2. ひとり と ひとり で ふたり

#寝タバコ#ダメ#絶対


 子どもの頃、家に帰ると必ず母がいた。

 電話中でも、揚げ物の途中でも、何があっても必ず出迎えてくれた。家を出るときも見送りを。気分の晴れない朝も、言い争った翌日も、特になんでもない日でも。


 雨風凌げて、ご飯が食べられて、お風呂に入って、ふかふかの布団で眠ること。その安心だけは守るから。お母さんは、お家を志維菜と安らげる場所にしたい。


 幼いころに繰り返し聞いた言葉を思い出している私。目の前には、出会ったときと同じキャミソール姿の詩恵奈が立っている。出会ったときと違うのは、互いにグレーのスウェットを履いていること、場所がアパートの前の細い路地であること、詩恵奈がこちらを向いて苦笑いをしていることだ。


 詩恵奈の寝タバコが原因でアパートが火事になった。


 後悔先に立たず。


 詩恵奈と出会ってから幾度と無く浮かんでは消えた、後悔の言葉。予想外の状況に、顔中の筋肉という筋肉から力が抜けていく。


 詩恵奈の隣にはクボタさんが立っていて、絶望と責念が混在した表情でこちらを見ている。めっちゃ見ている。

 その隣で荷物を抱える鎹も、そのまた隣の大学生の男の子も、同じように私を見つめている。見られても困る。私だって家が燃えている被害者なのだ。これは誰の責任だ? 詩恵奈だけど、ああ、うん、元を辿ればこんな風なとんでもない人間を長々と居座らせた私の過ちでもある。賠償金は? ウチが支払うのか? 火災保険ってどうなっていたっけ? 今日はどこで寝よう? 何を着る? ケガ人はいるのか? 全ての出来事に意味があるのなら、この最悪の事態には一体どういう意味がある? どうして私がこんな目に?どの自業自得だ? どの因果応報だ? ああ、私の家が跡形も無くなっていく――――。


「ンぶえっっっっっくしゃったーーーらーー!」


 詩恵奈の豪快なくしゃみで我にかえる。人ん家燃やしといて一丁前に寒がってんじゃねえよ。怒鳴りたいのに声が出ない。


 雨風凌げて、ご飯が食べられて、お風呂に入って、ふかふかの布団で眠ること。


 燃えるアパートを前にして思う。それら全てが叶わない。人々が最低限保っている暮らしすらままならず、私は一体何をしているんだろう?


 人々が最低限保っている暮らし。もともと私に普通の生き方は無理だった。皆がしているように、空気を読んで意見を控えたり、お世辞を言ったり、誠実さに欠けた心不在の与太話に花を咲かせて生活を凌ぐことが苦手だ。そういったことを見下し、蔑ろにしてきたせいで、家が燃えてしまったのだろうか?


 途方にくれる私もいつの間にか詩恵奈と同じキャミソール姿になっていて、目の前にひみつの道具によく似たピンクの扉が現れた。私の右手には真っ赤なパンチンググローブがはめられている。扉を殴らざるをえないこの状況。



 ないわ――――――――――。




 ☆



 カチンコを打ったように視界がカットクロスして、目覚める。滝のように汗をかいている。どこからどこまで夢だったのだろう。


「おはよー」


 床に寝転がり、タバコ片手に雑誌を読んでいる詩恵奈を見て、寝起きの頭に鈍器で殴られたような衝撃が走る。衝動的にタバコをふんだくった。


「ダメ!!!!」

「えっ」

「な!?!?!?!?」

「ご、ごめん……」


 とんだ悪夢を見てしまった。寝起きなのに血眼だ。戸惑う詩恵奈を越えてキッチンに向かう。他人を住まわせるということはこういうリスクもあるわけか。盗難や火事などのトラブルが起こらないよう、色々と詰めておかなければならない。深く考えていなかった共同生活が、責任や危険性といった重い質量を持ち始める。すごく面倒だ。安請け合いをするんじゃなかったと後悔の念が湧く。詩恵奈に彼女を重ねるなんてどうかしていた。そういう思いを丸ごと流すように、ヒリつく喉で水と後悔を飲み込む。冷たい。


「どう? ちょっと元気になった?」


 若干距離を取りつつ、詩恵奈が話しかけてくる。


「点滴が効いたっぽい。だいぶマシかな」

「ふんふん、よかよか。でもあと二、三日は安静にしときや。あとはあたしに任せて」


 任せたら燃えるだろ。いや、それは夢の話か。


 朝食の後もう一度眠り、目覚めると午後のティータイムに最適な時間帯になっていた。かなり回復できたので大家に電話をする。火災に関するエトセトラと、同居人が増えるにあたり必要な手続きがあるのかを確認するためだ。


