「地球は、青く輝く宝珠だ」

 じょう公園の月の女神のほこらは、不老不死を司るという。神秘的なたたずまいだ。澄んだ水をたたえる池、ほっそりと設けられた遊歩道、白い花を咲かせる木々。


 ツツジとコデマリが咲いた公園を歩けば、若葉の新芽の匂いがする。レトロな形の外灯がポツポツと立って、白い明かりをともしていた。


 時刻は十八時を回ったところだった。満月はもう空で輝いている。

 ベンチに掛けた平井さんは、にこやかにわたしを迎えてくれた。


「こんばんは。今夜は月が明るいね」


 古風で上品な、たぶんオーダーメイドのスーツ。ベンチを勧めてくれる紳士的な仕草が、平井さんにはよく似合う。


 わたしは頭を下げた。


「こんばんは。お隣、失礼します」


 隣に座るなんて、本当は恐れ多い。ビリビリするくらいの威圧感を受けてしまう。でも、怖がっていても失礼だ。だって、平井さんにはすべて伝わってしまうから。


 平井さんがクスクスと笑った。


「そう硬くならないでいいのだよ。まあ、地球上の生物であれば、仕方のない反応だがね」

「すみません」

「今回の今日は、若い人たちとよく話す日だ。四人の預かり手たちが、順にここへやって来る。おかげで私はベンチから動けない」


 わたしは平井さんをうかがった。立派に整った形の鼻をしているから、横顔は日本人っぽくない。


「平井さんは、あの、どういうかたなんですか?」

「私がどういう化け物なのか、と?」

「いえ、その……」

「私が持つチカラは化け物並みだよ。ただし、チカラを容れた器のほうは、ただの人間だ。腕相撲なんかしたら、高校生には負けてしまう。のども渇くし、おなかもすく」


 平井さんは、空になった紙コップを振ってみせた。コンビニのレジで買えるコーヒーだ。


「みんなは何を平井さんと話したんですか?」

「まあ、それぞれだね。阿里海牙くんは、自己分析。ながひとくんは、経過報告。あきらくんは、決意表明。十代のみずみずしい感性はいいね。海牙くんの過去、理仁くんの現在、煥くんの未来。それぞれのヴィジョンは鮮烈で、まぶしかった」


 平井さんはなつかしそうな目をした。わたしの父と同じくらいの年齢? 最近、多忙な父とは話していない。小さいころは、父に本を読んでもらうのが好きだった。


「わたしは、自分を持ってません。すごくフラフラしてます。人に迷惑をかけてばかりで、人を傷付けてばかりで、何の役にも立てない人間なんです」


 平井さんは人差し指を立てた。


「一つ、言っておこうか。フラフラするのは当然だよ。その柔軟性が人間の特質だからね。大いにフラフラしてみなさい。役に立つことだけが、人間の価値かな? そう肩肘を張らなくていいじゃないか。生きることは、仕事じゃあないんだよ」


「でも、地に足が着かないのは不安です」

「海牙くんの悩みと似ているかもね。未処理の情報だらけだから、息苦しい。まじめな人間ほど、その感覚におちいる」


 わたしは海牙さんほど切羽詰っていない。中途半端だ。


「平井さんはすべてわかってらっしゃるんですよね?」

「わかっているよ」

「じゃあ……」


「一つずつ解きほぐそうか。以前、海牙くんが疑問を整理してみせたね。違反者の願いの内容、禁忌と巻き戻しの関係、ツルギが巻き戻しの要因になる理由。今わかっているのは、どれだ?」

「巻き戻しの要因です。ツルギである四獣珠が、命を奪うことに対して拒絶反応を起こすから。だから、病んだ一枝が巻き戻しの発作を起こす」


「そのとおり。命の価値は重いからね」

「ほかの疑問はまだ解けてません。わたしには、解けて当然のはずなのに」


「さあ、どうだろうね? きみはもう少し情報を得るがいい。そうするほうが、疑問の結末に納得できるだろう。そうそう、海牙くんからきみへの預かりものがあるんだ」

「預かりもの?」


 平井さんはどこからともなく、一冊の分厚いファイルを取り出した。わたしは平井さんからファイルを受け取って開いた。


 漢字が目に飛び込んできた。漢文だ。といっても、白文じゃなくて、漢文を読むための返り点が打たれている。平井さんが説明してくれた。


「これは海牙くんの『四獣聖珠秘録』勉強ノートだよ。影印本をコピーして、そこに返り点を打って、書き下した文章をノートに取っている」


 返り点付きのコピーをめくる。ルーズリーフに、漢字かな交じりの文章が書かれている。


[吾が父、集むる所の古籍にはく、宝珠、づ大地有り。…………]


