何も見えていなかったのは

 できるだけゆっくりと時間をかけて帰る。鎹の言葉に受けたダメージが大きかったし、どんな風に詩恵奈に話せばいいかわからなかった。


 鎹の言葉が頭の中で反響する。あの手の正論は思いやりが削がれている分、耳が痛い。


 詩恵奈は東京に逃げてきたのだろうか。私にとって東京は目標の場所だった。「東京」に「逃げる」なんて言葉は相応しくないし、しっくりこない。しかし、詩恵奈の現状を見ていると、そんな風に言われても仕方ないと思う部分もある。だけど、私は相手への尊重や敬意を欠いた言葉には、どうしても反発してしまう。


 自分が上京すると決めたときのことを振り返る。自分で決めたことなのに、何かが悲しくて、寂しくて堪らなくなった。でもその悲しさと同じくらい高揚していて、わけがわからなくなって、たくさん泣いた。どうしようもなく心細くて不安なのに、まだ見ぬ未来の可能性にワクワクしている。事務所の所属や作品への出演が決まっているわけじゃない。住む場所が変わるだけで生活の内容は変わらない。ただ、東京で日々展開されている芸術。大阪にいるよりも遥かに近くで勝負に挑める。たったそれだけのことが一人で旅立つ不安に勝った。静かな闘志が私を焚きつけた。


 私の場合はそうだった。詩恵奈の場合はどうなのだろう。考えれば考えるほど、三ヶ月も生活を共にしている相手のことをよく知らないことを思い知る。私は詩恵奈にたくさん情けないところを見せたけれど、詩恵奈は私に何を示してくれただろう。


 詩恵奈に合わせる表情もかける言葉も思いつかないまま、私は家の扉を開いた。かつて詩恵奈が叩いた扉の隣だな、なんて思った。


 キッチンから漂ってくる料理のあたたかい匂いに、失せていたはずの食欲が刺激される。もう夕飯の時間だったのか。悩んでいようが迷っていようが、いつだって時間は私を待ってくれない。


「おかえり。遅かったな」


 フライパンを持った詩恵奈が食卓に並べた皿にパスタを盛り付ける。熱したトマトソースの食欲をそそる香りが部屋に広がり、舌がうずいた。彩り豊かなサラダもある。


「何かいいのんあった?」

「え?」

「本屋行っとったんやろ?」

「んーー……微妙だった」

「そ? そのわりに遅かったな」

「色々見てたから」


 手を洗って席に着く。いただきます、と手を合わせた詩恵奈はどこか上機嫌そうに見えた。


「うん、おいしい。あたし天才」


 モリモリとパスタを頬張る詩恵奈。詩恵奈が作る料理は何でも美味しい。美味しいけれど、今の気持ちのままでは素直に飲み込むことができない。今思いついたという風を装って、切り出すことにする。


「――――そういえばさ、家の人に連絡取ったりしてる?」

「なんで?」


 詩恵奈は顔を皿に向けたまま応えた。上機嫌が空回っていて、どこか不自然だ。


「いや、なんとなく」

「急にどうしたん?」


 詩恵奈の感情が読めない。


「タカシになんか言われた?」


 気づいていたのだろうか。答えずに黙っていると、詩恵奈が立ち上がり、壁に手を置いた。隣は鎹の部屋だ。叩くのか。蹴るのか。暴れるのかと身構えた瞬間、詩恵奈はコン、と一発だけ拳を突いて席に戻った。


「ジョーのとこの演出家が書いた演技書あるやろ? それ、あたしも読んでみた」

「……………どうだった?」

「よくわからんかった」


 手元に視線を落とし、フォークをクルクルと回してパスタを巻きつける。


「でも、とにかく走れ、って書いてあったやん。そこだけはなんとなくわかった。演技と走るのって関係無いんちゃうんって思うけど、大事なことやねんな。毎日欠かさず走りつづけるメンタルとか、身体のトレーニング的な意味でも………走るのって、全部の芸術に繋がってるんかも……。志維菜も時々、朝走ってるやろ」

