役者を目指す者と絵描きを目指す者が思わぬきっかけで同居することになるところから始まる、決して生易しくはない青春の一ページ。
自分の内面すべてをむき出しで吐き出す主人公の一人称には凄まじい気迫があり、最初から最後まで緩むことなく疾走する。そこには厭世や嫉妬や苛立ちや後悔や、とにかく人間としてのあらゆるドロドロとした感情が渦巻いている。
にもかかわらず、主人公は何度つまづいてもその都度立ち上がり、必死で前を向こうとする。そのつねに奥歯をかみしめているような姿にはヒリヒリするものを感じる。
彼女は自分に厳しく非常にストイックである。が、同時に自分しか見えていない。他人とのつながりを拒むようなその頑なさ、視野の狭さは役者を志す者として致命的な欠点にも見えるのだが、それが何かを目指す人の強さであり、弱さなのかもしれないと思う。
この主人公が、絵描き志望の女性や同じアパートに暮らす者たちと関わる中で、人というものに何を見るのか。最後にかけての怒涛のような感情の流れには、呑み込まれるようなカタルシスがある。この物語はひとりの人間が本当の意味で開眼する話でもあると思う。
テンポよくどんどん展開し、笑わせながら抉ってくる物語。
不安の中で何かを目指し続ける人にはぜひ読んでいただきたい青春小説である。
一行目。読んだ瞬間から、確信しました。
あ、堕ちたなと。もうこの世界に入ってしばらく戻って来られないなと。
実際そうでした。一気に読んでしまいましたが、読み終わるのがとても嫌でした。まだ読んでいたい、ずっとこの物語を見ていたい。けれど、読み切りたい。二つの感情の間で揺られながら、読了したのが昨日です。
絶対レビューを書こうと決めましたが、何しろ未だに興奮が冷めないので、文章が支離滅裂かもしれません。ご了承下さい。
役者になることが夢の志維菜と、絵描きになることが夢の詩恵奈の二人が、ひょんなことから出会い、同居することになります。
この「ひょんなこと」というのがまたインパクトがあるのですよね…。
この時点でもう虜になってしまう人も多いのではないでしょうか。
コミカルで明るいので、笑いながらつっかえることなくスイスイと読めます。それでいて文章がしっかりしているので、深みもあります。出てくる文章表現が、また刺さるのですよ…。気取っておらず、ただただ真っ直ぐに、読み手の心に向かってくるといいますか…。
そして、一番重要なこと。この物語の中心を流れる川。そのテーマは、「夢」です。
この小説って、シンデレラストーリーではないんです。サクセスストーリーではないんです。
努力して、紆余曲折あったけど、小さい頃からの夢を見事叶えてハッピーエンド。そういう物語ではありません。違います。
綺麗事は一切書かれてません。
夢を追い続けることによってあぶり出される、「人間らしさ」。
そういったものが、目を逸らされずに、明白に書かれています。
夢。夢を抱くって、とても素晴らしいことです。それを実現させるために努力するのも、素晴らしいことです。
けれど、こんなにも残酷なものがこの世にあるでしょうか。
夢は、必ず「現実」を運んできます。
挫折。嫉妬。
夢を抱くことは、綺麗なものばかりではありません。むしろ、とても汚いものばかりが纏わり付いてきます。
本当にリアルでした。心が痛むまでに共感しました。
でも、ただ暗い現実を描いただけでは終わりません。
ラストで深く納得しました。このタイトルの意味は、そういうことだったのかと。
同時に、何か、とても大切なものが見えた気がしました。
夢を追いかけてる人、夢がわからない人。夢を叶えた人、夢を挫折した人。
全ての人々に、読んで頂きたいです。
この小説は、そういった人々に、必ず心に何かを残してくれるはずです。
日本では古来より遊行する人々、定住せずに一芸によって旅暮らしをする人々があり、支配の難しさから白眼視されてきました。
本作の舞台は現代、遊行する人々は現れず、代わって進学、就職という現代的定住から外れ、役者、画家という特殊技能で生きようとする若者の姿が主題となります。
しかし、彼らを見る現代的定住民の眼は厳しく、さらに、その目線は知らぬ間に彼ら自身にも内包されており、生きたい道と冷たい目線の乖離に悩み、傷つき、どうやって乗り越えていくかを試行錯誤する日々、険しい道は当然のように涼しい顔でやり過ごすことなどできず、怒って憂えて泣いて笑う、感情の噴火を繰り返しながら、自分と置かれた環境、仲間たちを、同じものであっても新しく見出していくことになります。