 筆圧が強くて細身で角張った文字だった。美しい字体ではないけれど、癖が統一的で、読みやすい。


「海牙さんって、文系教科もできるんだ」

「理系教科に比べると、苦労していたがね。全部読むまでに、一年近くかかったかな」

「えっ、一年?」


「返り点なしの漢文を、きみは読めるかな?」

「無理です」

「高校生の学習の範囲では、読めないのが当然だ。海牙くんも同じだよ。最初の一行を読めるまでに、三日かかっていた。必死でやって、だんだん読めるようになった」


 コピーされた本文をよく見ると、返り点の下書きの痕跡がたくさんあった。消しゴムでキレイに消してあるけれど、強い筆圧のくぼみは残っている。


「どうしてこんなに頑張れたの?」

「未処理の情報を、どうにか処理したかったんだ。預かり手である自分とは何者なのかを知るために」


「その答えは『秘録』を読んだらわかるんですか?」

「わかる部分もある。わからない部分もある。読まないよりは、読むほうがいい。特に、四獣珠がツルギに姿を変えた今、登場人物の姿を知っておく必要があるだろうね」


 ノートの文字を目で追ってみる。漢文を書き下しただけの古い文体だから、文章の意味は、すんなりとは頭に入ってこない。


「海牙さんは自分で苦労したのに、わたしは海牙さんのノートを見せてもらう。ずるいですよね、わたし」

「そうかもね。しかし、海牙くんは理仁くんをずるいと言っていたよ。理仁くんは、ほんの一日で『秘録』を読んだから」


「一日で?」

「理仁くんの能力は言語優勢だから、聞くと読むは得意らしいんだ。テレパシーを受信するようなものだよ」


 そういえば、屋上でもその話をしていた。


 目の前の漢文を眺める。こんな凄まじい密度の漢字の連なりからテレパシーを受け取れるなんて。長江先輩のチカラって普通にすごい。


「わたし、読んでみます」

「そうするといい。話したいときには、いつでもおいで。私に連絡する必要はない。私はすべてを感知できるから」


 わたしは改めて、平井さんを見つめた。穏やかな表情をしている。あたりは薄暗いのに、目が焼けそうな錯覚におちいる。昼間の太陽を直視するみたい。


「平井さんも預かり手なんですよね? 一体、どんな宝珠を預かってらっしゃるんですか? 四獣珠とは比べ物にならないくらい大きなチカラが存在するなんて、想像できなかったし、信じられないんです」


