5.君のことを知らない

Cカールまつげの憂鬱


 三月になると頭をよぎる英文がある。中学生のときに習った文章だったと思う。

 March went out like a lion.

 英語なんてサッパリわからないけど、何故だかこの文章だけは記憶に刻まれている。

 曰く、三月はライオンのように荒々しい気候と共にやってくる。今の自分にとってはしっくりくる表現だ。嵐が来たのは心の方だったが、それを乗り越えた今の気分はそんなに悪くない。今までどうしても立ち向かえなかったものと戦った。様々な苦痛を伴って飲み干したそれは、受け入れられて堪るかと抗い暴れ狂ったが、腹に収めた頃には意外にも気持ちが軽くなっていた。時折チクリと痛むのは、ちゃんと受け入れられた証拠だろう。懐に熱いものを孕んだのを感じる。そうして三月がやってきた。


 March went out like a lion.

 記憶が正しければ、この言葉にはまだ続きがあったはずだ。どんな文章がだったっけ。私は詩恵奈の話を右から左へ流しながら考えていた。


「それでは聞いてください。『だからごめんなさいの歌』」


 だから、脈絡も無く歌う宣言をされてもなんとも思わなかった。詩恵奈のまつげはくるんと上向きにカールしている。本人に伝えたことはないが、伏せても瞬いても綺麗なラインを描く詩恵奈の目の動きが好きだった。物を言わずに語る目の力。瞳の奥の深いところで己を強く律しているようで、今も綺麗だなあと呑気な事を思っている。


「ラララ〜〜! お金が無い〜〜! ごめんなさい〜〜! 家賃払えない〜〜! 今月はごめんなさい〜〜! 未納イズハーン〜〜!」


 正座して太ももを叩きながら、半ば吟じるように歌う詩恵奈。

 私はこの歌をどんな気持ちで聞けばいいんだろう。

リズムもメロディーもムチャクチャで、似たような歌はこの世にひとつも無いだろうと思われる。そこだけは一億歩譲って得点をあげよう。十点くらいかな。千五百億満点中で。


「あああ〜〜! ごめんなさい〜〜!」


 胸に手を当てれば戸惑っている自分を感じるが、一方で、そんな自分を他人事のように俯瞰している部分もある。詩恵奈は何故歌っているのだろう。私に伝えたいことがあるからだ。何故手段として歌を選んだんだろう。なんとなく、芸術家の狂気的なものを感じた。


 ここ数週間の詩恵奈の生活を見ていて、疑問に思ってはいたのだ。一体いつ働いているんだろう、と。いや、詩恵奈は全く働いていないわけではない。パチンコの新台発表会、イベントブースの受付、小さなweb広告のモデルなど、平均すると週に三日ほどは仕事で外に出ているはずだ。しかし、このところはいつ出かけても何時に帰宅しても必ず詩恵奈が在宅していた。


 いつの間にか歌うのをやめた詩恵奈は机上にある水の入ったグラスを手に持ち、一気にゴクゴクと飲み干した。


「っはーー……。いやあ。季節柄かな、イベントが少なくて……。あっても学会系の黒髪指定されてるやつばっかでさあ。ほら、自分、頭がコレなもんで」


 詩恵奈が自分の髪を指差す。褪色して毛先がハチミツ色になっている髪の毛。かなりのハイトーンだ。


「黒染めしたらいいじゃん」

「え?」

「黒染めしたらいいじゃん」

「…………」


 聞こえているし、届いている。それなのに詩恵奈は黙っている。私は全てわかっている。都合が悪くなると、詩恵奈はすぐに黙る。


「…………………ピーマン………」


 苦し紛れに詩恵奈が捻り出した言葉はピーマン。ツッコミがいがある。どう調理してやろうかと口を開いたとき、詩恵奈のスマホがブブーーと振動した。メールの着信だ。逃げ場を見出した詩恵奈は生き生きとして画面を叩いた。


