闇を噛み砕く帰路


 ワークショップで偉い人の目に留まり、メインキャストではないが、次クールから始まるドラマの各話に出演・クレジットに名前を出してもらえることになった。

 撮影日は再来週の劇団養成所の卒業公演が終わった翌日から。スケジュールがピッタリ合ったし、出演が決まったことで劇団の所属審査も少しだけ有利に進みそう。


 嬉しそうに目を伏せて言葉を綴る城之内。メッセージを読んで生き生きと目を輝かせる詩恵奈。その隣で、私は思考と感覚が体から乖離していくことに戸惑っていた。舌が喉の奥に降りて窒息してしまいそうだった。


 駅に着いた。電車を降りると、詩恵奈が城之内の背中を讃えるようにバシバシと叩いた。詩恵奈は城之内の発展を我が事のように喜んでいる。私は何も言えないまま、とにかく笑顔を作っていた。


 以前、城之内が芝居をする理由を聞いたことがある。


 俺は父親の臓器をもらってる。親の体の一部をもらってまで生きることにしがみついてんだから、半端なことをするつもりはない。病気をして、人生っていつ終わってもおかしくないんだって思い知った。なら、生きている間に、ここに俺という人間がいるんだって叫びたい。俺は芝居で自分の存在を証明する。生きてて唯一楽しいと思えることが芝居だったから、この命をプレイヤーとして過ごすことに決めた。いつか必ず死ぬんだと思えば、やってやれないことはない。


 その話を聞いたとき、この人は本物だと思った。城之内から、厳しい環境に精神を置いている者の真摯さが伝わってきたからだ。言う者によっては綺麗事になり得る言葉。彼が言うと赤く鋭く輝いた。


 知っている。彼の思いを、その覚悟を、磨き続けた精神を。知っているのに「良かったね」の一言が、今はどうしても言えない。


 城之内の努力が実ろうとしている。私も頑張ろう。


 どうしてもそんな風に思えない。どうしようもなく、置いていかれた、と感じてしまった。


「――――ごめん、私DVD返さなくちゃいけないんだった」


 レンタルショップの前で歩みを止めると、前を歩く二人が振り返った。


「そうなん? 待っとくから返してきぃや」

「ううん、借りたいやつもあるから先に帰ってて。詩恵奈、家の鍵持ってるよね?」

「うん」

「じゃ。城くん、おやすみなさい」

「おやすみなさい」


 二人が背を向けるのを待たずに私は店に駆け込んだ。返すDVDなどない。場を逃れるためについた、咄嗟の嘘だった。


 店内のあたたかい空気を吸い込むと、緊張していた体が緩むのを感じた。無理やり抑えていた感情が溢れ出してくる。棚を倒してめちゃくちゃに暴れたい。DVDを踏み荒らし、悔しさに身を委ねて地面を転げ回りたい。同じワークショップを受けたのに、私には声がかからなかった。どうして城之内だけ出演が決まるの。悔しい。悔しいよ。知りたくなんてなかったよ。


 感情は荒んでいるのに、実際の私は適当な洋画のパッケージを裏返してあらすじを読んでいる。理性と精神が反対のところに立っている。唇を噛むと涙が溢れて、パッケージの上にポタポタと滴った。涙は透明で、口に入った涙は塩の味がした。嘘の涙は無味、感情を伴ってこぼれる涙は塩の味がすると習ったことがある。つい先日、また頑張ろうと決意したところなのに。こんな形で腐るのかよ。


 しばらくその場から動けずにいたが、ふと、私を気にして奥の成人コーナーに行けずにウロウロしている男性がいることに気づいた。私が邪魔なんだな、と思うとすごく冷めた気持ちになって、持っていたパッケージを乱暴に棚に直して店を出た。


 店を出ると冷たい風が肌を刺した。詩恵奈たちと別れたときよりも夜が深まっているが、夜道を歩くのは慣れっこだ。擦れ違う人の顔が見えにくいことくらい、どうってことなかった。だけど今は、そんな些細なことがどうしようもなく心細い。今日は見知らぬ人間にたくさん声をかけられたからだろう。夜の闇に向かう今、見知らぬ誰かのことが怖くて立てなくなりそうだ。刺されないか? 襲われないか? 今、向かいから歩いてきた女性が何かを叫んで銃口をこちらに向けた。驚いて身を縮めたが、女性はスマホを耳に当てて通話しているだけだった。そんなありえない錯覚をするくらい、何かが不安定になっている。


 そんな私に構わず人々は先を行く。帰路についているのだろう。誰もが明確な行き先に向かって歩いているのに、私はどこを目指して歩けばいいのかわからない。動けずにいるとどんどん追い抜かれて、自分だけが取り残されるように感じた。なんか、もう、めちゃくちゃだ。


 横断歩道に差し掛かる。さっきまで青信号だったのに、渡りきる前に赤になった。いつもそうだ。ここから先は行けません、とストップをかけられる。ついさっきまで渡れると思っていた道が閉ざされてしまう。今度はきっと、次こそはきっと。もう迷わない。杭を打つ。口にしたばかりの誓いが揺らぐ。


 自分に才能が無いとは思わない。才能について悩む夜など、とっくの昔に越えてきた。


 上京してわかった。やっぱり、この都市には私の欲しいものと、私が出会いたかった凄い人がたくさんいる。

 城之内だってそうだし、先日のワークショップの講師もそうだ。劇団員のあの人も、あの人も、あの人も、あの人も。まるで星空のようだ。私の遥か頭上で輝いていて、この目に見えているのに届きそうにない。大阪には無かった空だ。今の私に見えるのは闇だけで、何も捉えることができないが。


