全部自分のためなんだ


 やわらかい髪と白い肌。桃色の唇に大きな瞳と形の整った鼻梁。に関して、私が今でも好きなところ。

 積極的に人と関わることができ、物怖じせずに自分の意思を口にできる自然な強さ。それは私に無いもので、ちあみに関して私が嫌いだったところ。


 同い年の従姉妹だった彼女とは親戚の集まりで小さい頃から顔を合わせていて、よく一緒にままごとをして遊んだ。ままごとが芝居に昇格したのは小学校高学年の時。「いつか、わたしと志維菜ちゃん、二人でお芝居できたらいいね」と彼女は言った。私は頷いた。私たちがしていたことは芝居と呼ぶには稚拙すぎたけれど、内向的な私が唯一意欲的に取り組めるものがちあみとの芝居で、殻を破っていろんな自分になれることが本当に楽しかった。


 中学に上がると同時に、ちあみは関西を中心に活動するアイドルグループに加入した。東京にもパイプがあるグループで、女優になるための第一歩として彼女が選んだ道だった。私が選ばない、私には選べない生き方だった。十二才の彼女は自分の生き方を真剣に考えていた。


「遠回りでもいいの。この身に起こることに意味のない事なんてないから」


 彼女の言葉は力強いけれど、私には何かが物足りなく思えた。どうやらこれは彼女が好きなアーティストの歌詞らしい。ちあみは何かあるたびに、身に起こることには意味がある! と言って前を向く。そういう強さは私には無いものだった。


 その頃からだった。彼女にあって私に無いものを自覚するたび、ポタ、ポタ、と黒い液体が胸の内に滴った。日を重ねるごとに心身が洗練されていくちあみと、何もせずに立ち尽くしているだけの私。当時から漠然と役者になりたいと思ってはいたものの、私は自分が何を頑張れば良いのかわからなかった。それは自分で自分を持て余すような、やり場のない感情だった。


 私立に進んだちあみとは違う中学だったが、通う塾は同じだった。会う度にちあみはどんどん綺麗になっていく。彼女にあって私には無い魅力がどんどん際立っていく。ポタ、ポタ。音が止むことはなかった。


 ある日、ちあみの仕事用のSNSアカウントに、帰宅中のちあみを盗撮した写真が送られてきた、と彼女は私に打ち明けた。塾の授業が始まる前だった。私と彼女は席が隣だった。


「それ、おばさんに言った?」

「言ってない……」

「なんで?」

「だって、心配させたくない……」


 ちあみの母親は神経質な人だったから、その気持ちはわからなくもなかった。


「それ、私じゃなくて警察に相談した方がいいと思う」

「でも、でもさあ…………」


 ポタ、ポタ。黒い液体が滴る。溺れそうだ。


 ちあみの長いまつげが震えている。小動物みたいで可愛いね。可愛いと守ってもらえていいね。………違う、違う。この状況なら、私が彼女を守ってあげなくちゃいけないんだ。


 ポタ、ポタ。音が大きくなって、ちあみの声が聞こえなくなる。鳴り止まない騒音の中、例の歌詞が脳内に流れる。


 全ての出来事に意味がある。


「志維菜ちゃん、一緒に帰ってくれない?」


 ポタ、と致命的な一滴が落ちた。

 私は首を横に振って、拒んだ。


 その帰り道、ちあみが被害に遭った。



 _____________________________________




 犯人がどこの誰で、どういう動機でそこに至ったのか、私は今も知らないままでいる。

 真実は手を伸ばせば届くところにあるのに、私は頑なに目を背け続けている。私はちあみを一人にした。それがどういうことなのかをわかっていながら、彼女を被害者にしたのだ。


 一緒に帰ることを拒んだときの、彼女の目が忘れられない。あの目を見てわかった。あの目を見ないと分からなかった。彼女を殺したのは、私の救いようのない愚かな自尊心だ。あのとき頷いてさえいれば。一緒に帰ってさえいれば。後悔はいつまでも終わらない。


