天使展・楽団
賑わう通りを脇道に逸れて、暗くなだらかな石階段を十段ほど下った先にある、人の寄り付かぬ
彼女の店の裏手には、地図には汚水処理施設として記されたスペースがあるのだが、
その建物は老婆の店と繋がっているが、老婆は中を見たことがない。彼女は、黒い服を着た男たちに説明されるままに、死んだ夫の土地を貸し渡しているだけなのだ。きっとその敷地の名義が、自分のものであることさえ理解していないだろう。
レンガ造りの工場の壁を一枚
地下から張り巡らされた細道を抜けて、今日もここには魔術師が集う。霊術師たちの
それゆえに霊術師たちの芸術には、いつも偏見の目が向けられる。
洗脳、煽動、刷り込み、集団自決……怪しい言葉が彼らを汚す。
黒魔術師と言われたものたちの仕事が、霊術師たちの品位を落とす。
だが……それでも一部の人々は知っている。触れるだけで完璧に脳を破壊する洗脳など、無敵の不死ほどにありえないということを。
黒魔術に影響されるのは、元から哀れな人間だけなのだ。そもそも騙されやすい人間しか、魔術に惑わされたりはしない。霊術及び黒魔術の原理は、悪事をはたらく際に少しだけ利用されるに過ぎない。
そもそも、管理局が黒魔法の全てを悪と断じ、それをほとんどの民衆が疑わないように、魔法なんてものを使わなくとも、煽動や刷り込みはいくらでもやりようがあるものなのだ。
そして彼らは知っている。
霊術の業を
芸術は最後には必ず、霊術に行き着くのだ。
だからこそこの場所に、アートを解する人々が集う。
暗く小さな劇場で、人目を忍んで行われる、週に一度の音楽界に、飽きることなく足を運ぶ。
ほら……聴こえてきた
今日もとっても寂しい曲だ。悲劇のような味の歌だ。
それが彼らの音楽だから それが天使の声だから
天使が奏でる魔法の旋律 それが欲しくて彼らは集った
やがて煌めく小さなライト 照らし出された一つの楽器
天使を模したヴァイオリン 手足はなくとも清らかな顔
痩せた体は歪められ お腹はぽっかり開けられた 人と楽器の
調和の取れた 天使の体
白い肌には弦を張り 長い首へと繋がって 留め具の首輪は宝飾のよう
楽器の天使の体を彩る 金の留め具はアクセサリー
黒子が天使を弾く弓は 彼女の足であるらしい
ヴァイオリンには顔がある 痩せた少女の顔がある
天使の顔は客席を向き 奏者が力を込めるたび 白いお
音は確かに弦を弾く 格式高いヴァイオリン
なのになぜだかその音は 彼女の声に聴こえるのだ
次々灯るライトの下で 今度はチェロが歌い出す
チェロの天使も素敵な乙女 丸い瞳の少女の天使
次に光るはピアノの天使 大きなお腹のピアノの少女
四つに別れた足を台座に お腹にせり出す骨の鍵盤
肋骨を伸ばして作られた 大きな大きなお腹の鍵盤
ピアノの天使はピアノを弾くよ 彼女は上からピアノを弾くよ
自分の指でお腹を弾いて 自分の瞳でそれを追うよ
後ろに隠れた黒子の術士が 天使の指を操るから
メロディーは踊る 天使と踊る
トロンボーンが合図を鳴らす トロンボーンの天使が歌う
体をまっすぐ折り曲げた とてもか細い天使の体
皮とも骨とも
枯れ木のような右足の 折れたような根本のところ
そこに黒子が口づけすると 少女の口がそっと開いて 澄んだ音色を響かせる
人が担いで持てるほど 削れた体で歌をうたうよ
音色は激しく雪を降らせ 凍える風が吹きすさぶ
足と背骨と頭しかない 細い天使はシンバル鳴らす 背骨に通したシンバル鳴らす
体を後ろに折り曲げた きれいなあの娘はサックスだろうか
頭の後ろの足の指を 黒子が優しく口づけすれば 笑ったように唇開く
旋律はいよいよ色めき立って スポットライトが増えていく
それは天使のオーケストラ
みんな違った顔をした 凍える天使が歌をうたう
ときに悲しく ときに激しく
無垢の祈りを響かせる
その旋律に包まれたとき
その神々しさに魅入られたとき
人はみな肩を抱いて 天使の凍えがその身に刺さる
天使様は震えていると あの人形は凍えていると
打ち震える我が身の中に 涙をこぼす胸のうちに
心を震わせ 天使を知る
やがて空から逆さの天使が カラーンカラーンと降ってくる
鐘の体を揺らしながら 天に召されるその日のように 神を伴い 降りてくる
体からは力が抜けて
凍え 小さく固くなり
命が雪に埋もれたまま
吐く息に白さの幻を見る頃
急速に意識が薄らいで
寒さの中 眠ってしまえるような安らぎの中で
気がつけば音楽はやみ、明るくなった劇場の中、観客たちの手元には、温かいハーブティーがこっそりと置かれているのだ。
差し伸べた冷たい指先で、そっとティーカップを持ち上げてから、香り高いハーブの湯気を鼻からいっぱいに吸い込めば、体が熱を思い出す。
集った客人たちはゆっくりと、芳醇な果物のような香りを立たせるハーブティーを喉に流し込む。
舌に液体が触れた途端、ビビッと体がひと震えし、ハーブティーが喉から体内に向かって落ちていく中、ジンワリと熱が全身に拡散していく。
それがもう、たまらないほど
吹雪の中から家に帰り、熱いコーヒーを飲む時ほどに慌ただしくなく。
寒空の下で手を温める、余熱のまじない布ほど刺々しくもない。
それはあたかも、命を凍らせる完璧な寒さから、一足飛びに柔らかな春の風を吸い込むかのように、晴れやかな温もりなのだ。
これこそが、「天使の楽団」の演目の真髄だった。彼らは、聞くだけでも魂を凍えさせるほどの技術を持つ霊音楽の達人にして、そこから一瞬間に究極の温かさを思い出させる、最高のティー・メイカーでもあるのだ。天使の協奏曲を聴いてから、このホット・ティーを飲むところまでが、彼らの提供するひとかたまりの芸術なのである。
これぞ、アート。
真の芸術は、霊術の中にこそ存在するのだ。
気がつけば座長の挨拶はとっくに済んで、客人たちはハットを被り、いそいそと帰り支度を始めている。それでも幾らかの感じ入りやすい客人たちは椅子に座ったまま、楽器の天使に思いを巡らす。
媒体とした芸術の格が高いほど、霊術は強く美しく観るものの心を乱す。その効力は、作品に込められた思いと、表現の深さがそのまま力として作用する。
一体人形作家たちはどのようにして、天使を模した楽器の中に、これほどの「寒さへの感情」を閉じ込めたのか。
その方法は、秘密のまま。
客人たちは仮面の給仕にカップを返し、暗い劇場を後にする。
骨と皮だけでできた体を、背骨をひしゃげさせるように、無理にしならせた痛々しい楽器。
きっと、あの天使人形に命があるのならば、さぞや凍えていることだろう。
彼女たちが閉じ込められているのは、地獄のように冷たく、溶けることのない氷の中。
その嘆きの声だけが、歌となって聴こえてくる。
詩人が語る物語のように、
客人たちはまた、ここに来るだろう。
凍える寒さと、そこからの開放を求めて……。
きっとあの天使たちには永遠に届かぬ、安らかなる温もりのために。
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