4.星空仰げば傷もつく

逆算すれば指針にもなる


 詩恵奈の朝は昼から始まる。つまり昼まで寝ているのだ。私が発音の稽古をしている頃にのそのそと起きてきて、洗面所を二十分間占領する。歯を磨いて、洗顔後にすぐに化粧水、乳液をつけて丹念にリンパマッサージ。意外と美意識が高く、まつげにも丁寧に美容液をつける。肌のケアを一通り済ませた詩恵奈がブランチにありつく頃、私はバイトに出掛ける。これがいつものパターンだが、今日は詩恵奈に頼みごとをしたので、早めに起こして念を押したい。そのために私は寝ている詩恵奈の耳にイヤホンを突っ込み、大音量でロックを流した。


 ウッキャアアアア!? と奇声をあげて跳ね起きる様を想定していたのだが、詩恵奈はピクリと眉間にしわを寄せるだけで一向に起きる気配がない。手の込んだ起こし方をしているのに起きてもらえないので、ちょっと恥ずかしい。


「オイ」


 タンタンタンタンタンタン、と詩恵奈の頬をタッチする。起きない。


「オイ」


 タタタタタタタタタタタタ、と小刻みに詩恵奈の頬をタッチする。起きない。


「オイ………」


 起きない。さすがにイライラしてきた私は詩恵奈の掛け布団を剥ぐことにした。


「起きろーーー!! ッアーーー!!!」


 布団を剥いだ瞬間、勢い良く立ち上がったせいでクローゼットの上側にある仕切り板に頭を打ち付けた。ゴンと鈍い音がする。自滅だ。


「うるさ〜〜。何〜〜……?」


 頭を抱えている私に対してなんと無慈悲な言葉だろう。やっと目覚めた詩恵奈は枕元に置いたスマホで時間を確認した。


「あー? まだ9時やん。もっかい寝る」

「起きろ! 今日は頼みがあるって言ったでしょ!」


 つい声が大きくなってしまった。


「あー……ジョーとカラオケ行くんやっけ? あたしも行きたいなあ〜〜」

「遊びじゃない。今日はカラオケじゃなくてワークショップ」


 城之内に ワークショップに行きませんか、と誘われたのは先日のカラオケからちょうど二週間後のことだった。


「すっげー大きい制作会社が定期的にやってるワークショップがあるんですけど、良かったら一緒に行きませんか? 先輩に教えてもらったんですけど、声がかかれば出演の機会とか、次に繋がるチャンスもあるみたいなんです」


 受講費は一日で一万円と高額だったが、詩恵奈との共同生活で浮いたお金があるのでギリギリ支払える。二つ返事で城之内に参加の意思を伝え、制作会社のホームページから申し込みをした。そのワークショップが今日なのだ。


「え、で? 何? あたしは何をすんの?」

「昨日も話したけど」

「そんなん寝起きにバーッて言われても覚えてへんって。もっかい言うて。内容によっては手伝わんこともないけど、場合によっては二度寝ます」


 高圧的な物言いと飄々とした態度がミスマッチだ。私はため息を吐いて窓を指差した。


「今はギリギリ晴れてるけど、午後から雨なんだって。明日から梅雨かよってくらい雨の日が続くの。最近バタバタしてて布団干せなかったから、降るまでの間少しでいいから干しておきたい。だから」

「寝ます」


 タァンと頬をタッチする。詩恵奈はタァンされた方を向いたまま瞑目した。真剣に事態と向き合う気配がないので、私は普段よりも心を込めて話をすることにした。我が身にしかと納得せねば人の心は動かせぬ、というゲーテの言葉に倣うのだ。相手に心を開いて語る技術は城之内との稽古の中で学び、少しだけ得ることができた。それをこの場で応用する。たかが布団の話に、ゲーテを。


「午後から雨ですが、私は雨が降る頃には出かけているので取り込めません。そこであなたに頼んでいるのです。家にいるあなたに取り込んでおいてほしい、と。あなたと私がスヤスヤ眠るための布団を干すんです。この意味がわかりますか?」

「………………」


 詩恵奈、黙る。

 五秒、十秒、十五秒。


「………………………え、ワークショップって昼から?」


 詩恵奈、話を逸らす。


「十六時からだけど、その前にじょうくんと出かけるの。古書店街に演劇書を専門に扱ってるところがあるらしいから、そこ覗いたり、いろいろ」

「へー」

「だから、布団取り込んでほしいの」

「…………………」


 詩恵奈、すぐ黙る。


「なあ。オイ。……寝たフリすんなや」


 布団の中に潜った詩恵奈の手を制して布団を剥ぐ。詩恵奈は駄々をこねる子どものように顔のパーツをギュッと寄せた。


「あんな狭いバルコニーに出さんと家ん中で干したらいいやん、どうせスタンド使うんやから! お願いやから寝かせてよ!」

「十分寝たやろ! あーもう、こんなしょーもない話にどんだけ時間かかんねん!」


 最後の言葉が効いたようで、詩恵奈は観念したように上半身を起こした。


「……書店屋さん行って、ジョーと一緒に帰ってきて、布団取り込んでからワークショップ行ったらいいやん」


 観念などしていなかった。布団を取り込むだけのことがそんなに嫌なのかと呆れる。仕方がないのでお土産にチーズタルトを買うことを持ちかけると詩恵奈はすんなり折れて、晴れやかな表情で大きく伸びをした。


