「青い月なら歌えると思った」
気付いたとき、夜の公園だった。わたしは地面にへたり込んでいる。お尻と脚が冷たい。血の匂いがした。わたしの制服の胸が血で汚れている。
見上げると、
長江先輩がわたしに手を差し出した。
「あっきーが刺される場面だね。鈴蘭ちゃん、制服汚してごめん。傷はふさがっても、服はそのままだよね」
わたしは長江先輩に手を引かれて立った。
煥先輩のブレザーもシャツも赤く汚れている。わたしと煥先輩の目が合った。煥先輩は、パッと自分の唇を押さえてそっぽを向いた。
わたしが傷を負って、煥先輩が傷を治してくれた。この場面は、キスをした後だ。
外灯の下のベンチに平井さんがいた。
「また巻き戻ってきたね。禁忌の真実、違反者の正体を目撃した。ようやく核心に触れることができた」
自分の心臓が貫かれる瞬間を感じた。自分の中で命が破壊される音を聞いた。痛みよりも何よりも、未来が閉ざされることに恐怖して絶望した。
「わたしが違反者だと思っていました。だって、わたし、予知夢みたいな未来の中で願いの声を聞いたことがあるんです。でも、わたしじゃなかったんですね。わたしは小夜子と共鳴していただけ」
わたしは月に願った。月の預かり手である小夜子も願った。
バイブ音が聞こえた。わたしのケータイのリズムではない。
「オレのだ」
煥先輩がスマホを取り出した。ピカピカと、ライトが点滅している。煥先輩はスマホを操作して、じっと画面を見つめる。眉間にしわが寄っている。
「あっきー、どしたの?」
煥先輩が、画面を長江先輩に向けた。わたしと海牙さんも画面をのぞき込む。
〈わたしを見つめてください〉
そのタイトルで、小夜子からのメールだとわかった。それに、アドレスも。
“princess-blue-moon@**.**”
必死の想いを訴える文面。わたしへの嫉妬。
違う、と言いたくなった。煥先輩はわたしを想っているわけじゃない。小夜子、わたしだってあなたに嫉妬している。
メールを読み終わって、長江先輩が盛大なため息をついた。
「あっきー、愛されてるね~。これはちょっと怖いレベル」
海牙さんが煥先輩に断りを入れて、画面をいちばん上までスクロールした。小夜子のメールアドレスに、眉をひそめる。
「見たことのないサーバーですね。国籍も不詳。まあ、メールも突き詰めれば電気信号の組み合わせだから、怪奇的なメールだって案外簡単に作れます。彼女は不老不死の人外のようですが、機械は人間より正直だから、乗っ取りやすいのかもしれませんね」
煥先輩はスマホを手元に戻した。親指が何かの操作をして、再び画面がわたしたちに向けられた。
「異常なんだ。ブルームーンからのメール。送信日時を見てくれ」
受信メールのリストが表示されていた。煥先輩は普段はメールを使わないみたいで、最新の七通はすべて同じアドレス、ブルームーンからのものだった。
わたしを見つめてください
20XX/4/17 19:50
目覚まし代わりに
20XX/4/17 06:54
おはようございます
20XX/4/17 06:54
新曲ステキです!
20XX/4/16 22:07
お疲れさまでした!
