「この一枝は病んでいるんですよ」
昼休みになって、わたしは屋上に向かった。
長江先輩の屋上プチハーレムは、今回もそこで開催されていた。広げられたレジャーシートの端のほうには「襄陽学園理事」と書かれている。理事長室の備品だ。
教室嫌いの人たちが屋上から立ち去るのを見送りながら、わたしは長江先輩に尋ねた。
「こういうこと、いつもやってるんですか?」
「まあね。いつも同じメンバーってわけじゃないけど。鈴蘭ちゃん、おれのこと気になる?」
「違います。でも、長江先輩がやっているのはカウンセリングみたいで、そういう意味では気になります」
「鈴蘭ちゃんの将来の目標だもんね~、スクールカウンセラーって。大学教授やってるおとうさんの影響?」
大学で教育心理学の教鞭を執る父は、著書もたくさんある。世間でもわりと有名なほうだ。でも、入り婿の父は、仕事の上では旧姓を使い続けているから、彼がわたしの父だと知る人は少ない。
「長江先輩、どこまで調べたんですか? どうして? 何のために?」
「気持ち悪~いって顔してるね」
「当たり前です」
「ま、気持ち悪いよね。申し訳ないな~とは思ってるよ。でもまあ、鈴蘭ちゃん自身じゃなくて、青龍の安豊寺のことを調べただけだから、勘弁してよ」
「四獣珠の預かり手は交流しないものでしょう?」
「基本的にはね。でも、こういう事態には仕方なくない?」
煥先輩が口を開いた。
「白虎の伊呂波のことも調べたのか?」
「ん、当然」
「じゃあ、話せ。オレのこのチカラは何なんだ? チカラがあるだけじゃない。時間の巻き戻しなんてものを感知できる。これはどういう状況なんだ?」
予想外の方向か、声がした。
「運命というものが、どういう姿をしているか、どういう比喩を以て語られるか、煥くんは聞いたことがありますか?」
海牙さんが貯水タンクの上から飛び降りてきた。足音がたたない。
煥先輩が眉をひそめた。
「いつからそこにいた?」
「今日は早めに到着していましたよ。一時間くらい仮眠していました」
早めに到着って。
「授業サボったってことですか?」
「ええ、サボりましたよ。受ける価値のない低質な授業ってあるでしょう?」
この人、敵が多そう。敵に回したくない不気味さもあるけれど。
煥先輩がスッと動いて、わたしをかばうように、わたしと海牙さんの間に立った。制服の背中に、小さなほころびがある。煥先輩は改めて海牙さんに問うた。
「運命の姿って、何だ?」
長江先輩と海牙さんが目配せした。海牙さんが話し手になる。
「運命はまるで多数の枝を持つ大樹だ、と『秘録』には書かれています。つまり、運命には枝分かれの可能性がある。この一枝とよく似た別の枝がほかに存在する。別の枝というのは、現代的に言えばパラレルワールドですね」
「運命の大樹、ですか」
「ええ。そこまでが『四獣聖珠秘録』に書かれた内容で、ここからは平井さんの受け売りです。枝という例えを使って語れば、今ぼくたちが存在するこの一枝は正常に生長していません」
「何が起こってるんですか?」
「この一枝は一度、今より数年後の未来まで伸びた。けれど、あることが原因で、成長が巻き戻った。巻き戻しは、病です。この一枝は病んでいるんですよ。原因が取り除かれない限り、病み続けるでしょう」
原因とは、預かり手が禁忌を犯したことだ。禁忌は、預かり守るべき宝珠に願いを掛けたこと。
海牙さんの視線は、わたしをとらえていた。煥先輩の肩越しに、じっとわたしだけを。海牙さんはやっぱり、わたしが違反者だと思っているの?