 城之内の果報を私は喜べなかった。


 考えたのは自分のこと。いつまで経っても報われない自分のことだけだ。


 城之内のことを尊んでいるのに、あの瞬間、私は彼を妬んだ。確実に僻んだのだ。考えるのは自分のことばかり。頭が痛い。本当はわかっているんだ。すぐ隣にいた同志が私の傍らを通り過ぎていくとしても、夢を掴んだ彼が眩しすぎて、自分の中で何かが終わってしまうように感じたとしても、本当に自分が終わったわけじゃない。たとえ残酷に思えても、私の目的が変わることはないんだ。そもそも城之内は最初から私の先を行っていた。僻むなんてお門違いだ。それでは一ミリも前に進めない。私は自分にまだ甘い。


 アパートの下に着いた。見上げると、私の家の明かりがついている。星とは違って、絶対に手が届く光。あそこに詩恵奈がいる。その延長線上、空を仰ぐ。点々と星が瞬いていた。そう、空を仰げば本当に大切なものに気づける。横や下に引っ張られて煩わしい思いをしなくても良い。上だけ見れば気にならない。私が選んだのは、そういう世界だったはず。


 今、ひとつ決めた。


「おかえり………」


 玄関まで迎えてくれた詩恵奈の脇をすり抜け、コートをベッドに投げ、ベッドに向かって座り込んだ。スマホを開いて、ちあみの名前を検索ウィンドウに打ち込む。


 『小岩井ちあみ 事件』


 これは一種の自傷行為だ。それでもいいから全部知ろうと思った。たとえ今まで必死に守ってきた何かが破壊されるとしても、これを受け入れることは必ず私の芝居人生に強く結びつくという確信がある。


 私は今も、あの真実から目を背けている。これ以上そんなことを続けていては、いつまで経っても本物の役者になれない。私はもっと心の底から傷つかなければならない。核心を避けていてはダメだ。このままでは、私は何も得られないし、残せない。突飛な発想ではない。ずっと引っかかっていたことなのだ。芝居を志すことが自分のためであり彼女のあめであるならば、私は全て知った上で生きなければならない。


 手を伸ばせば届くところにある真実に、今ようやく触れる。志の真の理由を確かめるために、心臓に真実を刺し込むのだ。


 検索結果が表示される。


 冷淡な文字が羅列され、残酷な現実が画面の中に佇んでいる。彼女の身に起きたことは察していたが、いざ目の前に現れるとその重さに打ちのめされる。彼女が受けた辱め。彼女の末路。彼女の愛らしい笑顔が私を見つめる。


 瞬間、全身が心臓になったように拍動する。刻まれる。痛い。破裂。唸る。崩れる。蹲る。呼吸。吸って、吸って、吸って、吸って。吸えない。息が。止まる。止まる。止まる。








 どれだけの時間が経っただろう。


 私は詩恵奈の腕の中にいた。顔中がベトベトになっていて、肌がヒリヒリと乾いている感じがする。涙と鼻水でメイクがグチャグチャになったのだ。手にはビニール袋が握られていた。


「………志維菜?」


 返事ができない。全身が疲弊しきっていた。喉が痛い。変な叫び方をしたのかもしれないが、記憶が無い。心臓が居所を主張するように激しく動いて、痛い。


「――――大丈夫?」


 首を横に降ると、詩恵奈が私を抱きしめた。詩恵奈の胸から心臓の音が伝わる。この音が止まってしまったら、と思うと不安になる。詩恵奈の手には私のスマホが握られていた。


「………聞いてもいい?」

「…………………ん」

「………これ、知ってるひと?」

「……………………うん」


 それに対する返事はやはり鼻息のようだったが、整形を打ち明けたときとは違って、詩恵奈の生来の優しさがこもった音色だった。


「……ほんまは言うたらあかんらしいねんけど、ドラマな、男だらけの話で女が出てこやんねんて。だから、女性の志維菜さんには声がかからなかったんだろうってジョーが」


 気を遣わせてしまった。後で城之内にメッセージを送ろう。先ほど言えなかった「よかったね」と、「頑張ってね」を彼に伝えたい。


 実際のところ私は、心の底から傷つくということがどういうことなのか、理解しきっていなかったのだろう。今までの傷など全然緩い。今の私こそ心底傷ついていると言えるが、ちあみに関して、私は「傷つく」なんてことを言える立場ではない。最悪の気分だ。


 胃腸炎で倒れたときと、今。ひとりで生きることを決めて東京に来たのに、いつも詩恵奈に助けられている。全く自立できていないが、傍らにいるのが詩恵奈ならそれでもいいかなと思えた。今この瞬間、詩恵奈の腕に甘えるくらいのことは許したい。


「ちょっとだけ水飲もっか。起きれる?」

「いい。………眠たい」

 

 少しだけ心がスッキリしている。整理ができたのだろう。それによって思いついたことがある。本当はずっと存在していた選択肢だが、頑なに見ないふりをしてきた。今ならちゃんと認識できる。そして、それを選ぶ覚悟もできる。


 それを行動に移すことは少しだけ先送りにして、私は詩恵奈の体に沈んだ。少しだけ汗の混じったバニラの匂い。細くて薄くてやわらかい女の体。詩恵奈は私より小柄なのに、私の全てを包んでいる。


 妬んだり、嘆いたり、怒ったり、暴れたり、泣いたり、笑ったり、食べたり、眠ったり。生きるって本当に忙しい。


 いっそのこと全部投げ出してしまえば楽なんだろうけど、私は「もう少しだけ」と唱える。電灯に手をかざして、光を掴むみたいに握りしめた。


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