「わたしの持ってるものは軽いから」

 わたしのメールに返信したのは海牙さんだった。長江先輩のスマホから送信されていた。


〈海牙です。今から保健室に向かいます。ちなみに、ぼくのスマホは充電切れです。悪しからず〉


 充電切れ? 抜け目がないように見えて、海牙さんって、意外とそうでもないのかな。それとも精神的な余裕がないせい?


 十分くらい後、いきなり長江先輩の声が聞こえた。


【保健室の皆さ~ん! 今からお昼寝タ~イム! 授業終わりのチャイムまで眠っててね】


 波のような風のような、熱を持った何かが、ぶわっと保健室を吹き抜けた。長江先輩のチカラだ。


 わたしは起き上がって、ベッドのカーテンを開けた。


 養護の先生がデスクに突っ伏している。別のベッドのカーテンの向こうから、いびきが聞こえた。


「これが号令コマンド?」


 ドアが開いた。長江先輩と海牙さんがわたしを見付けて、それぞれの仕草で軽く手を挙げる。


「お邪魔しま~す。うん、寝てる寝てる。耐性がある人はいないっぽい」

「失礼します。さすが、襄陽は保健室も広くてキレイですね」

「キレイなのは部屋だけじゃないよ。襄陽の保健室は、先生がキレイってので有名」

「ほんとですか?」

「ほんとほんと」


 長江先輩と海牙さんがデスクに近付いた。


 養護の先生は、たぶん三十歳くらいだ。背が高くて、日本人離れしたスタイルの持ち主で、でもサバサバとして清潔感あふれる印象だから、嫌味がない。


 長江先輩が先生の肩に手を掛けて、突っ伏していたのを抱き起こした。先生はそれでも目を覚まさない。


「ね、美人でしょ。露出度低いけど、この大迫力のバスト、ヤバくない?」

「約八百七十九ミリメートルですね。アンダーとの差分は約二百十九ミリメートル」

力学フィジックスって、そんな数値まで見えんの? ずるい~」

「ぼくだけの特権です」


 八百七十九ミリメートルって、バスト88で、アンダーがマイナス二十二センチくらいなら、カップはFだ。メリハリボディなんだ。脚も長いし、うらやましい。


 じゃなくて!


「二人とも失礼すぎます!」


 長江先輩がニヤッとする。海牙さんがクルッと目を泳がせる。


「誤解がないように言っとくけど、おれ、この状態で最後までやるほど悪い子じゃないよ? イージーモードすぎてつまんないじゃ~ん」

「ぼくは男子校ですから身近に女性がいないんですよ。美人の寝姿なんて、本当にお目にかかれません。いい刺激をいただきました」


 嘘でしょ? 何なの、この人たち? 長江先輩は意外とまともな人だと見直していたし、海牙さんは浮世離れしている印象なのに。


「スケベ、最っ低、信じられない!」

「そりゃスケベだよ。男子だもん。高校生だもん。ね、海ちゃん?」

「当然ですね」


「先生から離れてください! 一体、何しに来たんですか!」

「はいは~い、離れますよ」


 長江先輩は、そっと先生をもとの体勢に戻した。そのついでに、先生の背中に触れて、つまむような仕草をした。


 もしかして。


「長江先輩、今の……」

「ホック外した」

「ちょっと!」

「ただのいたずら~」

「悪質すぎます!」

「さて、眠り姫たちの寝顔を拝見」

「長江先輩っ!」


 わたしが叫んでも、長江先輩はどこ吹く風で、端から順にベッドのカーテンに首を突っ込む。


「うげ、男。こっちも。てか、全員じゃん。悪いんだけど、おれ、男は対象じゃねぇんだわ。女の子ならストライクゾーンだだっ広いんだけども~」


 長江先輩は大げさに顔をしかめた。海牙さんが声をたてて笑う。わたしだけが怒っている。


「非常識すぎます!」

「でも、あきらくんが無防備に寝ている姿なら、鈴蘭さんも見てみたいでしょう?」

「な……え、そんなっ」


 海牙さんの不意打ちに、わたしはとっさに答えられなかった。海牙さんは追い打ちをかけてくる。


「彼の髪、サラサラですよ。戦ってるときに何度か触れましたけど。それに、彼の顔のパーツの座標は理想値に近似しています。左右の誤差も非常に小さいですよね。数値的に、とても整った顔立ちだと証明できます。特徴的なのは、まつげの長さでしょうか」


