夢を追う人


 平台と箱馬を組み合わせた雛壇にパンチカーペットが敷かれており、その上にパイプ椅子が並べられている。卒業公演に参加する劇団員で仕込んだのだろう。小劇場の客席は、格式の高い劇場やホールと比べるとどうしても粗末なものになるけれど、私は嫌いじゃない。


 上手寄りのパイプ椅子に腰掛け、劇場に来るのが初めてだという詩恵奈に、舞台の説明をする。詩恵奈は私が指をさす方向に大きな瞳を定めてくれるので、話し甲斐があった。


 劇場に漂う静かな緊張感。期待と高揚。視界を奪う暗転。舞台を駆け回る役者。音。声。体。光。舞台という非日常を構成するひとつひとつに、愛しさが込み上げる。私は芝居が大好きだ。愛している。心を開いて芝居を体の中に入れるとき、この世で一番美味しい物を食べているときのような幸福を感じる。


 この舞台に立つ城之内は、この卒業公演の翌日、プロの世界で仕事の芝居を始める。だけど、私はもうあの日のように羨むことはない。城之内の行き先と、私の行き先は違うから。


 ここでもう一度、カップアイスのビジュアルをイメージする。心を匙に抉られるような悲しみに襲われることは、この先にも数えられるほどあるだろう。私にも、城之内にも。


 あれから一度だけ鎹と話をする機会があった。夢も無く、恋も無く、仕事と家の往復だけの淡々とした日々。「普通の生活」を名乗る繰り返しの日々と孤独は彼の精神を少しずつ追い詰めていった、と言う。


 自分が失望している世界の対岸には、心豊かな生活を送る者ばかり。彼の目に映る世界は、自分以外が幸せ。隣人は夢を追う人。失望は少しずつ絶望へと形を変えていったという。黒い雫が一日一滴、耐えきれずにある日突然の大洪水に至った。私もよく知っている感覚だ。


「ずっとひとりで、寂しかった」


 鎹の本音を聞いて、詩恵奈は彼と暮らすことを決めた。恋人ではなく、家族というには遠い二人だけれど、人は寂しいと死んでしまうから、それがいいと思う。誰も独りには耐えられない。私も独りは寂しい。

 こんなに厳しい世の中では、生き続けることが困難に思えるときもある。片時でも身を寄せあって詩恵奈と生きたこの日々は、今のところ私の人生の中で最も大切な記憶として私を支え続ける。全てのことに意味を見出せなくなったとき、生きていることが何かしらの罰であるかのような気がすることもある。だけどその限りではないんだと、記憶は教えて、導いてくれる。


 詩恵奈も絵を続けている。元々、数回ダメだったくらいで辞めるほど柔な奴じゃないのだ。SNSにイラストを投稿するアカウントを作り、少しずつフォロワーを増やしているらしい。結果が出るまで時間はかかるだろうが、詩恵奈なら大丈夫だ。


 上演後、ロビーに出ると出演者が一列に並んでいた。城之内は彼氏らしき人物と話していたが、私達に気づいて手を振ってくれた。


 感想を述べようとした瞬間、詩恵奈が城之内に抱きついた。恋人の前でなんてことをするんだこの女は。引き剥がそうと首元を掴んだが、詩恵奈の目は涙で濡れていて、その抱擁には一人の表現者を称える敬愛の念が込もっていることに気づいて、手を離した。城之内は困ったように笑っている。


「志維菜さん、来てくれてありがとう」

「すごく良かった。詩恵奈がいなかったら、私も抱きついてたかも」


 冗談めかして伝えたかったのに、思ったよりも声のトーンが低くなった。芝居に対する愛しさを確かめさせてくれた城之内への感謝の想いが強すぎる。


 涙をこぼしかけた瞬間、「ンエーー」と嗚咽を漏らした詩恵奈が私の手を引っ張った。城之内に飛び込む形になり、彼氏の視線が気になって青ざめていると、城之内が背中に手を回してくれた。間髪入れずに城之内の彼氏も飛び込んで来て、私達は男性二人にサンドされる形になる。はたから見れば不思議な光景だろう。


「志維菜さん、明日オーディションだったよね」

「うん」

「頑張れ。でも、頑張りすぎないでね」


 頑張ってるの知ってるよ。


 この言葉が含むもう一つの精励を受け取った。誰かに認めてもらえるって、嬉しい。


「城くんも頑張れ。でも、頑張りすぎないように」


 これから、それぞれのフィールドで。


 私も贈る。城之内が受け取ったことを感じて、自然と笑みがこぼれた。ありがとう。


 一旦の別れ。倒れないように。負けてしまわないように想いを贈り合う。それぞれが行くべき所に行こう。



 ☆




 雨は嫌いじゃないんだけれど、出かける直前に大雨に降られると困ってしまう。スーツケースにカバーを付けていると、邪魔する雨音が脳髄の奥にネガティブなノイズを生んだ。

 いっそのこと、全部やめてしまおうか。無謀な夢をだらだら引きずり、生計を立てることもままならないなら、何もかも全て………。


 そこまで考えて、笑う。誓って、揺らいで、そんなことを繰り返してばかりだな。


 物語の主人公なら、こういう旅立ちの日は晴れるものだろうが私の場合は大雨。そんな私だから、きっとこの後の事も、上手くいくわけではないと思う。だけど、そんなことを考えても意味が無い。卑屈は捨てて行こう。私は私の進むべきところに進む。甘えを断ち、目標との距離を測り、定め、歩き続けるだけだ。どこまで行けるかわからない。どこにも行けないかもしれない。生きることには意味も、答えも無いだろう。正解も不正解も、成功も失敗も無い。それでも大丈夫だ。どんなに打ちひしがれても立ち直れるくらいには、私の命は丈夫にできている。だって、生きるってそういうことでしょう?


 外は大雨だけど、もう行かなくちゃ。玄関で詩恵奈が見送りに立ってくれている。


「もう行くん?」


 このオーディションが決まれば、私と詩恵奈は別れることになる。

 最初は詩恵奈のいない生活が当たり前だったのに、今は、それを思うと寂しくて堪らない。


「行くよ」


 いつまでも一緒にはいられないから。


「よし」


 詩恵奈が大きく両腕を広げる。私も同じように広げて、抱き合う。肌の温もりが、髪の匂いが、命が脈打つ音が、全身を包む。一人じゃない。


 詩恵奈は私が好きな笑顔を見せた。


「行ってこい!」


 見ていてくれる人がいる。抱きしめてくれる人がいる。それがこんなにも嬉しい。私は、もう、こんなに愛してくれる人を残して世界から去ろうとはしないだろう。


 雨に打たれる痛みも、寒さも、苦しみも、全てが幸せだと思える。幸せっていうのは、うれしいとか、楽しいとか、そういうふわふわしたものだけを言うのではないらしい。生まれて初めて感じる苦しみの幸せ。時に敗れる。これ以上無いってほど伸ばした手も、届かないことばかりだ。後悔もある。「ある」とか「ない」とか忙しないけれど、これさえあれば生きていける、そんなものが私にはある。この先何があっても、何が大切か、それだけは見誤らない。肝に銘じる。


 一歩踏み出す。古い傘なので布に雨が染み込んで濡れてしまう。でも、新しい傘はいらない。身に降りかかる雨は全て受け止めよう。今までの自分を洗い流す覚悟で、私は傘を放り投げた。


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さようなら屋根のあるお家 木遥 @kiharu_07

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