少しずつ終わっていくようで


 ウィルス性胃腸炎の安静期間が終わった日の朝、生活の足しにするために単発で入れたサンプリング業務……いわゆるチラシ配りのバイトのために、早朝五時に起きた。開けっ放しのクローゼットから半身飛び出して微動だにせず眠っている詩恵奈へ、書き置きを残して家を出る。


 ・出かけるときは鍵をかけること

 ・ヒーターを点けっぱなしにしないこと

 ・昼ご飯は冷凍室に米があるから適当に食べて可……私は詩恵奈のオカンか。内心ツッコミながら集合場所に向かう。


 単発のバイトは楽だ。その場限りなので、必要以上に人間関係を構築しなくて済む。今日共に働く相手に「わたし中村なんですけど会社の人に川崎として働くように言われたので川崎って呼んでください」と言われて社会の闇をうっすらと感じても、人間関係に煩わされるよりはずっといい。どんな事情かは知らないが、労働という正しい方法でお金を稼いでいるのだから、きっと合法であるはずだ。

 ちなみにチラシはほとんど受け取ってもらえない。目も合わせずにクールにスルーされてしまう。


 スーツ、ブレザー、学ラン、セーラー、ランドセル、お兄さん、お姉さん、お爺さん、お婆さん、イヤホン、マスク、キャリーバッグを転がす人、宗教的な文言が書かれた札を掲げる人。駅を行き交う人の姿は色々ある。揃って倦怠、揃って冷淡、揃って鬱屈、そんな感じの無表情で道を行く。

 こうして見ると、望んで目的地に向かう人間が少ないことがよくわかる。そう感じると、朝の駅は人生の縮図のようにも思えた。人ってどうして生きてるんだろうな。答えの無い問いが浮かんでは消え、気持ち悪くなる。私には歩めない様々な人生を歩む人たちに、コンタクトレンズのPRチラシを差し出しながら、込み上がる虚しさを堪える。


 辺りを見渡せば、無感覚な人間ばかりだ。倦怠、冷淡、鬱屈、お前の人生それでいいのかと肩を叩いて問うてみたくなる。その日々にいくらの価値があるんだろう。かけがえないと言えるだろうか。

 人々にチラシを差し出す。無視される。舌打ちをされる。働く上でそういう扱いは慣れていたことだが、病み上がりの精神では上手く躱すことができない。氷のように硬いものの塊が腹の内側にボコっと生えているみたいだ。なるべく気にしないようにして、時間経過で溶けるのを待つしかない。冷酷と呼ぶには些細な振舞いでも、人は確実に傷つくのだ。


 どうして私は芝居をせずに、チラシを配っているんだろう――――。


 ああ、いけない。


 自ら生み出した暗雲に飲まれそうになって、奥歯で舌を噛む。雨風凌いでご飯を食べてお風呂に入って布団で眠るためだ。この虚しさを引き出しの一つに収めて、役者の仕事を掴んだ時にしっかり全部生かしてやる。役者の道を掴んで、作品を通してここにいる全員の鬱屈を晴らしてやるから首を洗って待っておけ、と心の中で叫ぶ。この悔しさ全部を前に進むエネルギーに変えてくれるわ。



 ☆



 そんな気持ちで十時に業務を終え、午後からの塾バイトに備えて家に帰ると、な、なんと。詩恵奈が男性と部屋で談笑しているではないか。茶髪、キャップ、スカジャン、サルエル。頭が痛くなるほど流行を押さえた若者である。「・男は連れ込まない」を速攻破りやがった詩恵奈に呆れて物も言えない。

 私の帰宅に気づかないまま笑っている詩恵奈の尻に敷かれたクッションをテーブルクロス抜きの要領でバシュッと引き抜く。ズデンと転んでも詩恵奈はヒーヒー笑ったまま、怒りもせずに手を叩いている。大阪の人ってそういうところがある。こんな風に笑い狂う人間のことを「ゲラゲラ笑う」を略して「ゲラ」と呼ぶ。


「あっ志維菜ー!! ヒッ! おかえヒー! ヒッヒッ! ヒッヒッ! ヒッヒッヒッ!」


 私の帰宅に気づいた詩恵奈とは話になりそうにないので、同席しているイマドキボーイに視線を移す。若干引き気味の笑いを詩恵奈に向けていた彼は、私の視線に気づいて居住まいを正した。