煥先輩が問いを重ねた。
「例え話はわかった。でも、前に聞いた話の繰り返しだ。表現を変えただけだろ。それとも、病んだ枝って例え方に意味があるのか?」
海牙さんが楽しそうに微笑んで、チラッと煥先輩を見やった。
「頭の回転、速いですね。的確な指摘です。一般的に考えてください。大きな樹の一枝が病気にかかったら、その樹はどうなるでしょうか?」
植物の病気? 詳しくはわからないけれど。
中学校の正面玄関にクスノキがあった。あるとき、一枝の葉っぱに黒い斑点ができると、やがてその一枝を発端に、斑点は木の全体に広がった。葉っぱが落ちて枝が枯れて、仕方なくなって木を切り倒したとき、幹の中身がスカスカの空洞になっていた。
「一枝が病んでいたら、大樹が枯れる原因になる?」
「正解です、鈴蘭さん」
海牙さんが一歩、足を踏み出した。右手がひらめいた。黒々と輝くツルギの柄が、いつの間にか海牙さんの手に握られている。
煥先輩が腕を広げた。
「待て。説明が足りてねぇだろ」
「十分じゃありませんか? この一枝の病因を取り除くのが、ぼくたちの役割。それも、できるだけ早いうちに。そうじゃなきゃ、すべてが崩壊するそうです。困りますよ。ぼくにだって、将来やりたいことがある。運命を枯らしたくはないんです」
海牙さんがツルギの刃を発生させた。ドクン、と強く青獣珠が鼓動した。玄獣珠がチカラを発するのに呼応したんだ。
煥先輩はわたしの前をどかない。
「腑に落ちねえ。わからねぇことだらけだ。違反者が掛けた願いって何だ? 禁忌と巻き戻しと、何の関係がある? ツルギで殺すと時が巻き戻るのはなぜだ?」
「ぼくにもわかりませんよ。だからこそ、仮説と検証のために積極的に動いてみるしかないでしょう?」
「仮説だの検証だの、オレにはわからねえ。でも、一つわかる。あんた、あせってるだろ。時が巻き戻ったときの白獣珠みてぇだ。何をそんなに嫌がってんだ?」
海牙さんが声をたてて笑った。乾いた笑い声は少しも楽しそうじゃなかった。
「煥くんは、白獣珠を好きですか? 自分にチカラがあること、受け入れてます?」
「何だよ、それ?」
答えは返ってこなかった。
がっ、と鈍い音が聞こえた。煥先輩が海牙さんの飛び蹴りを受け流したところだった。海牙さんの突進は速すぎて、わたしには見えなかった。
わたしは思わず後ずさる。
煥先輩と海牙さんが戦っている。二人の息遣いが聞こえるくらい近いのに、動きを目で追えない。
海牙さんの動きは、しなやかすぎて速すぎる。
「そこをどいてもらえませんか?」
「断る」
「先にきみを刺しますよ」
「やれるもんなら、やれよ」
わたしはへたり込んだ。
「どうして……」
海牙さんがツルギを振るう理由はわかる。わたしを刺せば役割を果たせると考えているからだ。そうじゃないとしても、さっさと仮説を検証するには、疑わしい人を殺してみるのが手っ取り早い。わたしもそれは理解している。
煥先輩がわたしをかばう理由こそ、わからない。海牙さんは十分に説明してくれたと思う。海牙さんがわたしを疑うのも、ちゃんと筋が通っている。それに、煥先輩、わたしのこと嫌いでしょう?
「待てって言ってんだよ!」
煥先輩が海牙さんを蹴り飛ばした。海牙さんは、くるりと宙返りして降り立つ。煥先輩との間に距離ができる。
「さすが、悪魔と恐れられるだけありますね」
煥先輩は両腕を前に突き出した。手のひらの正面の空間が、まばゆい白に光る。光は巨大な正六角形に広がった。
「突っ込んでくるなよ。焼け焦げるぜ」
「これが噂に聞く
「話の運びに納得がいかねぇからだ」
白く透ける光の壁の向こうで、海牙さんが、ふぅっと大きく息をついた。右手のツルギから刃が掻き消える。
「銀髪の悪魔は、意外と平和主義者なんですね」
「普通だろ。いきなり斬り掛かるあんたのほうが変わってる」
「変わり者なのは自覚していますよ。仕方ないな。出直します。きみに出された三つの宿題、調べておきますよ」
「宿題?」
「違反者の願いの内容、禁忌と巻き戻しの関係、ツルギが巻き戻しの要因になる理由。その疑問が解ければ、きみも納得するんでしょう?」
煥先輩はうなずいて、質問を一つ付け加えた。
「兄貴の結婚式の未来、どの程度覚えてる?」
「おおよその印象、といった程度です」
「理仁は?」
「右に同じ」
みんな同じくらいの覚え方なんだ。わたしもそう。血の赤さだけはハッキリ覚えている。倒れていた新郎新婦の正体には、後になって気付いた。
煥先輩が低い声で訊いた。
「自分が殺された場面も覚えてるか?」
「おそらく」
「おれも、たぶん」
「鈴蘭は?」
