これは私の絶唱
この数ヶ月で世界中のありとあらゆる困難を集めて大股で乗り越えたような心算だが、人生とは本来こうあるべきなのかもしれない。浮かぶために沈むのだ。自らに重石を課して窒息しながら海底に留まり続けるか、命を懸けて水面に浮かび、天高く広がる空を仰ぐために足掻くか。どちらを選ぶかは自分次第。望みを叫べば自分が何を選ぶべきかわかるだろう。屈しないことで輝くものがある。
そう思えば苦悩と葛藤があってこその人生なのだろうが、それらは時に命を落とす瀬戸際まで私たちを追い詰める。生と死の淵に立ったときに隣に誰かいるか、誰がいるのか。それはとても大きな問題だ。独りきりだから越えられる死のラインと、独りきりでは越えられない生のラインの両方を、誰もが内に抱えている。
あの日の私が今日の詩恵奈のようにちあみを抱きしめることができたなら、ちあみは今も生きていたのだろうか。生きていたなら、今頃一緒に暮らしていたのは詩恵奈ではなくちあみだったかもしれない。絶対に存在しない世界を描く度にこの胸は引き裂かれそうになる。痛くてたまらないけれど、今の私ならこの痛みを抱えて生きていける。孤独を感じている人を抱きしめる。私はそれを芝居で為そう。それこそがきっと、私が役者として在る上での核になる。
詩恵奈と鎹をそのままにして、私は城之内の部屋に戻った。溢れて止まらないちあみへの思い、詩恵奈への気持ち、芝居についての覚悟というとんでもない熱量を言葉に換えて吐き出した。ここで初めて飲んだ冷めた紅茶は、長らく避けていたカフェインの味がした。私の目標を実現するにはどうしたらよいか、城之内はたくさん助言をくれた。語ったからには、城之内の言葉を一言一句逃さずに捕らえた。
城之内は稽古に間に合う時間ギリギリまで私の背中を撫でてくれた。詩恵奈に触れた手であることは気にならなかった。今日は稽古を休む、と言い出したときは首を横に振った。城之内の荷物になりたくなかった。置いて行ってほしかった。
悲しいのに晴れているという形容しがたい疲労感を振り切って、私はもうすぐバイトに行かなくてはならない。生きるために、芝居をするために、今は働くのだ。
詩恵奈はまだ帰ってこない。今も鎹の部屋で彼と話をしている。そうだ、私も話をしなければならない。今日のバイトが終わったら、詩恵奈とたくさん話をしよう。私の大切な詩恵奈に、話したいことがたくさんある。
詩恵奈を初めて家に上げたときはとても後悔したから、まさか自分がこんなにも人を愛してしまうとは思ってもいなかった。壁を殴り、蹴り、暴れる詩恵奈と初対面で戦った。オーディションの通知が届いて、破いて、敗れて、殊勝な目的に反して未熟な意識のギャップに悩んだ日々も、今となっては不思議と愛しい。
天を仰いで彼女のことを思う。詩恵奈と出会わせてくれたのは彼女だろう。身体が内側から燃えるように熱くなった。
その日の夜、詩恵奈とたくさん話をした。私たちに必要だったのは話をすることだったのだと答えを掴んだ感覚があった。せっかく大切なことに気付いたところだけれど、私たちは此処から長くは一緒にいられない。
私と詩恵奈にはそれぞれ向かうべき場所がある。
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