「お邪魔してます、俺、この下に住んでる城之内じょうのうちです」

「ジョー! ジョーって呼んだってな! 次回、城之内、死す。ンギャーーーハッハッハッヒウッ!! ゲホゲホ!」


 笑いすぎて咳き込みだした。しんどい。


「昨日決めたこと、もう忘れたの?」

「ちゃうねん、わけがあるの。ワンシーンだけを見て全てを否定してしまうのは勘違い・オブ・ザ・早計もはなはだしいというやつやわ。話せば長いで? 参ります。あんな、朝起きてコーヒー飲もうと思ったら無かってんやんかぁ。そんでタカシに分けてもらおうと思って隣行ってピンポン押したら普通に留守やってん。腹立つやん? 居留守か思ってドアも叩いたけど、せやせや、平日やん。一応タカシもまともな社会人やから普通に働いてる時間やん。でもそういうとまるであたしがまともな社会人じゃないみたいやん。自分で思って自分で傷ついてしまったわけよ。見事なブーメランやんな。で、家戻って床とか壁とかを、こう………シュッ……シュシュッと殴っとってん。腹立つからな。うん、八つ当たりやな、知ってる。ほんならウチのピンポンが鳴ってさ。思ったより大きい音出てもーてたっていうか、思ったよりこのシュッ……シュシュッが響いとったみたいで「何事ですか〜〜」ってこの人が訪ねてきたわけよ。ここんとこ相当うるさかったみたいで。気をつけような。で、ピンポン出たら「下の階のジョウノウチですけど」って言うから「ジョウノウチってどんな字書くんですかー」って聞いたら「城之内、死す。の城之内です」とか言うからコイツとは仲良くなれるわと思って上がって話でもどうぞ、と。そんでいまに至るわけよ。あー、腹痛い笑いすぎた。で、ウチなんでコーヒー無いん?」


 冗長とは、こういう語りのことを言うのだろう。すっかり怒る気力が無くなってしまった。


「カフェインは控えてる。喉に良くないらしいから」

「ジュースも緑茶も麦茶も無いやん。いっつも何飲んでんの?」

「水とか」

「何が楽しいん?」

「楽しいから水飲んでるんじゃないんだよ」

「ジョーに出す飲み物なかったから、なんか勝手にルイボスティー? ってやつ使ったで、缶のやつ」


 あっそれちょっと高い茶葉だから大切に飲んでいたのに……。これは前もって言っていなかった私が悪い。物をどこまで共有するかのラインも決めておかなければならないな。


「えーっと、俺、そろそろ帰りますね」


 空気を読んだ城之内は愛想よく微笑みながら立ち上がる。それを空気を読まない詩恵奈が引き留める。じゃあもう少しだけ、と城之内が座り直す。そういえば詩恵奈を拾った日に廊下に通りかかった男の子二人組の片割れがこんな雰囲気だった気がする。そんなことを思い出しているとバシバシと詩恵奈に肩を叩かれた。力加減がバカすぎる。


「あっそう聞いて聞いて。ジョーって役者やねんて。知っとった?」

「役者さん?」

「はい、劇団の養成所に通ってて……研究生的な立場なんですけどね。もうすぐ所属審査があって、それで劇団に入れるかどうか決まるんです」


 コクリと喉が鳴る。やばい、興味深い。話を詳しく聞きたい。どうやって掘り下げたらいいんだろう。


「詩恵奈に山平さんも役者さんだと伺ったんですが」

「あっ、まあ、はい、そうなんですけどね」

「山平さんは今何されてるんですか?」

「オーディションは受け続けてるんですけど、なかなか……。えっと、私、こっち来て3ヶ月になるんですけど、その前に大阪で俳優の養成所通ってたんです。高校卒業した後、バイトしながら自分で演技書読んだり勉強したりしながら。でもそこが結構、名前の割にいい加減なとこで。それで………」


 タラランタンタンタンタンタンタン。城之内に着信。


「あ、やっべ……すいません、俺、もう行きます。山平さん、また話聞かせてくださいね。じゃ」

「え、なになに、急なデュエルですか!? デュエルスタンバイ! ヒッヒ! 負けないで城之内! ヒッヒ!」

「詩恵奈、お前な、覚えとけよ。お邪魔しましたー!」


 城之内は慌ただしく出て行った。彼の話を聞きたかったのに自分の話ばかりしてしまったので軽く自己嫌悪だ。普段踏み込んだ話を避けているから、ここぞというときにちゃんと話せなくなってしまったようだ。そんな私の機微には気づかず、詩恵奈はボリボリと腹をかいてあくびをしている。そういえば詩恵奈はまだ寝間着のままだ。だらしないにもほどがある。


「あー、喉渇いた。ルイボスティー? いれるけど飲む?」

「夜飲む。あれ高いからあんまり頻繁に飲まないで」


 しかし、どうすれば初対面の相手とあんな風に打ち解けられるのだろうか。城之内は詩恵奈を呼び捨てにしていた。親しげに肩を叩いていて、初対面なのにまるで旧知の親友のようだった。そういえば詩恵奈もいつの間にか私の懐に潜り込んでいた……。もしかすると、詩恵奈はかなりコミュニケーション力に長けているのかもしれない。


「……ねえ、城之内さんって、何歳?」

「二十二。大学四回生。就活せんと養成所入ってどうのこうのって言うてた。もう単位取り終わってるからガッツリ活動してるみたい」

「どこの劇団?」

「なんつってたかなー……カタカナの……なんとかかんとか。忘れた」

「思い出してよ」

「そんなんジョーに直接聞いたらいいやん。つーか志維菜さ〜〜、三ヶ月も住んでんのに下の階に住んでる人のことも知らんかったん? さては引越しの挨拶行ってないな?」

「行った。と思うけど……」


 全然覚えていない。そもそも、初対面の相手とこんなに詳しい話ってしないだろう?


