6.孤独者の傘

フラストレーション feat.C

 家具が白と緑でまとめられているせいか、同じ間取りなのに城之内の部屋の方が広く感じた。ガラス製のローテーブルを挟んで詩恵奈と向かい合わせに正座する。私はコートを着たまま、詩恵奈はシャツの裾を両手で引っ張っている。


「服ちゃんと着な、だらしない」


 詩恵奈は返事をせずに立ち上がり、クローゼットを開けてグレーのスウェットを取り出した。どこに何があるのか把握しているような動きだった。


 ぶかぶかのスウェットをひきずった詩恵奈が再び正座すると同時に、城之内がテーブルに紅茶を置いてベッドに腰を下ろした。重い沈黙が訪れる。


 昨日の後悔を清算したい気持は消え去っていた。口にしたことは無かったが、詩恵奈は私の城之内に対する好意に気づいていたはずだ。しかし、思い返せば現状に繋がる予感もあった。サインを見逃していたのは私の方だったのだろうか。


 感情が鉛のように重くなっていく。詩恵奈と城之内、二人の存在を同時に失ってしまったような心境だった。私がいないことで成立する関係が二人の間にある。そのことにどうしようもなく疎外を感じる。


 このまま付き合いが切れてしまってもいいかも。卑屈な言葉が思い浮かぶたび、頭の中で警鐘が鳴る。同じことを繰り返してしまうぞ、と。嫉妬と羨望がグチャグチャに混ざったドロドロのスムージーを心の中で飲み干して、ちあみを失ったあの日の自分の後悔を思う。大袈裟ではない。選択一つで掴みそこねる。


 認めよう。私は詩恵奈が羨ましいんだ。


 こんな風に他人に生きることを支えてもらえる詩恵奈が羨ましい。どこに行ったって独りじゃない詩恵奈が羨ましい。美人で人当たりが良くて、私が欲しくてたまらないものを全て持っている詩恵奈が羨ましい。


 自分がどんどん変質していく。他人のことなど煩わしくて、他人に想いを馳せることなど一生無いと思っていたのに、止まらない。私だって誰かに支えてもらいたい。独りで生きたくない。独りは寂しい。独りは悲しい。独りは嫌だ。


「言いたいことあるんだろ」


 沈黙の隙間を縫うような城之内の声が詩恵奈に向けられる。うつむいていた詩恵奈が顔を上げたので、私はとっさに目を伏せた。詩恵奈が何か言う前に、言おうと思った。


「都外の劇団を受けようと思うの」


 二人が驚いていることは顔を見なくてもわかった。ちあみの事件の真相を知ったあの日に決めたことを、そのまま口にする。


「石川県に県立の劇団があるの。お給料貰いながら劇団員として舞台に立てるところ。ずっと存在は知ってたんだけど、受けようとは思わなくて………でも、そんな選り好みしてる場合じゃない。私には実績も実力も足りないから、それを両方培うために、入りたいと思う。私、もともとTVに出たいとか無いんだ。芝居をして生きていくなら、東京にこだわる必要は無いんだって………今さらだけど、ちゃんと気づいたから」


 きっと、伝えるタイミングは今じゃない。わかっているけれど、もうどうでもいい。タイミングとか、空気とか、そんなものを伺ってばかりの私は、たくさんのものを逃してきた。


「私はいつまでもこの家にいないよ」


 詩恵奈の拳が床を叩いた。行き場のない気持ちが溢れたときの叩き方だった。


「何それ」


 私の好きな美しい形のアーモンドアイは、私のことを強く睨んでいる。


「行きたいところとちゃうけど実績が欲しいからとりあえず行くってこと? 実績無くても、どこにも所属できてへんくても、それでも自分は役者やって言うとったやん! 言うてたこととちゃうやんけ、言ったんやったら貫けよ! あのとき、あたし、あたしは志維菜みたいに………」