20XX/4/16 22:07
おはようございます
20XX/4/15 07:13
初めまして
20XX/4/15 07:13
四月十五日の朝に「初めまして」。わたしが煥先輩と会った朝と同じ日付だ。巻き戻しが始まった日の朝だった。
海牙さんが「あっ」と声をあげた。
「変ですよね、これ」
「海ちゃん、変って何が?」
「受信時刻ですよ。まったく同じタイミングに二通ずつ」
「あ、ほんとだ」
煥先輩は重そうな口を、無理やりみたいに開いた。
「巻き戻るたびに、同じタイミングでメールが来た。それが消えずに残ってる。内容も、巻き戻しを感知してる文面だ」
「あっきー、どうして黙ってたの? このメール、めちゃめちゃ怪しいじゃん」
煥先輩は即答しない。口元を大きな右手で覆う。うつむいた前髪のせいで、表情がわからない。
沈黙の後、ようやく煥先輩は答えた。
「鈴蘭だと思ってた」
びっくりした。わたしはパタパタと両手を振って否定した。
「わたしには不可能ですよ。煥先輩のアドレス、知らなかったし」
「兄貴のしわざかと思った。オレのアドレスを鈴蘭に教えたんじゃねぇかと。メールが来たその日に鈴蘭が現れて、しかも一筋縄じゃ行かねぇ状況で、鈴蘭は巻き戻しも感知してて、だから……」
送ってもらうことになったとき、煥先輩はわたしのアミュレットに反応した。青い石が付いた三日月だ。
「わたしじゃないです。だって、わたしは保健室からメールを送ったでしょう? 巻き戻る前の午後。違う伸び方をした一枝の、今日の午後に。でも、そのメール、そこにないですよね。わたしのメールは巻き戻しを超えられないんです」
煥先輩はスマホをポケットにしまった。長江先輩が長身を少しかがめて、煥先輩の顔をのぞき込む。
「あっきー、なんていうか、大丈夫?」
煥先輩は顔を背けた。
「オレにとっては、ただのメールじゃなかった。あせってたんだ。新曲の告知もしてたのに、詞がどうしても固まらなくて悩んでて、あの予知夢まで見て。そんなときに、メールが来た。ブルームーンって響き、いいと思った。救われたんだ。青い月なら歌えると思った」
そんな大切な言葉の送り主をわたしだと、煥先輩は勘違いしていたんだ。
海牙さんが冷静な口調で言った。
「とにかく、これで情報が出揃いました。宝珠に願いを掛けたのは、月の預かり手。願いの内容は、煥くんとの恋の成就。巻き戻しが起こる原因は、彼女の能力のせいでしょう。そうですよね、平井さん?」
ベンチに掛けた平井さんはうなずいて、丸い池の真ん中に建つ
「月は満ち欠けを繰り返し、沈んではまた昇る。その様子が、永遠を連想させるのだね。月は不老不死を司ると語り継がれている。この公園の名を知っているだろう?」
「そう。嫦娥とは、月の女神だ。古い中国の伝説に登場する、不老不死のチカラを持つ天女だが、あるとき嫦娥は地上に降りた。地上の男と暮らすうち、老いを体感する。それを
月の女神、嫦娥の伝説。小さいころに、おばあちゃんから聞いた気がする。
「かぐや姫みたい」
わたしの言葉に、長江先輩がうなずいた。
「それな。『秘録』にも類似性が指摘されてたね~。嫦娥のほうが古いよ。かぐや姫は千二百年くらい前だっけ? 不老不死の霊薬を地上に置いて、月に帰るんだ。ま、かぐやの彼氏は霊薬を焼いちゃうけど」
海牙さんが軽く首をかしげた。
「彼氏が焼くんでしたっけ? 育ての親じゃありませんでした?」
「両説あるよ。ま、どっちにしても使わないんだな。不老不死は月の姫君の特権ってわけ」
平井さんは、ジャケットの胸ポケットに差したツツジのつぼみを抜き取って、手のひらに載せた。つぼみは白くほのかに光りながら、ふわりと宙に浮き上がった。
いとおしげに花を見つめる平井さんは、再び語り出す。
「
だけど、小夜子は今、肉体を持って存在している。触れることができて、学校に通っている。
平井さんがわたしの胸の中の疑問を汲み取った。