わたしは息を呑む。
「自分が殺された場面?」
わたしは、
海牙さんが目を細めた。
「ツルギを振るう人物の姿、見てないんですか?」
「えっと……」
「ぼくは黒髪の女性だと思いましたよ。皆さんも見たでしょう?」
沈黙。
チャイムが鳴った。
海牙さんは、帰ります、と言ってきびすを返した。ヒラリとフェンスを越えて、飛び降りていく。
長江先輩が大げさに腕を広げた。
【あ~ぁ、そんな目立つことやっちゃって。校庭の皆さ~ん! 海ちゃんの姿を見ても、見なかったことにして! 全部、忘れてね!】
煥先輩が
長江先輩がレジャーシートを抱えて、屋上の出入口のドアを開けた。
「お二人さん、まだここにいる? 好きに使ってくれていいよ。屋上に近寄るなって、全校に
手を振って、長江先輩は校舎に入っていった。
煥先輩は、ぶっきらぼうにわたしに言った。
「授業、遅れるぞ。さっさと教室に帰れ」
わたしはのろのろと立ち上がった。視界の高さが変わると、赤い色が見えた。
「煥先輩、ケガしてます。左の頬」
一文字の切り傷だ。煥先輩は傷に触れた。長い指の先に付いた血をじっと見て、ぺろりとなめる。
わたしはドキッとした。
煥先輩の舌も唇も柔らかそうだった。少し節っぽい指の形がキレイだ。えぐみがあって塩辛い血の味は知っているのに、煥先輩の血は、なんだか甘いもののように見えた。
色気という言葉の意味がわかった気がする。
ドギマギするわたしには目をくれずに、煥先輩はつぶやいた。
「あいつ、なんか必死だったな。本気で斬り掛かってきやがった」
海牙さんを心配しているみたいだ、と思った。煥先輩って、全然笑わないけれど、本当はとても優しい人なのかもしれない。
「煥先輩、どうしてわたしをかばったんですか?」
「そうすると決めたから」
「でも」
「刺されてみたいなら、オレが刺してやる。その覚悟が決まらねぇなら、無理強いしねえ。それだけだ」
わたしが違反者だと思っているのか、いないのか。仮にわたしが違反者だとしても、関係ないのか。
煥先輩の言葉はシンプルすぎて、何を考えているのかわからない。
「傷、治します」
「いらねえ。このくらい、すぐ治る」
「治させてください。ライヴのとき、お客さんに心配されますよ」
煥先輩はうんざりした表情で、わたしのほうに左頬を向けた。
わたしは煥先輩の左頬に手をかざした。吐き切った息を、ゆっくりと吸う。淡い青色の光が手のひらから染み出して、傷の痛みを絡めて吸い取っていく。
チリッと、わたしの左頬に熱が走った。ケガをしたことのない場所に、感じたことのない痛みがある。
一度、息を吐く。再び息を吸う。
スーッと、痛みが引いた。煥先輩の頬に、もう傷はない。わたしは手を下ろした。
「痛みを吸い出すイメージって言ってたか?」
「あ、はい」
「今、なんとなくわかった。呼吸が同期する感じだった」
煥先輩の切れ長な目を覆うまつげは長くて色が薄くて、キラキラしている。横顔がとてもキレイだ。額から鼻筋にかけての線はシャープで、薄い唇と細めのあごがどこか幼い印象で。
どうしよう。胸がドキドキして痛い。
わたしは煥先輩に見惚れてしまった。胸をときめかせてしまった。文徳先輩に失恋した傷をごまかすみたいに。
「わたし、教室に戻ります」
つぶやいて、逃げ出す。
「鈴蘭」
呼び止められて振り返ると、煥先輩はこっちを見ていなかった。
「何ですか?」
「……ありがとう」
お礼なんて、不意打ちすぎる。わたしはあせって、話をそらした。
「ほ、放課後、かわいい子を紹介しますね。煥先輩のこと好きなんだって」
煥先輩がリアクションする前に、わたしはドアに飛び込んだ。
授業開始ギリギリに教室に戻った。小夜子が後ろからわたしをつついた。
「鈴蘭、顔色悪いよ。昼休み、どうしてたの?」
「ちょっとね」
「保健室、行ってきたら?」
「んー、ただの寝不足だから大丈夫」
嘘だって、ばれたのかもしれない。小夜子は大げさに目を丸くしてみせて、冗談っぽく言った。
「寝不足って? もしかして彼氏?」
「彼氏だったらいいけど。予習と課題が終わらなくて」
「丁寧にやってるみたいだもんね。午前中の授業で、チラッと見えたんだけど」
「要領が悪いだけだよ」
先生が教室に入ってきて、会話を中断する。
小夜子との何でもない話のおかげで、少し気分がまぎれた。小夜子は美人だし、いい子だ。煥先輩に紹介しなきゃ。
授業が進んでいく。わたしは集中しようとしてみたけれど、うまくいかなかった。
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