「…………………………………………」


 結果、詩恵奈の頬が針を刺したら破裂しそうなほどパンパンに膨らんだ。


 なんだかんだで同居人にも保証人が必要らしい。私が「昨日の今日だしやめておけ」と止めるのも聞かず、鋼のメンタルバカヤロウ詩恵奈はかすがいを訪ねてしまった。仕方なく私も鎹宅に上がり込み、私は一応病み上がりなので、感染防止のために全員マスクをつけた姿で三角形のフォーメーションで体育座りに落ち着いた。何これ。


「サインくれって言っただけやのに、恐れおののかれた。カンジ悪い」


 詩恵奈にギロリと睨まれて、鎹は震えながらボソボソと言い分を述べる。まるで蛇に睨まれた………リス。


「だって、昨日の今日でいきなりサインを迫られたら、さすがに警戒す」


 バァン。鎹の言葉は、詩恵奈が威圧的に床を叩く音に遮られた。詩恵奈すぐ家叩く。鎹は怯えて瞳をうるませている。


「や、山平さんだったらどうですか? 何の説明もなしにいきなりサインしろって言われてサインしますか?」

「しませんね」

「ほら! ほら見ろ! そーら! へーん! ヒイッ! キャーーーッ!!」


 鎹がここぞとばかりにさした指は噛みちぎらんばかりの勢いで詩恵奈の口に入れられた。なんと不毛な争いだろう。私は止めずに見守る。嗚咽を漏らしながら訴える鎹。


「だってそんな、いきなり婚姻届にサインなんてできるわけないじゃないですか」

「「ん?」」


 どうやら食い違いがあるようだ。よくよく話を聞いてみると、鎹はサイン=婚姻届だと愉快な勘違いをしていたらしい。「一発殴ってもいいかな♪」と詩恵奈が拳を振り上げる様を見守りながら(私がマスクを外そうとすると大人しくなった)、鎹に事の成り行きを説明し、鎹の了承を得て、改めて両者とも先日の件を謝罪、(暴力沙汰になりかけたが私がマスクを外すと大人しくなった)一件落着となった。


 部屋に戻って合鍵を渡すと、詩恵奈はケロリと舌を出して敬礼のポーズを取った。


「てことで、改めてお世話になりゃーっす。おねしゃーっす」


 軽い。


「とりあえずそこのクローゼット使っていいから」

「うわー、ありがとう」

「それ部屋ね。これからそこで寝て」

「は?」


 詩恵奈の美人顔が歪む。


「いやいやいやいやいやいや、え、なに、部屋とは?」

「部屋だよ。無いよりはいいでしょ?」

「無いよりはな。しかし、しかしよ、クローゼットでどうやって寝んねんって話よ。ファラオか? 胸で手を十字にしろと? 封印されし詩恵奈?」

「横になれる広さはあるし、そもそもこの家狭いからさ。我慢して?」

「できるか! ……と思ったけど、案外イケそうで戸惑ってるあたし!」

 

 適応能力が高そうで安心した。大して収めるものが無かったので、クローゼットはすっからかんだったのだ。どこぞやの猫型ロボットを想起させるポーズで横になった詩恵奈は、早速スーツケースの中身を広げ始めた。私はもう一眠りしようとベッドに向かったのだが、詩恵奈の奇声に引きとめられた。


「アーーー! これ持ってきてたんや、忘れてたあ!」


 いちいち声が大きい。仕方がないから「何?」 と聞いてあげた。


「あたしの原点にして頂点よ」


 そう言って差し出されたのは、画用紙をシルバーのリングで束ねた横長の冊子だった。


『☆どうぶつたちの うんどうかい☆』

 ☆さく・え あきらぎ しえな☆


 子どもらしい拙い文字の下に、うさぎ、たぬき、かめ、きつねがウィンクをして横並びになっている。絵本のようだ。うさぎときつねはドレスを着ているので女の子っぽい。たぬきはデニムのオーバオールのアメカジスタイル、かめはそのままスッポンポンなのでこの二体は男の子らしい。かめ以外運動する気無いだろうと心の中でツッコみ、とりあえずページをめくってみる。


