を噛む。

「不死の実験を……王は許容したのですね?」

 高笑いが、コロシアムの中にまた響いた。

 それが答えだった。

 なるほど、あの時代の支配者……グラディス王は、娘の身に降り掛かった地獄と王子の狂気を秤にかけてさえ、不死の誘惑に抗えなかったということか。

 結果、王女の不死は魔法へと昇華され、天使という唾棄すべき芸術がこの世界に誕生した。

(ゴミクズめ……)

 湧き上がる生理的嫌悪を抑えつけ、オリジナルと呼ばれた天使を……氷の中の王女を見つめる。

 三百年以上前の人間の、死体。

 否、死体ではない。

 生きている。

 見えている。

 彼は久しぶりに、初めて天使を知った時の心臓が凍りつくような怖気おぞけを思い出していた。

 磨き上げたガラスよりも澄んだ宝石の中に眠る、化石のような肉体。骨の上に粘土のように貼り付けられた内臓、脂肪、乾いた灰色の皮膚。

 それがまだ、生きていることへの恐怖。

 自分よりも永い時を生きてきたことへの、畏怖にも似た感情。

 絶望。

 彼女はまだ、生きている。痛みを感じ、寒さに凍えている。冗談のように萎びた顔が、確かに苦痛を訴えている。

 彼女は知っている。

 きっと思い出せないほどに遠くなった、人であった頃の記憶……その奥深くに、悪夢のような真実を引き継いだまま……。

 真実。

 冷たい空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。

「一つ、お尋ねしたい」震えのおさまった声で彼は聞く。「今……あなたが語ったことは、本当にあなた自身が調査し、辿り着いた結論なのですか?」

 老人の眉根が、ピクリと震えた。

「どういうことだね?」

「いえ……」

 一呼吸だけ間をおいて、意識的にゆっくりと、先の見えぬほど暗い高い天井を見上げる。

 真実を知りうるのは、まだ生きている人間だけだ。

 不死魔法を使人間もまた、生きている人間だ。

 天使ではない。

「もしかすれば今の話……王子当人に伺ったのではと思いましたので……」

 彼の問いを理解した老人の喉から、きしるような哄笑こうしょうが吐き出された。

 それが答えだった。

「ハハハハハ……君は本当に察しがいいなぁ」

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