 わたしはたぶん、今、かなり赤面している。そんなわたしの様子をうかがいながら、海牙さんは楽しそうに笑っている。


 毒気を抜かれた。

 海牙さんって、笑うんだ。すごく普通に、自然に。


 最初は不気味な人だと思った。人間らしさがなかった。でも、それは仮面だったんだ。悪役みたいな振る舞いは、本来の海牙さんではなかった。


 長江先輩が手近な椅子に座った。


「やっと海ちゃんがもとに戻った~。食べ物の力って偉大だね」

「どうもお騒がせしました」


 海牙さんは、ウェーブした髪を掻き上げた。

 わたしは深呼吸して、煥先輩の寝顔のイメージを頭から追い払った。


「煥先輩は、まだ来ないんでしょうか?」

「まだっていうか、あっきーは来ないよ。一人になりたいんだってさ」

「そう、ですか」

「ま、あっきーにも改めて話すよ。今はとりあえず、鈴蘭ちゃんに聞いてほしい。おれらの事情、話すからさ」


 海牙さんが長江先輩の言葉を引き継いだ。


「ぼくがあせっているという煥くんの指摘は全面的に正しかったと、今にして思います。ぼくにはもともと、強迫観念があるんですよ」


 強迫観念というのは、精神症状の一つだ。「本人の意志とは関係なく、不快・不安な思考をもたらす観念」のことを強迫観念と呼ぶ。


「海牙さんの強迫観念って?」

「想像しづらいかもしれませんが、ぼくの視界には、数値化された情報がつねに現れ続けます。それが力学フィジックスという能力です。ぼくは、現れ続ける情報を処理し続けないといけない気がして、落ち着かないんです。物心ついたときから、こんなふうなんですよ」


 海牙さんは制服のポケットから知恵の輪を出した。絡み合う四つのリングを、あっさりとバラバラにほどく。そして再び、絡み合う形へ。海牙さんの指先の動きは止まらない。


「ぼくは先代の預かり手を知らないんです。曾祖父だったんですけど、ぼくが生まれた日に亡くなりました。しかも、ぼくの父は分家の出で、曾祖父と会ったことがなかったそうです」


 海牙さんの目は知恵の輪だけを見ている。知恵の輪は、海牙さんにとって確実に処理できる情報だから、精神的な安定をもたらす道具なんだろう。


「祖父母に聞いた話ですが、曽祖父はめちゃくちゃな人だったそうです。さと家の資産を食い潰して破産して、挙句の果てに認知症になって、施設に入って威張り散らして。しかも、リヒちゃんに似たチカラの持ち主でした。マインドコントロールで、好き放題ですよ」


 海牙さんの口調は軽やかで、自分の身の上話をしている雰囲気ではない。そういう話し方が、海牙さんの癖なのかもしれない。


「曽祖父が家系の財産を食い潰したから、預かり手として正統に阿里家を相続してしまったぼくも、ぼくの両親も、裕福ではありません。両親は平凡で温かい人たちですよ。意外でしょう?」


 失礼だけれど、うなずいてしまった。だって、海牙さんは平凡からほど遠いし、大都高校は学費がすごく高いらしいし。


「ぼくは不気味な子どもでした。道路を通り過ぎる車の時速を延々と言い続ける。天体を見上げて地球との距離を言い当てる。人間の目には観測不能なブラックホールの位置を指摘する。でも、両親は普通に育ててくれました。だから申し訳なくて、家を離れたかった」


「申し訳なくて?」

「ええ。早く両親を不気味な息子から解放してあげるために、ぼくは奨学金を獲って大都高校に入学しました。今は奨学金の出資者である平井さんの家に下宿しています。実家にいたころよりは気楽です。平井さん自身が能力者だしね」


 海牙さんが目を閉じる。言葉を探しているように見えた。


「何が言いたいかというと、ぼくは、未処理の情報がある状態に弱いんです。つまり、まさに今の状態ですよ。玄獣珠がツルギになって以来の状態。じっとしていられないんです。おかげで、行動が先走ってしまいました。みんなに迷惑をかけましたね。ごめんなさい」


 人と話をするときには目を見て話せ、目をそらすのは不誠実だ、小学生のころに教わった。


 でも、目を閉じた海牙さんは誠実だ。誰よりも素早い情報処理能力を自分の内側だけに向けて、視界に入るどんな数値にも左右されない環境にあるのだから。


「海牙さんに、一つ訊いてもいいですか?」

「何でしょう?」

「自分は玄獣珠に願いを掛けていない、十七年の人生を懸けて誓えるって、前にそう言ってましたよね。その理由は、あせってる理由と同じですか?」


 海牙さんはうなずいた。


「玄獣珠は、未処理の情報のかたまりです。ぼくが知る物理学では絶対に処理できない。それを預かるストレスだけでも重いんです。願いを掛けるなんて、想像したくもない。意味がわからなくて、吐き気がします」