老獪な知恵を欠くだけに心身でぶつかるよりない若者の姿はいっそ爽快で、明かされる内心はこっ恥ずかしいくらいに真っ直ぐです。
文章は重苦しさに沈みこまんと笑わすところはきっちり笑かしに来よります。読後感も爽やかやし、こら青春小説ですわ。
何かを生み出すのはなかなかの苦行を伴うもの、本サイトで自作に頭を捻って疲れ果てた時、本作の真っ直ぐな人々に触れて文章を書きはじめたころの初心に帰るのも、エネルギーチャージになりそうですね。
最後に、江戸時代にヒラキと呼ばれる屋台で講談を語った乞胸(ごうむね)も非人として扱われており、物語を語る人々も遊行する人々に含まれていたことを申し添えておきます。
役者を目指し、全精力を傾けて努力しているが、オーディション連敗中の志維菜。
アパート隣室のドアをキャミソール一枚で叩いていた詩恵奈と、ひょんなことから同居することに。
文章に勢いがあって、いろいろ笑えるんですけれど、胸にグサグサ刺さるというか。
安定した職に就かずに夢を追うことに冷たい世間に対し攻撃的で、返す刀で成果の出ない自身をも傷つける志維菜の心の叫びに、「お前は、自分の夢に対して真摯か?」と問い返される気がするんですね。
周囲に「三度の飯より○○が好き」みたいな、他に趣味もなくその道に邁進する人がいるので、その人に比べると自分は努力していないなぁ、という引け目。
世の中の全ての人間が、志維菜のように自分を追い込んで、背水の陣を敷く必要はないと思うのですが。
私にそういう生き方ができないように、志維菜はその生き方しかできない。
読みながら、志維菜と一緒に怒って、挫折して、泣いて。
一気読みでしたが、ジェットコースターのようで、とにかくパワーのいる小説でした。
読者は志維菜をまぶしいと感じるだろうか。
それとも、志維菜に強く共感するだろうか。
羨ましさの余り、目を背けたくなるだろうか。
あるいは、理解し得ない変人だと笑うだろうか。
志維菜は役者だ。
劇団や事務所に所属してはいないし、実績もない。
オーディションを受けては落ち、また挑戦する。
バイトで食い繋ぎながら、役者として足掻いている。
人付き合いが不器用で、心を閉ざしがちの志維菜は、
演技をするときだけは狭苦しい日常の殻から逃れ、
生きたいとおりの自分として生きることができる。
そうであると信じて、自分をきつく縛り付けている。
縛り付けているように、私には見えた。
こうしなければならない、こうでなくてはならないと、
より息苦しい方、逃げ場のない方へと自分を追い込む。
その一生懸命さが、痛いくらい、私自身とも重なった。
志維菜の生活は、ある夜、詩恵奈の登場で一変する。
キャミソール姿でドアやら壁やら殴る変人の詩恵奈は、
そのくせ人懐っこくて美人で、料理上手で要領がいい。
志維菜はなせだか詩恵奈との共同生活を始めてしまう。
詩恵奈もまた、絵を描きたいという夢を持っている。
肩の力が抜け切ったような詩恵奈のお気楽な態度に、
志維菜は呆れ、あるいは苛立ち、時には怒鳴り付ける。
詩恵奈は優しいけれど、何を思っているのかつかめない。
役者や絵描き、小説家やミュージシャンや学者になりたい。
そんな「夢を追う人」は、普通じゃないのかもしれない。
社会を舐めていると眉をひそめられ、つまはじきにされる。
レールの上に乗っかっていなければならないのだ、と。
普通じゃなくて、だから何だっていうんだ。
人と違うから、なめられなきゃならないのか。
負けてたまるか。ふざけんな。
今に必ず、なりたい自分になってみせる。
そうやって戦って生きられる人間は、たぶん多くない。
だから、戦う志維菜への共感か反感か羨望か無関心か、
読む人のそれぞれで、抱く思いは大いに異なるだろう。
作中でもまた、多様な立場の人々が志維菜を取り巻く。
志維菜が身体を壊したとき、詩恵奈が助けてくれた。
志維菜が自ら心の傷を抉ったときも、詩恵奈がいた。
そして、志維菜と詩恵奈が心をぶつけ合ったとき、
停滞していた志維菜の心身はやっと本格的に動き出す。
苦しく激しい本音の思いが赤裸々に切々と書き綴られ、
単純化された安らぎやご都合主義の達成感は得られない。
そんな物語なのに、不思議と読後感は優しく晴れやかだ。
「夢を追う人」が、全力で生き続けられますように。
私もきっと志維菜に似ている。
誇れる自分になりたい。
思う存分「表現」をしたい。
自分が生き続けることを許してみたい。
努力は必ず報われる、という思想があります。
