絵描きと役者のキャットファイト
スーパーの閉店時間に間に合わなかったので、コンビニで缶チューハイとサラダ、念のために手指消毒専用のアルコール剤を購入した。
夕飯はどうしよう。朝炊いた米が残っているし、冷凍室にはレトルトの餃子がある。めかぶで簡単なお吸い物を作ればバランスは整うか……。アパートの階段を上りながらメニューを組み立てていると、ダン、ダン、と何かを叩くような音が聞こえてきた。
踊り場の陰から音のする方を覗くと、女性が扉を叩いているのが見えた。顔はよく見えないが、雰囲気的に恐らく二十代の女性。凍えるほど寒いのにキャミソール一枚で、正座の足を外側に外したいわゆるおねえさん座りの形で座りこんでいる。右手でキャミソールの裾を伸ばすように引っ張りながら、左の拳でダン、ダン、と一定のリズムを保って扉を叩いている。叩くというより殴ると言った方が適切かもしれない。素通りしたいが、彼女が道を塞いでいるので通れない。彼女が扉を叩いている家の隣が、私の部屋なのだ。
どうしたものかと考えあぐねて肩をすくめると、持っていたビニール袋がカサリと大きな音を立てた。それに反応するように女性は扉を殴る手をピタリと止めてしまった。眼中に入った。何か言わなければならない雰囲気。
「大丈夫ですか」
「大丈夫です」と返答されることを前提に尋ねたのたが、女性は反応を示さなかった。助けを求めてこないということは、事件性は無いとみて良いだろうか。そもそも、この扉を殴られてる家の人はどんな人だったっけ。
「……じゃあ、ちょっとすいませんね。通りますよ」
無反応を肯定的に解釈して、壁に体を擦り付けてスス、と隙間を縫うように通り、手早く鍵を開けて部屋に滑り込み、扉を閉める。
後ろを通った時に見た感じ、女性は本当にキャミソール以外何も着けていないようで、そのキャミソールも薄くて頼りないから実質は裸と大差なかった。せめて、何か体を隠せるものを渡してやろうか……。来週処分しようと思ってよけておいた型の古いトレンチコートがあったはずだ。それだけサッと渡してスッと引っ込もう。サッとしてスッ。いける。仕舞ってあったトレンチコートを手にし、私は音を立てないように扉を少しだけ開いて外を覗いた。女性はまだ座り込んだままだった。
「あの、よかったらどうぞ」とそのとき、女性が顔を上げた。ハイトーンの髪色からなんとなく感じてはいたが、とても派手な顔立ちをしている。化粧っ気は無いから元々のパーツが華やかなのだろう。端的に言うと美人。
女性は差し出したコートをチロリと見たが、それ以外に反応は無い。どう見てもピンチなのに、助けを求める雰囲気も、身を守るようなモーションもない。
他に人が通ったら面倒なことになるぞ。焦りと共に心の中で呟いた瞬間、男性の二人組が角から曲がってきた。大学生くらいだろうか。女性に気づいた片割れが「うわあ」と声をあげて、何かヒソヒソと話し合っている。話の内容はわからないが、なんとなく下衆方面に転がっているような気がする。
彼女がこんな格好で何をしようが私には関係無いけれど、この状況のせいで彼女に何かしらの危険が及んだとして、そうなると私は無関係だとも彼女の自業自得だとも言い切れなくなる。声をかけてしまった以上、捨て犬のように無防備な彼女のことを放っておくわけにはいかなくなってしまった。彼女がそこそこ美人だったことは関係無い。
素早く女性の肩にトレンチコートを掛け、二の腕を掴んで部屋に引き摺り込む。意外とあっさり立ち上がってくれたが、触れた肌は氷のように冷たくなっていた。
扉と鍵を閉め、取り敢えず寒さなどの危険から保護してあげられたことに安堵する。
「えーー……っと、…………ま、何でもいいか。服、貸してあげるから、体冷たいし、取り敢えずお風呂入りなよ」
「…………カシ」
俯いたまま、女性が何か呟いた。聞き取ろうと耳を近づけた瞬間、女性が顔を上げる。鬼のような形相だった。
「タッカシてっめぇ、マジ覚えてろよコルァァァァァァア!!! 」
そう叫んで、女性は裸足のまま部屋を駆け抜け、先ほど扉を叩いていた部屋がある側の壁をガンガンと叩き始めた。後悔先に立たず。
