さようなら屋根のあるお家

木遥

さようなら屋根のあるお家

1. 隣室 の 扉 を 殴る 女性 を 拾う

扉を叩く

 真冬の夜にキャミソール一枚でアパートの扉を叩くヤバイ女を拾った。情報量が多いよな。だから、この話をする前に、想像力のレッスンを始めよう。難解な例えを出すから、心して取り組むように。


 まず、液体の入ったカップを自分の胸の中に埋め込んでみてほしい。喜怒哀楽によって液体の温度は変わるとして、カップの中身を心だと捉えてほしい。

 私がしたいのは悲しみの話。温度で言うとマイナスの世界。液体はカチカチに凍って、コンビニに売っているようなカップアイスになる。そのアイスの真ん中を匙でくり抜く。穴が空く。在ったものを失った感触を持った一瞬の後、心が抉られたことによる痛みに全身を支配される。そう、これが私が常に戦っている痛みだ。匙で掬わなければ痛むこともないのだろうが、私はこの冷たさと痛みを忘れるわけにはいかないのだ。


 この悲しみを抱いて生きていることには意味なんて無いのかもしれない、と思ったことがある。それは「全ての出来事に意味がある」と高らかに叫ぶ歌を聞いたときだった。


 「全ての出来事に意味がある」なら、彼女が死んだことにはどんな意味があると言うのだろう?


 生前、彼女の目を見てわかったことがあった。私は彼女の目を見ようとしなかったから、その時までわからなかった。

 だから、たぶん、二度とこんなことが起こらないように願っているのは、彼女のためではなくて自分のためなんだと思う。あの歌が世間に流れなくなったのと同じ頃、彼女は世界からいなくなってしまった。


 さて、話を始めよう。女を拾う話の前に、私について。まず、私はビル清掃のアルバイトをしている。この仕事を選んだのは、社会に貢献できるような高尚なものを修めていない自分でも、掃除をするだけで金を稼ぐことができるから。利用者の人間性がラリパッパーのピーヒャラピッピーで道徳や倫理観について考えることはあるけれど、それを正すのは私の仕事ではない。それがひとつ。もうひとつは、清掃業なら職場の人間関係を比較的希薄に済ませられると考えたこと。私は必要以上に繋がりたがる人の群れが苦手なのだ。


 本業は別にあるが、今のところ収入を得られるアテが無い。だからこうして働く必要がある。こんな片手間の労働の人間関係で煩わしい思いをしたくない。


 ・必要最低限生活ができる範囲で稼げること

 ・なるべく同僚と希薄な関係でいられること


 この二点に重きをおいた結果、こうなった。多少は同僚とは関わらざるをえないが、仕事に集中すれば耐えられないほどではない。ゴム手袋をしていても触れるのを躊躇うような汚い物に触れなければならないこともあるし、予想外に人とコミュニケーションを取らなければならない場面もあるが、お金のためだと思えば割り切れる。どんなに嫌がっても自分は社会に属する一員。人と関わらずに生きていくことなんてできないのだ。無資格、無修練、無洗練というのは社会では圧倒的に弱者だ。


 そんな私が働くビルの二階には学習塾が入っていて、子供を迎えに来た保護者と顔を合わせることが多々ある。お迎えが徹底されるようになったのは、子どもの帰宅時間を狙う変質者の増加がきっかけだ。家庭によって様々な事情があるようで、私はただの清掃員なのに、見えないままで良かったものが見えてしまったりして、困っている。

 毎年この季節はウィルス性の胃腸炎やインフルエンザが流行する。私が清掃していた男子トイレの個室に小学生の男の子が駆け込んで、出てこなくなったのだ。

 トイレの入り口には、お迎えに呼ばれた母親が彼のランドセルを持って立っている。嘔吐に苦しむ息子の背中をさするでもなく、寄り添うわけでもなく、早くしてくんねえかな、という面持ちでスマホ片手に突っ立っていた。


 こんな光景を見てしまったら、参ったな、としか思えない。


「あそこの家、父親も来たことあるけど同じ感じだったわよ。いやあね、最近そういう親って多いのよね。父親はパチンコ屋で母親はカウンターレディーですって。典型的な『望まれない』感あるわよね」


 親子が帰った後、塾のお局職員が私に話しかけてきた。「職業は関係無いだろうが」と言いかけて、飲み込んだ。こういうところが苦手なのだ。他人の家庭をしたり顔で語れることも、語れるほどの興味を持てることも、他人に興味を持たれることも。適当に微笑んで話を切り、勤務時間が終わるまで、頭の中で次の本業の計画を立てていた。


「一般的」には、私のような考えを持つ人間は「少数派」らしい。「一般的」に「企業」に「正社員」として「就職」なり「属して」「仕事」をしない人間を、社会は「アウトサイド」「人生の失敗者」と見なし、切り捨て、見下す。そういう奴らが大多数。数が多いほうが必ずしも正しいわけではないはずなんだけどな。


 一方、「ドロップアウト」して「成功」を納めた人間のことは「英雄」のように持て囃す。自営業や芸術関係はこのパターンが多い。

 私は英雄には二種類いると思う。「ここに辿り着くまでは見向きもされなかった」悔しさを忘れて「夢は必ず叶います!」と手放しで豪語する英雄と、「夢は必ず叶うなんて無責任なことは言えない」と語る英雄だ。見向きもされないというのは、他人に「値段がつけられない活動には価値がない」と判断されるということだ。豪語するか、語るのか。その差は確実に英雄の行く末を左右すると思う。


 そもそもどうして就職した人間の生活を基準にして、そこから外れることを「ドロップアウト」とされてしまうのだろうか。誰が判定を下しているんだろう? アウトサイドを貶めているのは大志も無く、淡々と働いている「一般的」な人間が多い傾向にある。もちろん、働いて、自立し、生活している人たちは素晴らしいだろう。でも、他人の人生を評論家気取りで俗な地点に引っ張り、叩く。それに快楽を見出している人間は肯定できない。他人のことがそんなに気になるなんて、自分の人生に必死さが足りていないんじゃないだろうか。ああ、こんな所にいたくない。抜け出したい。ここは本来私のいるべきところではない。早く本業で生きていけるようにならなければ。


 空を見上げると、凍てつく空に月がぽつりと浮かんでいた。社会からぽつりと浮いている私も、月の隣に並べたらいいのにな、と詩的なことを考えた。


 焦りと虚しさに締めつけられるようで苦しかった。だから、隣人の家の扉をキャミソール一枚で叩き続けるヤバイ女を部屋にあげる、という蛮行に走ってしまったのだと思う。

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