希望に満ちた前向きな思想です。しかし見方によってはこれほど残酷な思想もありません。だってこの思想は、裏を返せば「報われていない人は努力していない」ということです。「努力しているけれど報われていない」人がこの思想と向き合えば、否定すれば未来の努力を、肯定すれば現在の努力を乏しめてしまうジレンマを抱えることになります。
本作『さようなら屋根のあるお家』の主人公、志維菜は役者志望であり、まさにその「努力しているけれど報われていない」人です。彼女はそんな現実にフラストレーションを溜め、同じ夢に向かって歩む同志を妬んだり、妬んでしまう自分に自己嫌悪を抱いたりします。「努力は必ず報われる。わたしはまだ努力が足りないだけ。がんばろ☆」と頭お花畑にして突っ走ることは出来ない。そういう人間くさい心理と葛藤が随所に描かれています。
対してもう一人の主人公とも言える絵描き志望の同居人、詩恵奈のそういった葛藤はあまり描かれません。美人で、自由奔放で、絵描きになりたいという夢とは無関係にやりたいことをやる。志維菜とって夢は現実と地続きにあり、詩恵奈にとって夢は現実と離れた場所にある。だから詩恵奈は「叶ったらいいな」程度の努力しかしていなくて、努力をしていないから報われていない現実もへらへら受け止めることが出来る。そういう風に見えます。
志維菜の目線では。
志維菜はおそらく「君が報われていないのは君の努力が足りないから」という言葉に頷けません。しかし「努力は必ず報われる」という思想を潜在的に信じてもいます。その信心が呪いとなり、努力しているのに報われないという現実と合わさって彼女を目を濁らせている。夢を叶えてしまえばその濁りは簡単に取れるけれど、夢を叶えることなく濁りを取り払うのは泥臭い自分との戦いを避けられない。本作に記されているのは、その泥臭い自分との戦いです。夢に向かって邁進する女の子の輝かしいサクセスストーリーではありません。だからこそ、御伽噺ではないリアルな感情が読み手の胸に刺さります。
カクヨムの場の特性を考えれば、現在進行形で志維菜と同じような状況に陥っている方も多いでしょう。そういう人に是非、本作を読んでもらいたい。タイトルになっている「屋根のあるお家」とは何なのか。そしてそれに「さようなら」と別れを告げることが何を意味するのか。読了し、その答えをぼんやりとでも捉えることが出来れば、夢とも、現実とも、もっと仲良くやれるのではないかと思います。
夢を追いかける若者のお話なのですが、この物語の主人公、志維菜さんのひたむきさを知ってしまったら一気にもう、目が離せなくなりました。
この吸引力はきっと、志維菜さんという人物にただならぬ真実味があるからだと思うのです。
更新されるのを待っている間も、きっと今も志維菜さんは夢を追いかけている真っ最中なんだろうなぁと、当然のように考えている自分がいました。
物語自体にも、フィクションだということを忘れてしまうような臨場感と現実味があって、夢を追う若者に密着したドキュメンタリー映画を見ている気分でした。
だからこそ役者を志す志維菜さんを本気で応援したし、志維奈さんが演じている姿を本当にこの目で観てみたくてたまらなくなるのです。
同時に、傷つきながらも夢に向かって突き進む志維菜さんの姿に胸を打たれまくりました。
……というと、綺麗な感動のお話っぽいですが、ただ綺麗なだけじゃないところがこの物語の真髄なのではないかと私は思うのです。
虚飾のないむき出しの感情が魂の叫びとなって、それはそれはもうエグいくらいに読み手の心を貫いてくるのです。もうね、これは実際に読んで体感していただきたいです。
志維菜さんの揺るぎない生き様を心に刻み、私も努力を忘れない人でありたいと強く思いました。
ありがとう、志維菜さん。
大切な気持ちを思い出させていただきました。
志維菜と詩恵奈。ふたりの女性がふとした出来事(ほとんど事故)からひとつ屋根の下で暮らすことになる。ひとりは舞台上で、もうひとりはキャンパスの上で自分を表現する術を探している。まだ若く、暮らしも安定しない、心細いふたりが寄り添うようになのは必然だったかもしれない。
それでも、そんな暮らしが永くは続かないのはふたりともわかっていた。
性格も、性質も、似ているようで全く違う。ぶつかり合うのは避けられない。
ギリギリのバランスで、向き合いながら、目を背けながら、ふたりは自分の夢と、現実にそれぞれ立ち向かっていく。
特に私が推したいのは二章の各話のタイトルセンス。
どうにも読まされる勢いがあるので、ぜひおすすめしたい。
ふたりは真剣に夢を見ている。真剣に生きている。
自分なりの生き方に戸惑う多感な青少年の、背中をそっと押してくれるような生き様だと思う。夢を見るってこういうことだ。ほんとに。