壁を壊されたら困る。さすがの私も髪を振り乱し、ギャーギャー言い合いになりながらも泣き喚く彼女をなんとかして風呂場にぶち込んだ。
身体が温まったら即刻家を出てもらおう。詳しい事情は聞かない。介入する気はさらさらない。
ないぞ。なかったんだぞ。ああ、本当に関わりたくなかったのなら、あのときコートを掛けてやらなければよかったのかもしれない――――――。
何度呟いても、後悔は先に立たず。
☆
風呂から上がった彼女にジャージを着させて座らせる。詳しいことには触れずに警察を呼ぶか問うと首を横に振って忌々しげに隣家側の壁を睨んだので、その件にはこれ以上触れないことにした。では、お引き取りいただこう――。
「お腹すいた」
関西弁で弱々しげに呟かれたら、じゃあ何か食べますか、と言わざるをえなくなる。
餃子と生姜で簡単な餃子スープを作り、彼女に出してやる。温かい器をありがたそうに両手で包む彼女を見ると、一度は後悔したものの、自分の行動は間違っていなかったような気がした。
「お姉さん、名前は?」
「しえなー」
舌ったらずな口調で返される。
「どういう字?」
「詩に恵まれる奈良」
「奈良出身?」
「んーん、大阪。おねーさんは?」
「大阪」
久しぶりに関西のアクセントが出てしまった。詩恵奈が目を大きく見開く。リアクションが大きい子だ。
「一緒やん! でもちがう、聞いたんは名前」
「ああ。しいな」
「どういう字?」
「志を維持する菜っ葉」
「やっぱあれやな、親はみんな『な』の漢字に意味込めることを諦めるんやな」
詩恵奈がスープに口をつけたので沈黙が訪れる。都会的な顔立ちとジャージにギャップがあって、田舎によくこんなヤンキーいるよな、と思った。
「詩恵奈、さん、は、えーっと……?」
「詩恵奈でいいよ。あ、志維菜、あたしの話聞きたい系?」
呼び捨てかよ。さっきの今でなかなか豪胆な振る舞いだ。
「おっけ、まあ気になるよな。あんな、この前親とケンカしてんやんかぁ」
軽い入りで身の上話が始まった。要約すると詩恵奈は幼児教育系の短大を卒業後、就職せずにイベント・モデルコンパニオンをして稼いでいたらしい。「日給高いから案件ぶち込めば月十日で十二、三万はいくからさ、あとは絵描いてたわけ。あたし絵やりたいから」そんな生活スタイルを見かねた父親(片親で、父と父方の祖母と暮らしていたそうだ)とケンカになり、突発的に家を飛び出して上京したのが三日前のこと。ネットカフェや知り合いの家を渡り歩いて今に至るらしい。先ほどのキャミソール一枚で扉を殴っていた件については触れなかった。
「志維菜は何してる人?」
「役者」
「えっ!?」
反射的に本業を答えてしまった。感激したように詩恵奈が口元を押さえる。
「テレビとか出てるん? あたし、あんまりテレビ見やんからわからんかった!」
「いや、舞台」
「舞台出てるん!? すごいやん!」
「出てない」
「え?」
「まだ仕事はしたことないし、事務所にも入ってない。けど、私は役者だから。今は仕事がないけど、それでもずっとずっと役者だから」
役者を目指していることを知った相手に言われてイラっとくる文言ランキング一位、「今のうちにサインもらっとかなあかんなあ」。そういうことを軽々しく言われるのが嫌で、そんなミーハーなことを言える奴らに「そんな夢叶うかよ」と笑われるのも悔しくて、本気を見せなければならない場面以外、ここ数年はこうやって他人に夢を語ることがなかった。なのに、ウッカリ言ってしまった。気が緩んでいた。まあ、こんな相手に何を思われても堪えないけど。と心の中で予防線を張る。
「それめっちゃわかる」
だから、これは予想外の反応だった。
「あたしは絵がずっと好きやったけど、幼保も夢のひとつやったからひとまずそっちで物を修めたわけよ。でも一生それを仕事にしますかっていうと違和感あったわけ。親は先生になるもんやと思ってたからそこでもケンカになってんけど、やっぱ人間やりたいことやらなあかんなーと思って、で、あたしは絵ぇ描いてる時が一番楽しいからそっちに進もうと思ったわけ」