 身に起こる全ての出来事に意味がある。


 他者に蹂躙されて散った彼女の生に、一体どんな意味があったのだろう。誰に問えば答えが見つかる? 後悔が止まらなくて、苦しい。私は彼女を救えたはずなのだ。罪に釣り合う罰がほしい。動かなくなった彼女の唇に、葉で一滴の水をおとしたときの、あの絶望が忘れられない。


 カップアイスのビジュアルを想像してみてほしい。真ん中をくり抜かれたかのような、唐突で抗いようのない喪失感。一瞬の不感の後、確かに失ったという感覚と猛烈な後悔が身を襲う。何も見えなくなった。何も聞こえなくなった。時計を壊した。カレンダーを破った。少しでも時間を止めたかった。呼吸を止めてみたりもした。そんなことをしても何も変わらなかった。朝が来たら夜になる。それだけの日々を繰り返した。


 そんな風に立ち尽くす日々を送っていたある日、唐突に腹を決める瞬間が訪れた。茫然と観ていたドラマに、奇しくも私とちあみのような状態に突き落とされた人物がいた。その人物がズタズタになりながら何度も立ち上がる姿を見て、胸ぐらを掴まれて揺さぶられるかのような衝撃を受けた。そして決めた。


 志半ばで絶たれた彼女の命を、拾う。意味を持つところまで辿り着かなかった彼女の生を私が繋げる。意志を継ごうとか、そんな高尚なことを思っているわけではない。そもそも、私が彼女の生に意味を持たせられるなんて、傲慢で壮大な勘違いだ。彼女のためだと嘯いて生きてしまえば、いつか私も私を殺すことになるだろう。私はいつか身を滅ぼす、そうなって然るべきだと思っているけれど。


 絶対に忘れない。彼女はもうこの世のどこにもいないけれど、私が役者を志し続ける限り、私の中に彼女を生かせるような気がした。とんでもない勘違いだ。どのツラ下げて言っているんだろうと思う。だけど、私は自分に言い聞かせる。言い聞かせることをやめることは、私が自身の生を放り投げてしまうことと同義だ。私は彼女を殺した。私が生きるのは彼女のためではなく私のためで、だからきっと、彼女のことを思う気持ちはどうしたって二番目になってしまうけれど。


 私は彼女が好きだった。そんな単純なことも、失わないと気づけない。

そんな愚かさとガラクタみたいなプライドを引き裂いて、グシャグシャに丸めて、押さえ込んで、飲み込んだ。勘違い上等。もともと上手く生きられない星の下に生まれている。今さら誰にどう思われても構わない。彼女の生に意味を持たせてやるんだ。


 だから私は、今、ここに立っている。



 ☆



 訥々と、時間をかけて、城之内の目を見て話をした。遠くの部屋の人の歌声が聞こえる。流行っている楽曲だ。どいつもこいつも同じようなことを歌っている。


 城之内は何も言わずに話を聞いてくれた。知り合って間もない相手の身の上話に彼は何を感じているのだろう。


 この話をするのは、頑なに脱ぐまいと着込んでいたものを自ら脱ぐようなことだった。服を着ているのに裸を見られているみたいだ。いっそのこと、本当に服を脱ぐ方がマシだと思った。


 この話を他人にすることで私は自分に酔っているだけではないか、そう思うと怖い。心の奥の部分のことは、聴く者には語る以上にバレてしまうものだ。


「今日は、もう、やめましょうか」


 私は首を横に振った。城之内はわかりました、と言って、目を閉じた。相手の話を自分の内側に落とし込み、組み立て、表現する道筋を選んでいるのだ。


 私も目を閉じる。意外とすぐに切り替えることができた。


 目を開くと、視界がぼやけて、心が動いた。目の前の城之内を通り過ぎて、地球の裏側の草原を視線で射抜くイメージで、照準を合わせる。

 城之内が人生で一番悲しかったことを、城之内の前で演じる。城之内に伝える。


 指先まで支配している感情の裏側で、快感が走り抜ける。芝居でしか得られない唯一の快楽、久しぶりの感覚。これがあると、自分が生きていることを実感できる。私は今、確かに生の渦中にいる。そのことが、とんでもなく辛くて、とんでもなく快い。