「起きてたの?」

「寝てるけど、ウェア干してあるし、ランニングシューズあるし、わかるわ」


 パスタを巻く手が止まるのと同時に、声量も絞られる。


「この数ヶ月さ、こんなに身近でさ、志維菜の………ほんまに夢追ってる人の戦う姿みたいなん見てて、いろんなこと感じた。あたし……あたしは」


 声が震えていた。そんな詩恵奈の声を聞くのは初めてだった。


「そんな風には生きられへんわ」


 言葉の真意を掴みあぐねて、私はフォークを置いた。


「……………どういうこと?」

「こんなに…………何度……落とされても、あかんくても、めっちゃ傷ついて、でもその度に立ち上がって、また目標に向かって歩く、みたいなん………つらすぎる。なあ、志維菜はなんでそんなに強いん? あたしは……そんな風には、なられへん………」


 唐突な吐露。私の中には、ある感情がポツリと浮かんでいた。


 詩恵奈は私の何を見ていたんだろう。


 簡単には叶わないことなど覚悟していたのではないのか。一度として勝利したことのない私の戦いを見て、どうして心折れることがある。私の姿は夢を追う糧にはならないというのか。私の生き様はそんなに無様か。怒りすら覚える。お前はまだ戦ってすらいないだろう。そんな奴が弱音を吐くな。耳が汚れる。


「じゃあ出て行けば」


 放ってすぐに、自分でも意外な言葉だと思った。だけど止まらない。


「もう追う気が無いなら出て行けよ。大阪帰って、車の横で足出して立って、そういう生活に戻ればいいじゃん」

「――――――――」


 詩恵奈は絶句したまま固まっている。それでも止まらない。


「東京に来れば、思い描いた生活が目の前に現れると思った? どうだった? そんな単純だった? 傷つくのが辛いから追わないことにする? じゃあもう帰れっつってんだよ」


 辛辣な言葉だと思う。口にする自分まで傷つくような言葉だ。私は詩恵奈の顔を見れなかった。


「――――――――――――そうやな」


 言葉を落として、詩恵奈は何も持たずに部屋を出た。玄関のドアが閉まる音がする。


 時間が経ってから口をつけたパスタは冷めてしまっていたけれど、それでもやっぱり美味しかった。



 ☆




 コートも着ず、財布も持たずに出て行ったから、すぐに帰ってくるだろうと思った。しかし、二時間経っても三時間経っても、詩恵奈は帰ってこなかった。鎹の所に行ったのだろうか。すぐ隣の部屋にいたとしたら滑稽だ。白い天井を見つめていると、自然と溜息がこぼれた。

 どうしてあんなこと言っちゃったんだろうな。

 考えようとして、やめた。詩恵奈はもう帰って来ないかもしれない。過ぎてしまった以上、取り返しはつかない。痛いほどわかっていた。


 詩恵奈が戻って来たとき、すぐに出て行けるように荷物をまとめておいてやろう。そんなことをすると嫌味だろうか? それでも、この家にある詩恵奈の物を片付けたかった。目につくところにあると、傷つけるつもりで言葉を選んだ残酷な感覚が蘇ってしまう。


 クローゼットの奥にあるスーツケースを引っ張り出す。とても重くて動かすのに苦労した。何が入っているのだろう。衣類はチェストの空いていた段に仕舞っていたはずだ。


 鍵はかかっていなかった。パチンと留め金を外すと、相当詰め込まれていたのか、勢いよくケースが跳ね上がった。ケースを開いて、言葉を失う。


 中にはたくさんのノートが詰め込まれていた。海外旅行に使うような大きなスーツケースが、ノートやスケッチブックで隙間無く埋め尽くされている。

 唖然としてしばらく動けなかったが、やっとの思いで一冊のノートを手に取り開く。一枚一枚に書き込まれたイラスト、モチーフ、人物画、デッサンが描いた者の人物像を伝えるような熱量で線を連ねていた。


 そのノートに紙が挟まっているのに気づく。私も見慣れた「この度は貴意に沿うことができない結果となりました。これからのご活躍をお祈りしております」の文章。

 私が知らなかっただけで、詩恵奈は詩恵奈のフィールドで戦っていたのか。私が知らない間に詩恵奈はこんなにもたくさんの絵を描いていたのか。いつの間に。そんな素振りは微塵も見せなかった。見せなかった、見てなかった、見えなかった………どれが正解なのだろう。


 点と点が繋がった。詩恵奈の不自然な上機嫌。挫折と未納の不甲斐なさ。唐突な心情の吐露。どうして汲み取ってやれなかったんだろう。さっきのあれは、私が相手だから話せた心音こころねだったのではないか。


 視界に靄がかかる。私は過ちを繰り返した。後悔先に立たず。今さら知ってももう遅い。


 私は今まで、詩恵奈の何を見ていたんだろう。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る