 実際に海牙さんは吐いていた。時間の巻き戻しっていう、超常的な現象の直後に。

 悪役を演じることへのストレスと、処理不能な情報へのストレス。二重に苦しい状態だったんだ。


 椅子に掛けた長江先輩が脚を組んだ。


「おれもね、朱獣珠に願いを掛けない。絶対にそれだけはやらない。朱獣珠の預かり手って役回りも、すごいイヤだ。鈴蘭ちゃん、おれの親父が誰か教えたっけ?」

「襄陽学園の理事長先生でしょう?」


「うん、そう。この学園のこと、デカくてすご~いって思う?」

「設備とか、いろいろすごい学校だと思います。キレイだし、芸術系のコースもあるし」


 長江先輩が口元を歪めて、皮肉な笑い方をした。


「親父は無能だよ。朱獣珠に願いを掛けるだけの能しかない」

「朱獣珠に、願いを?」


「学園をデカくしたのは、朱獣珠のチカラだ。会計が破綻しかけるたびに、指導者の確保に失敗するたびに、生徒が大問題を起こすたびに、要は何かのトラブルが発生するたびに、親父は朱獣珠のチカラを使ってきた。代償は、ペットの命」


「嘘……」

「いや、逆だね。朱獣珠の代償にするためにペットがうちにいたんだ」


 願いの代償として最も価値が重いものは何か。平井さんがその問いを出したとき、長江先輩は即座に正しい答えを示した。


 命、と。

 実際に見てきたから知っていたんだ。


「おれね、動物、好きなんだよね。ペット、かわいがっちゃうんだ。次もすぐ死んじゃうってわかってても。でね、ペットだけじゃなくて、おれの母親も代償になったんだよね。母親は今、意識不明の寝たきり状態」


 長江先輩の朱い瞳に、暗い光がともっている。怒りなのか、悲しみなのか、憎しみなのか。その感情を知らないわたしには、読み取れない。


「さすがに怖くなるよね。おれも姉貴も、国外に逃げてさ、フランス滞在一年間。このまま平和に過ごせるかなって思ってた。でも親父は、今度は海ちゃんに目を付けた。二ヶ月くらい前にそれがわかって、慌てて帰国して、海ちゃんに初めて会ったのは一ヶ月前」


「長江先輩と理事長先生の関係は今、どうなってるんですか?」

「休戦状態ってとこ。学園の運営が安定してるらしくて。でも、そのうちぶっ飛ばすけどね。おれが理事長の椅子を乗っ取るよ」


 へらへらした笑い方もしない。おちゃらけた話し方もしない。本気の表情をした長江先輩は堂々として、気迫に満ちている。


 海牙さんがまぶたを開いた。


「これがぼくたちの事情です。仲間と認めた以上は、知っておいてほしかったんですよ」

「聞かせていただいて、ありがとうございます。やっと、意味がわかりました。長江先輩と海牙さんがわたしを攻撃した意味。わたしの持ってるものは軽いから」


 わたしは、悩みの少ない狭い世界で生きてきた。青獣珠のことにもチカラのことにも、とりたてて苦しんだことはない。


 お嬢さま育ちが理由の小さないじめはあった。でも、長江先輩や海牙さんみたいに家を離れるなんて、想像したこともなかった。


 こんなわたしだから、軽い気持ちで願いをいだいてしまう。おまじないが好きで、占いの行方も気になって、「いいことがありますように」と、いつも心のどこかでふわふわと他力本願している。


 長江先輩が立ち上がった。海牙さんが知恵の輪をポケットにしまった。


「そろそろ授業が終わっちゃうね~。チャイムが鳴ったら、みんな起きるよ」

「その前に、ぼくは退散しないとね。大都に戻ります」


 長江先輩と海牙さんが廊下のほうへ向かう。


「待ってください! わたしのこと、さ、刺さないんですか?」


 長江先輩がニッと笑った。海牙さんが髪を掻き上げた。


「おれはもうイヤだって言ったじゃん」

「青獣珠と相談して、自分で判断してください」


 二人が保健室を出ていく。全員が眠りこけた部屋に、わたしは取り残された。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る