 一方で、頭の一部分に存在する冷静な自分が、視点を変えて今の自分が観客の目にどう映るかを教えてくれる。離見の感覚。ゾクゾクする。感覚と、記憶と、感情と、時間と、表現と、充実感。


 先に演じたのは私。

 他人の人生を表現することに、今まで感じたことのないような、重い責任を感じた。この訓練の真意の部分に触れられたように思う。


 城之内の演技は、私自身を見ているようだった。

 掴むことを諦めながら伸ばす手や、何かに怯えているような眼差し。本当の敵は自分だった。それを見誤り、やる前から敗れて、ちあみを妬んだ愚かな私。

 それを見るのは辛い。辛いのに、自分を演じられることに不思議な悦びを感じた。他人に自分を委ねるとはこういうことか。城之内越しに見る私を通り越して、城之内の本当の人間性が見えた気がした。素敵な人だと思った。


 帰り道、城之内は私に問うた。


「志維菜さんが芝居やってるのは、ちあみさんのためなんですか」


 すぐに返事ができなかった。それも本音だ。間違いない。だけど、それだけじゃない。それと同じくらい、私は芝居が無ければ生きていけない。どちらも私を突き動かす一番の理由で、本音であることに嘘は無い。


「よかったです。もし、ちあみさんのためだって言われてたら、俺、ちょっと失望してました。ちあみさんが建前に成り下がらなくてよかった………って、余計なお世話ですね。すいません」


 城之内はアパートの前まで来たところで、急に彼氏に会いたくなったので行ってくる、と笑って踵を返した。「急に」の部分は嘘だと思う。詩恵奈が扉を殴っていた日に城之内の隣にいた人が、彼の恋人だそうだ。


 家に入ると、風呂上がりの詩恵奈がキャミソール姿で身体にボディミルクを塗っていた。詩恵奈が私の帰宅に気づく。


「おかえりー」


 家に帰ると電気が付いていて、部屋が人のいるあたたかさになっていて、「お帰り」と言ってくれる人がいる。そこに帰ることができなかった私の従姉妹。詩恵奈と同じ美人の、従姉妹。


 私は飛びつくように詩恵奈に抱きついた。首筋に顔を埋めると、甘いバニラの香りがした。詩恵奈の匂いだ。少しだけ湿った髪の毛と体温が気持ちいい。詩恵奈は手を私の背中に回した。


「めっちゃ汗くさいやん。おいおい、あたし風呂上がりなんですけど…………ま、いっか。よーしよしよし! 何かあったんやろー? しゃーなし慰めて差し上げましょう」


 うるさい。黙って抱きしめることもできないのか、この女は。


 心の中で毒づく私の背中を、詩恵奈は子どもをあやすように、ポン、ポン、と叩いた。


 ちあみが命を絶った翌日、私は自分自身の人生を終わらせようとした。結局できなかったけれど、それで良かったと心から思う。


 彼女や私の生に限らず、この世の中のありとあらゆる出来事に、悲しみに、本当の意味は無いのかもしれない。そればかりは誰に問うても答えが出ない。生き続けた先に得られるものは素敵なものではないかもしれない。それでもいい。私は誓う。誓う度に揺らいで、落とされる度に沈んでしまうが、もう迷わない。意味を掴んで死ぬその瞬間まで、絶対に生きることを諦めない。必ず叶えてみせる。


 月の隣には、小さな星が瞬いていた。


 特に意味も無く詩恵奈の顔を鷲掴みにすると、詩恵奈は私の手に噛みついた。すごく痛くて笑えた。


 まだ死にたくない。生きていたい。そう思えた今日という日に杭を打ち、私は大きく息を吸った。


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