「ていうか、あんた、すぐ壁叩くクセ直しなさいよ。いろんな人に迷惑でしょうが」

「あーい」


 この軽い返事。改める気ないなコイツ。

 詩恵奈がマグカップを二つ持ってどっこいしょとクッションの上に座る。元々広くはない部屋だが、窮屈に感じるのは詩恵奈があぐらをかいているからだろう。開けっ放しのクローゼットからはみ出ている布団にもまだ慣れない。詩恵奈はマグカップをありがたそうに両手で包んで、ふふ、と何かを思い出したように笑った。


「しんちゃんで無かった? アパートの壁、殴ってトンネル貫通させちゃうやつ」

「しんちゃん?」


 あった気がする。仮住まいのアパートの壁を殴って穴を空けてしまい、隣家と繋がってしまう話が。まさかお前はそれを目指して壁を殴っていたというのか? ジェットコースターが落下する直前の「ヒュッ」と背筋に風が抜けるような感覚に襲われる。


「え、やめてよ。穴なんて弁償どころの騒ぎじゃない」

「そんな簡単に穴なんか空けられへんわ。でもさ、壁に穴が空いて、タカシの部屋と繋がって、そこからコミュニケーションとれるようになったら、楽しいやろうな」


 考えただけでもゾッとする話だが、詩恵奈は旅行の計画を立てるかのように楽しそうに話している。私は返事をせずにルイボスティーを流し込んだ。蒸らす時間が足りなかったのか、少し薄いように感じた。


「……城之内さんのことはもういいけど、こんな風に知らない人を家にあげたりしないでよ。家賃払ってもらう以上あんたの家でもあるけど、それ以上に私の家なんだから」

「でもさー、あたしには茶ぁ濁しまくったくせに、ジョーには弾っ丸で自分の話してたな。志維菜、高卒でそっからずっと頑張ってたんやな。上京して三ヶ月とかも今初めて知ったし。わりと最近やん」


 話を逸らした上にズイズイ踏み込んできやがった。関西弁が妙に絡みついてくる。私が高校卒業以来バイトとオーディションを繰り返す日々を過ごしていたことも、その中で感じたありとあらゆる悲しみも絶望も、詩恵奈には関係無い。話を断ち切りたくて、わざと大きな音を立ててカバンを手繰り寄せた。


「そろそろ塾の用意する。あんたも早く事務所に連絡して働きなさいよ」

「塾なー。なあ、なんで塾のバイトにしたん?」

「接客が嫌いだから」

「え、そんなんアレちゃうん? 演技みたいな感じでやったら余裕なんちゃうん」


 出た。役者を目指している人間が言われたくない文言ランキング第二位。「演技みたいにやったらいいじゃん」。芝居と全く関係無いことを関連づけて「応用して上手くやれよ」って軽んじられるやつ。これ最悪。お前は野球選手が接客が嫌いだと言っていたら「ゴロ捌く感じでやったら余裕だろ」と言うのか。言わないだろ。ああ、上手く例えることもできやしない。こういうことを簡単に言う奴は、演じるということがどういうことなのかわかっていない。身も心もそれだけに浸けて、時に息ができないほど産みに苦しみ、荒々しく、とても繊細に、己の内に暴れ狂うものを飼いながら、表現の選択、あらゆる可能性の模索、構築、感性、内観、理解、思考、目に見えない時の流れの中に葛藤を重ね、再生でなく、ただ一途に情熱を注いで現在を生きるものなのだ。


 いつもそうだ。一途に追う物を持たない奴らが言う適当な言葉は本気の人間の癪に触る。わからないなら黙っていろ。蒙昧なのはお前の頭の中だけにしておけ。


「そんな風に言わないでくれる」

「ん?」

「あんたにも夢中になれるものあんだろ」


 絵は人と関わらないでやれるからいいよね。


 そう続けかけて口を噤んだ。きっと、そんなことはない。人と関わらずに成せることなんて、ほとんど無いのだから。


 詩恵奈が何か言う前にカバンを掴み、家を出る。

 詩恵奈みたいにあっけらかんとしていられたら、私も少しは生きやすくなるのだろうか。


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