「いいやん」
標準アクセントを身につけようと意識して関西弁を封印していたのに、釣られて関西弁が出た。それほど詩恵奈の思想が好ましく思えた。
「まあ、あたしは大阪で創作好きな友達と個展したときに知り合ったデザイナーのツテでスマホカバーのデザインとかやったし、その売上の何パーか入ってくるし、お金もらって仕事してる分もうプロの端くれやねんけどな。まあ、ちょっとフリーなだけで」
「……絵、ずっと描いてたの? 美術部とか?」
「んーん、部活は中高ソフトテニス部。絵は小学生の頃から描いとったけど」
「絵って、デザイン系がやりたいの?」
「んーん、デザインもやりたいけどマンガも描きたいしイラストも絵本もやりたい。絵のスクールとかも通いたいんやけど、お金かかるからな〜〜」
好ましさが一瞬で消え失せた。
「なんせ、今までずっと好きな絵ばっかり描いてきたあたしにはわかるよ、無所属やし仕事は無いけど我は役者だ! っていう精神。あたし志維菜を応援する!」
「え、何、ちょっと待って?」
コイツに私の何がわかるんだ。
「まず、フリーっていうのはさ。どこかしらに属さなくても一人で十二分に仕事をやっていけますっていう実力と実績と需要がある人間が称せる肩書きなの、わかる?」
「show-cellって何?」
「オッケーとりあえず黙って聞いてな。その実力と実績は激しい努力の末に身につくものっていうのはわかるよな。金かかるから勉強はしないけど、好きだからずっと描いてます、そしたらちょろっと仕事もらいました、私プロです、詩恵奈が今言ったのはそういうことやんな。はーーーーあーーーーーーーー? 向上せんと好きなことだけやってる、無学無修練無洗練のどこがプロやねん、趣味やんけ! そんなんで仕事になるか! 世界中の何かしらのフリーやってる人に謝れ!」
久しぶりに本音を言ったら限度がわからなくて、思ったことを全部出してしまった。言い過ぎたと冷静になりかけた瞬間、詩恵奈が壁を蹴り飛ばしたときの剣幕で引っ掻いてきたので、キャットファイトが始まった。
つい熱くなって、出会ったばかりの年下の女性と人生初の殴り合いをした。
☆
インターホンの音に起こされる。顔を上げると昨日のキャミソール野良絵描き女・バカヤロウ詩恵奈が大口を開けて眠っていた。全部夢だったらよかったのに。起きたら速攻出て行ってもらおう。
訪ねてきたのは隣の隣に住むクボタさんだった。この時代に古き良きご近所付き合いを求めて、作りすぎた煮物の差し入れをしてきたり、用も無いのに世間話に来たり、醤油が足りないからお裾分けしてくれないかと訪ねてきたりする面倒なおばさんだ。関わりたくなくて跳ね除けているのに、懲りずに何度もやってくる。
「すいません、醤油切れてます」
「そうじゃないのよ、
「騒ぎ?」
「山平さんのお隣の、ほら、
「ああ……」
「わたしが帰ってきたとき、ちょうどその女の子が部屋から放り出されてね、すっごく泣いてたのよ。こんなに寒いのに薄着だし、その、ねえ、見えちゃってるから。わたし、心配になって声をかけたの。そしたら急にキリッとした顔つきになって、「大丈夫」って言ったっきり壁をガンガン叩き始めたから、怖くなってわたしも部屋に戻ったんだけど………」
「それ何時頃ですか?」
「二十時ごろね」
ということは、詩恵奈は寒い中一時間半近く、あの格好で扉を殴っていたことになる。よく通報されなかったものだ。さすがに事情くらいは聞いた方がいいのかもしれない。厄介な人間にかかわってしまったな。幸い今日はバイトのシフトも入っていないし、クボタさんが他の話を始める前に切り上げて、詩恵奈を叩き起こす。
第一声は「お腹すいた」。憎らしい女だが関西弁でそう言われるとじゃあ何か食べますか、と食事を提供してしまう。私も根は優しい人間なのだなと実感する。詩恵奈がそこそこ美人なのは関係ない。
ひとまず朝食を取ろう。話はそれからだ。
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