「あっ! スマホケース売れた! やりい!」


 タンタンタンタン、と画面をタップする詩恵奈の表情が変わって、驚きの形に口が大きく開かれた。


「ヒョエーー!! 三十個も売れてる! 一気に! 景品か何かにされたんかなあ……これはデカいな………」


 タタタンと電卓を打つような指の動きをして、ニンマリと笑う。商売人の笑い方だ。


 どうやら売れたのは詩恵奈が大阪にいた頃にデザインしたスマホケースのことらしい。商品画像を見せてもらう。透明なケースの真ん中に、女性のシルエットが佇んでいる。黒のミニドレスを着ていて、肌が白色。ハイヒールとリップにだけパキッとした赤が使われている。可愛いな、と思った。


「これ私も欲しい」

「ほんまにっ!? URL送るから買って買って! ヒョア〜〜うれしい!」


 詩恵奈のテンションの起伏の激しさには、呆れるを通り越して見ていて面白いレベルに達している。スマホケースを注文した後、置き去りにされた髪色の話と滞納の話を掘り返して、来月まとめて支払うことを約束させた。


 そうこうしているうちに夕方になった。読みたい古典もあるし、映画も観たいし、こなすべきエクササイズもあるけど、今日は何もしなかった。


 このところは神経を張り詰めっぱなしだった。逸る気持ちに突き動かされていたものが、爆発的に弾けて、心身ともにくたびれているところだ。厳しいことを言えばそれでも休息を省いて邁進するべきなのだが、最近はあまりにも精神の根の部分、人格に関わるほど重石になっているところを自ら荒らしたわけだから、今日だけは少し距離を置いて、傷を癒すことを認めてやろうと思った。

 怠慢ではなく、再び歩いていくために必要な休息。何もしない一日に、私はそういう納得できる理由をつけた。

 日常で習慣にしていることを一日休むだけで、私は少しの罪悪感を覚えている。必要な休息に罪悪感を覚えてしまうほど必死な自分のことは嫌いじゃない。物事に真摯な証だと思える。


 干していたタオル類を取り込もうと窓を開けると、タバコの煙が鼻の頭をかすめた。煙を辿ると、隣のバルコニーで鎹がタバコを咥え、ぼんやりと遠くを見つめていた。私はタバコが嫌いだ。理由は単純。身体に悪い。


「タオルに臭いがつくでしょーが」


 想定よりもキツイ声が出てしまった。鎹は飛び跳ねて、鬼を見るように怯えた顔でこちらを見た。


「あ、スイマセン………」


 そう言って慌てて火を消す鎹は、初対面の時よりも頬が痩けたように見える。ストレスが多そうな人だ。いつもの感じだとそのまま部屋に引っ込みそうなのだが、今日は何かを言いたさそうに私の方を伺っている。


「……今、しーちゃんって家にいますよね? 」

「呼びましょうか? 詩恵……」

「わーーー! いいです! しーちゃんには内緒で! 山平さんに、あの、お話があるんですけど、時間、ありますか」


 私が頷くと、「じゃ、じゃあ十分後に下で」と言って鎹は部屋に引っ込んだ。


 時刻は十六時を指している。手早く色付きのリップを塗り、詩恵奈に駅前の書店に行くと伝えて家を出た。


 なんとなく気が進まないが、大切な話のような気がした。同時に、穏やかに一日を終えることができないような気もする。伏線は山場の遥か手前から張られているものだ。手遅れになる前に気づきたいとは常々思っているのだけれど、何せ自分の気づかないところで物事は進んで世界は回っているので、どうしようもなく見逃してしまうこともある。仕方ないことではあるんだけど、そうなったら自分の愚鈍さを呪う他ないよな、と思う次第である。


 予感はあるのだ。この暮らしがいつまでも続かないことくらい、わかっている。


 階段の下で私を待つ鎹は小さくて、頼りなくて、簡単に折れてしまいそうに見えた。



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