 ☆


 うさぎの みみちゃん と かめの かめき が「あしたうんどうかいをするからはらっぱにあつまろう」といいました。

 するとたぬきの ぽんきち と きつねの こんこん が「よーして」とやってきました。「いいよ」


 いよいようんどうかいです。

 みみちゃんと ぽんきち ちーむ、

 かめき と こんこん ちーむでりれーです。


「よーいどん」

 かめき と みみちゃん がはしりだしました。かめき はころんでしまいました。

 みみちゃんがわらっていると、こんどはじぶんがころんでしまいました。


 こんこん と ぽんきち にばとんがわたりました。どっちもがんばっています。こんこんがかちました。


 つぎはたまいれです。かめき と こんこん ちーむがかちました。


 つぎはつなひきです。 かめき と こんこん ちーむがかちました。


 かめき と こんこん ちーむがゆうしょうしてめだるとゆうしょうかっぷをもらいました。おわり



 ☆



「えー、そっちー!? って方を勝たせるっていう、期待と予想を裏切るラストよ。弁えてるわ、幼い頃のあたし」

「これ何」

「あたしが初めて描いた絵本。幼稚園のときかな〜〜。なかなかセンスあるやろ?」


 若干興奮気味の詩恵奈に引く。「センスは無い」と言いたいが、言い切れない。絵も話も上手ではないけれど、幼い子どもが描いたにしては上手にできている気がするので「まあ」と曖昧な返事をする。


 一生懸命走っている人、かめを笑ったうさぎが転んでしまうところはドキリとさせられたし、転んでいる最中でもウィンクを崩さないみみちゃんとか、たまいれの玉の数が0vs50とか、細かいところがそれなりにシュールで面白い。リレーにうさぎとかめを当てたのは狙ったのだろうか。詩恵奈は愛おしそうに目を細めて、ざらざらの画用紙を指で撫でる。


「たぶん、このときから目覚めてたんやと思う。これ描いたのが楽しかったから、小学生になっても中学生になってもずっと描いてた気ぃするわ」


 あっそ、と流すのは簡単だった。詩恵奈の絵描きとしてのルーツなど興味無い。そんなことは言わない方がいいとわかっているから言わないでおくけれど。言わない私に詩恵奈は瞳を輝かせて踏み込んでくるけれど。


「志維菜は? なんで役者を目指したん?」


 同じように、私のルーツは詩恵奈に全く関係無い。


「これからもずっとやりたいことだからよ」


 私の大切なものには触れさせない。秘めたままでいい。話をそらす。


「それより、いくつか決めたいことがあるんだけど」


 絵本を突き返し、その辺にあった適当なチラシとペンを手に取る。


 ・同居は期限付き


「この同居は詩恵奈がちゃんと家を借りられるようになるまでだから。出て行くのは早ければ早いだけいい」

「ウィッス」


 詩恵奈が背筋を伸ばす。そうだ、それでいい。


 ・男は連れ込まない


「志維菜は彼氏おらんの?」

「いらない」

「いい恋愛してへん人が、いい演技なんてできるん?」

「ケンカ売ってんのか」


 ・家賃は6:4(クローゼットのため譲歩)その他光熱費等、雑費は折半


 ・互いに身元を明かす


「じゃあ保険証だして。免許でもいいけど」


 同じ屋根の下で過ごす相手の身元は知っておきたい。互いの保険証を交換する。


 晶木あきらぎ 詩恵奈しえな


 平成7年7月7日生まれ。


 ということは21歳。私の2コ下だ。私が中2のとき、詩恵奈は小6だったことになる。派手で快活な詩恵奈。たとえば中学校で同じクラスだったとしても、全く関わることのないタイプ。進んで絡まろうとしないタイプの人間に限ってこんな風に抗いがたい形で結びついてしまうことがある。この不可抗力に名前はあるのだろうか。


 何の気なしに保険証の裏面を見ると、臓器提供の欄が目に入った。全て 提供する、に丸が付けられていた。見てはいけない部分を見てしまった気がする。そのタイミングで話しかけられたからギクリとした。


「志維菜、っていい名前よな。志を維持する。菜には意味無いけど、うん、志維菜っぽい」

「どうも」

「な、志維菜はオーディションとか受けてるん? 舞台って、今までどんなことしてきたん? 」


 踏み込んでくる関西弁が耳に絡みついてくる。煩わしい。


「もう一個加える」


 ・相手に干渉しすぎないこと


 ええ、という詩恵奈の声を無視して布団を被る。

 ゆさゆさと起こされたが、それでも頑なに無視をした。

 少し経つとタバコの臭いがしたので「・禁煙!!!」と付け足し、もう一度布団を被った。


 触れられたくない。この家を自分が安らげる場所として保ちたい。私のような人間には一人の時間が大切なのだ。今さら同居を撤回したりしないが、詩恵奈を見ていると、歯に着いた飴が取れない時のようなカユさと、胸の収まりが悪いような居心地の悪さがこみ上げてくる。


 こういう感覚を一般的に「悪い予感」と呼ぶことに気づくのに、そんなに時間はかからなかった。

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