「ん〜〜、こんな時間に起きんの久しぶりやわ。九時ってすごいな。早朝やん」

「早朝ではない」


 のそのそと洗面所に向かう詩恵奈をよそに、私は稽古着をカバンに詰める。


 城之内との稽古を通して、何かが少しずつ動き始めたように感じている。この前のオーディションの結果で味わった苦渋も少しずつ味が変わってきた。今振り返ると、二次審査での私の演技は最悪だった。感情に振り回されて、自分がやりたいことを訴えるだけの愚かな芝居を見せた。あれじゃ届かない、落ちても仕方ないとさえ思える。不出来で未熟な部分と向き合うのは悔しくて痛いことだが、あれがあの時の自分の精一杯だったことを受け入れると前を向けるようになった。己の悪点に自覚的になることはなかなか難しいが、気づいてしまえば変わることができる。


 さあ、ここからどうしようか? この先自分がどうなりたいかを考えて、それを実現するために今やるべきことを考えた。


 そもそも、どうして私はオーディションに落ち続けているのか。考えを巡らせたが、私に足りないのは実績と技術と経験と場数だ。とにかく濃密な修練が必要。今はできるだけ厳しい環境で稽古がしたい。学ぶ機会、気づく機会は城之内がくれた。その機会をひとつひとつ掴みたい。


「で、ジョーとはどうなん?」


 だから城之内のことはありがたい存在という以外に思うことは無いのだが、詩恵奈はすぐに恋愛方面に結びつけたがる。歯ブラシを動かしながら、詩恵奈の瞳はひたと私を見つめている。


「そういうのじゃないから」

「ジョー、結構イイと思うねんけどなあ。あんまり男クサくないし」

「それはあんたの好みでしょ。だいたい城くん彼氏いるし」

「彼氏やろ? 彼女はおらんねやろ?」

「そういう問題ちゃうやろ」

「やらんの?」

「やらんわ。今そんなんやってる場合ちゃうし。常に人生の転機に対応できるように構えてるの。……あんたも頑張りなさいよ」


 シャカシャカと歯ブラシが動く音がする。詩恵奈の長いまつげが頬に影をおとした。


 窓の外に広がる空は曇り始めていて、予報通りの雨を予感させた。



 ☆



「降りそうで降らないってイチバン微妙な天気っすよね。どうせならザーザーに降るほうがマシだな」


 どうせなら降らないでいてくれるほうがいい、とは言わずに頷いた。城之内のビビッドな黄色の大きなリュックは傘の中に収まりそうにない。いつ降り出してもおかしくない天気の中、私達は古書店で手に入れた十年前のドラマの脚本を抱きしめて電車を待っている。早く座席に座ってカバンの中にしまいたい。厚い雲で光が遮られた駅のホームにいると、なんとなくセンチメンタルな気持ちになる。


「今日は劇団の先輩も参加するんですか?」

「あー、なんか来れないらしいです。客演の稽古と被ったみたいで……」


 一拍間を置いて、城之内はこちらを向いた。傷んで金色になっている毛先がふわりと揺れる。


「あの、そろそろ敬語やめませんか? 俺年下だし、タメ口で喋ってもらえたほうが楽なんですけど」

「いや、でも芸の道では先輩だから」

「年上の方に敬語使われると、俺が気になるんです。年一個しか違わないし。詩恵奈を見てくださいよ、アイツ何の積み重ねも無いのに初っ端からタメ口でしたよ。それを思えば俺らはいい時期ですよ。志維菜さんさえよければだけど」


 口ぶりは謙虚だが、私の顔を覗き込んでプレッシャーをかけてくる。正直敬語のままでいたいのだけれど、申し出を拒むほどの強い理由は無い。


「わかりました。私はしばらく敬語が抜けないかもしれないけど、それでいきましょう」

「言ってるそばから敬語だー」


 城之内がふにゃあと笑う。その笑顔を見ると全身の力が抜けるようで、彼にしかできない笑い方だと思った。気が緩む。


「でも、年下ってだけで侮って、ハナからタメ口全開でかかってくる人もいるから、尊重してもらえてるみたいで嬉しかったです、敬語」


 城之内が首を傾けるとコキンと小気味良い音が鳴った。それをきっかけにしてパラパラと雨が降り出す。音が雨を呼んだみたいだった。電車の運行状況を知らせるアナウンスが流れる。


「そろそろだね、電車」

「そろそろで……だね」

「緊張してる?」

「してま、して、えー……ちょっとだけ」


 緊張はしている。だけど良質な緊張だ。過去を振り返ることも、未来を見据えることもできた。心の準備はできている。指針はちゃんと胸の中にある。


 目の前に電車が滑り込んでくる。風で煽られた前髪が額をかすめてこそばゆい。扉が開くと、私達は足を揃えて乗り込んだ。


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