 詩恵奈の喉が感情に締めつけられていく。キツく締まった喉から溢れた声は、痛々しい音をして私の心に突き刺さった。


「志維菜みたいになりたいと思ったのに」


 溢れる涙を拭いもせず、詩恵奈は私を睨みつけたまま動かない。


 寂しさと愛しさが混ざったみたいな、ただただ胸を締め付ける感情が心を占める。私の目にも涙が溢れた。抑えられるはずもない。


「私の何がいいねん……私みたいになっても、情けないばっかりやぞ」

「あたしだって情けないわ!」


 詩恵奈が近くにあったクッションを投げる。私の頬をかすめて玄関の方に飛んでいく。


「いとこにフられて裸で閉め出されて! 隣に住んでる親切なお姉さんに面倒見てもらって! それも上手くいかんかったら下に住んでるにーちゃんとこ転がり込んで! タカシも志維菜もジョーも自分の力で生きてんのに、あたしの方がよっぽど惨めで情けないやろが! それやのに……自分の力で生きてるお前がそんなん、言うな……言うな………!」


 詩恵奈が地団駄を踏む子供のように頑なに目を閉じると、赤く上気した頬を新たな涙の筋がいくつも伝った。


「私、全然、あかんから」

「何回あかんくても諦めんと頑張ってるやん、めちゃめちゃカッコイイやんけ! 志維菜はダメじゃない、ほんまにダメな奴はあんなに毎日頑張られへん! 少なくともあたしはああなりたいと思ったよ、志維菜が夢を掴む瞬間、絶対見たいと思ったよ!」


 詩恵奈はずっと私を見てくれていたんだ。今この瞬間も瞳を尖らせ、射殺さんばかりに私のことを見つめている。

 それなのに、私は詩恵奈の苦しみにはなんて無関心だったんだろう。自分の苦しみにはとことん詩恵奈を寄り添わせたくせに。


「ごめん!」


 謝るつもりで頭を下げたが、距離感を誤ってテーブルに頭を打ってしまった。詩恵奈も城之内も笑わないので、私も笑わなかった。


「スーツケースの中、見た」


 その一言で伝わったようで、詩恵奈は黙って頷いた。


「折れんなよ」


 情けないけど、ぶつ切りの言葉を吐き出す。詩恵奈の話をちゃんと聞いてやれなかった後悔と伝えたい想いが強すぎて、そんな風にしか言えなかった。


 そのとき、上の階から大きな物音がした。生活音とは違う、重たいものが地面に叩きつけられたような異様な音だった。


「何今の音…………」

「この上って志維菜さんの部屋と、隣の………」


 城之内の言葉が終わる前に、詩恵奈が部屋を飛び出した。切り替えの早さに困惑しつつ、私も後を追う。私が階段の手すりに手をかける頃には詩恵奈は階段を駆け上がり、部屋の扉を叩き割らんばかりの勢いで殴りつけていた。私の隣の部屋、鎹の部屋の扉だ。


 尋常じゃ無い轟音に、様子を伺う視線をいくつか感じた。そのうちのひとつはクボタだったが、私が睨み付けると「朝っぱらからなんなのよ」と呟いて奥に引っ込んだ。クボタの言う通り非常識な行動だが、私は詩恵奈が何を懸念しているのか察していた。止められるはずがない。


 鎹が扉を開ける気配は無い。詩恵奈は私のコートから鍵を奪い、私たちの部屋を開錠して一目散にベランダまで駆け抜けた。バルコニーを飛び移り、鎹の部屋の窓を開ける。鍵はかかっていなかったようだ。私が詩恵奈の後を追ってバルコニーを飛び移った時、詩恵奈は尻餅をついた鎹と相対していた。クローゼットには縄が括り付けられていて、床には踏み台にしたのであろう雑誌の山が崩れ、散乱していた。


 鎹は生気のない表情で震えながら、詩恵奈の足元に視線を落としている。必死に隠していた悪さが親に見つかったときの子どものようだった。詩恵奈は鎹に大股で歩み寄り、覆い被さるように、鎹を抱き締めた。


 何も語る必要は無かった。鎹の手が詩恵奈のシャツを握り締めたとき、私は二人の姿に自分とちあみを重ねた。振り回されすぎた感情と、私の後悔の全てが目から溢れ出した瞬間だった。




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