「そうだね、鈴蘭さん。彼女は、小夜子という少女になることを選んだ。精神のままでは、煥くんに触れることができない。肉体を得るために、自分で月に願いを掛けた」
嫦娥公園のそばに家がある、と小夜子は言った。本当は嫦娥公園の中なんだ。嫦娥の祠がチカラの接点だった。
チカラを持つわたしが恋の願掛けをして、月の姫君がその声を聞いて目を覚まして、彼女は煥先輩が歌う姿に恋をした。この一枝を病ませるほどに一途な恋を。
長江先輩が頭を振った。
「迷惑だね。自分の欲望のために宝珠を使うなんて。おれ、予知夢の未来の内容、思い出したよ。鈴蘭ちゃんが真っ先に殺されるんだ。積年の恨みを込めて、あのバカでっかいツルギで刺される」
海牙さんもうなずいた。
「ツルギを振るっていたのは黒髪の女性、というイメージだけが残っていました。だから、鈴蘭さんだと誤解してしまった。違ったんですね。月の姫君も、長い黒髪の持ち主です。彼女が鈴蘭さんに恨みを向ける理由は、つまり」
海牙さんが煥先輩に視線を向ける。煥先輩がハッと顔を上げた。長江先輩が答えを出した。
「あっきーが鈴蘭ちゃんを選ぶんだよ」
「う、嘘……」
一瞬で胸が苦しくなった。ドキドキが激しすぎる。顔が熱くなってくる。
長江先輩がまじめな顔をしている。
「嘘じゃないって。少なくとも、予知夢で見た未来ではね。たっぷりからかってやりたいけど、ごめん、今はそんな状態じゃないや。ねえ、平井のおっちゃん、訊きたいんだけど」
「何かな?」
「月の姫君が数千年に一度の肉体化をしてて、遠慮なくチカラ使いまくってる。これって、一枝にとって負担でしょ? 重くなってバランス崩れて、折れちゃうんじゃない?」
平井さんが満月を見上げた。
「少し気味が悪い状態、と言っておこうか。すでにずいぶんと月の影響をこうむっている」
「影響って、この一枝の病気のことでしょ? 巻き戻しが起こるのは、月のチカラのせいっすよね」
「この一枝の病は、不老不死の症状を呈している。ゆえにツルギで刺された人は死なず、時が巻き戻る」
海牙さんが髪を掻き上げた。
「ぼくたちの役割は、違反者の排除。要するに、月の姫君を倒さないといけない。厄介な状況ですね。彼女、おとなしく倒されてくれるように見えません」
でも、青獣珠が脈打っている。役割を果たすときがきたって、意気揚々としているし、戦々恐々ともしている。どっちにしても、戦うつもりでいるんだ。
謎は解けた。ゴールまでの道筋は見えている。でも、解けていない謎もある。
「小夜子はどうしたいんだろう?」
煥先輩と両想いになれば満足なの? それとも、邪魔者であるわたしを消し去りたいの?
銀色に輝くツルギで刺されたとき、憎しみが突き立てられるのがわかった。恋をすると、人を憎んでしまうの? そうかもしれないね。わたしも同じ思いをいだいたことがあるよ。まわりが何も見えなくなったことがあるよ。
長江先輩が片方の頬を膨らませて、ぺこんとへこませた。
「彼女と会って話さなきゃ、先に進めないね。どこいるんだろ? おれとしては、さっさとあきらめてほしいけどね」
命を代償にして願いを叶える。それを嫌う長江先輩の目は、厳しい。
煥先輩が低くささやいた。
「オレなら連絡を取れる」
「小夜子のメールに返信するんですか?」
「ああ」
煥先輩はスマホを出して、全員に画面が見える角度でメールを作成した。件名を空っぽにして、本文には簡潔なメッセージ。
〈会って話をしたい。今どこにいる?〉
煥先輩の親指が、送信のアイコンに触れた。チリッと胸が痛む。こんなときでさえ、わたしは小夜子に嫉妬している。煥先輩からメールをもらえる小夜子がうらやましい。
返信は、すぐに来た。
〈メールありがとうございます。
わたしは学校にいます。
○.:*゚Blue Moon*゚:.○〉
行っておいで、と平井さんが言った。
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