 わたしは早口で言い切った。失礼を承知していた。恐れ多さに負けて、わたしは顔を伏せる。

 平井さんは柔らかい声で言った。


「空を見上げてごらん。満月だよ。とても明るい。月から見る地球も、きっと美しいだろうね。地球は、青く輝く宝珠だ」


 雷に打たれたように感じた。


「それじゃ、平井さんの宝珠は……」

「この地球上で触れられる最も大きな球体は地球、すなわち『だいせいしゅ』。私はこの星の預かり手だ。おかげで、途方もないチカラを授かっている。顔を上げてごらん?」


 平井さんの言葉は、絶対の命令だった。わたしは命令に服従する。


 そのチカラは『掌握ルール』。完全なる支配者が持つ、圧倒的なチカラだ。平井さんの存在は、きっと神に似ている。


【多神教的な立場に立つならば、似ているかな? しかし、私は天地創造などしていないよ。この肉体も老いる。そうした意味では、ただの人間に過ぎない】


 頭の中に響き渡る声は強すぎて、ひれ伏したい衝動に駆られる。


「おっと、ごめんね。怖がらせたいわけではないんだ。私の存在が、きみたちの疑問を解くヒントになる。だから名乗ったのだ」

「疑問を解くヒント?」


 平井さんは微笑んで、お口にチャックのジェスチャーをした。


「すべてを話してあげられればよいのだが、それは私の禁忌に触れるのでね。自分たちの力で、真実に近付いてほしい」

「平井さんにも禁忌があるんですか? 大地聖珠の預かり手なら、地球の支配者で、運命を預かっているともいえる存在でしょう?」


「チカラが大きければ大きいほど、禁忌も制約も大きくなくてはならない。そうでなくては、運命の一枝など、一瞬で簡単に滅んでしまう」


 ポーチの中で、青獣珠がうなずくように呼応した。


 ――チカラは均衡しなければならない――


 願いと代償のバランス。チカラと禁忌のバランス。それらは、釣り合わなくてはならない。青獣珠が言った「因果の天秤の均衡」って、このバランスのことなんだ。


「この病んだ一枝は滅びますか? ツルギが違反者を排除しなければ、ここに存在するすべてが滅んでしまうんですか?」

「何年何月何日に滅ぶ、と予言することはできない。遠い未来のことかもしれない。謎を解いて真実に近付くことが怖いのかい?」


 声が、夜気をひそやかに貫いた。


「謎を解くしかねぇだろ。白獣珠がツルギになって、役割を果たせって言う。チカラの意味を知るチャンスだ。自分が生まれた意味も生きてる意味も、役割を果たせば、少し見えんだろ? だったら、オレはやる」


 煥先輩は言い切った。黒いライダースーツを着ている。小脇に抱えたヘルメットも黒だ。

 平井さんがわたしの背中を優しく押した。


「お迎えが来たようだね。気を付けて帰りなさい」


 わたしは平井さんにお辞儀をした。



***



 嫦娥公園の出入口にバイクがあった。


「わぁ、大きい!」

「原付にでも乗ってくると思ったのか?」

「そうじゃないです。うちの門衛さんの一人がバイク好きで、いつも大型バイクで通勤してくるんですけど、彼のバイクが標準サイズだと思ってました。六〇〇cc、だったかな?」


 ccというのは、排気量のこと。エンジンのパワーを示す数字らしい。


 煥先輩のバイクは、六〇〇ccとは全然、迫力が違う。想像していたのより二回りは大きい。全体が黒で、ところどころがシルバーだ。


「四〇〇cc以上が大型だ。六〇〇は小回りとパワーのバランスがよくて扱いやすい。こいつは一千リッター超えだ。ここまでデカいのはめったにない。まあ、オレの趣味じゃなくて、死んだ親父が乗ってたバイクだけどな」


 煥先輩はフルフェイスヘルメットをかぶった。座席の下から、もう一つ、顔までは覆わないタイプのヘルメットを取り出して、わたしに渡した。


 わたしはヘルメットを頭に載せた。あご紐を留めようとして、もたもたする。


「じっとしてろ」


 煥先輩の手が伸びてきて、わたしは息を止めた。

 パチンと音がして、あご紐のキャッチが留まる。煥先輩の指先が、触れそうで触れなかった。


「あ、ありがとうございます」

「こいつも着てろ」


 投げ渡されたのは、黒いウィンドブレイカーの上着だ。手に取った途端、ふわっと匂いがした。あったかいような、くすぐったいような匂いだった。


「こ、この上着は?」

「オレの」

「えっ、あ、あの……」

「オレの服なんかじゃイヤだろうが、とりあえず着てろ。バイク、寒いんだよ。制服のままってのもヤバいし」


 イヤなはずない。胸がドキドキする。


 上着にそでを通して前を閉める。ふわっと、あの匂いに包まれる。甘い匂いではないのに、甘い。

 思いっ切りブカブカだった。そでは指先まで隠れるし、すそはスカートみたいな長さになる。


 煥先輩、大きいんだな。

 チラッと煥先輩を見上げると、フルフェイスヘルメットがそっぽを向いた。手早く発進の準備をして、長い脚でバイクにまたがる。


「後ろに乗れ」

「は、はい」


 返事はしたけれど、わたしは背が低い。バイクの車高に苦労して、よじ登る。


 目の前に、黒いジャケットの背中。使い込まれたものみたいで、ジャケットの本革の表面に小さな傷がいくつもある。


「オレの腰につかまれ」

「えっ?」

「振り落とされたいか?」

「イヤです。でも、煥先輩……」


 体に触れられるの、苦手でしょう?


「いいから、つかまってろ。荒い運転はしねぇつもりだ。ただ、このマシンのパワー自体がハンパじゃない。気を付けてろよ」

「……はい」


 わたしは煥先輩の腰に腕を回した。一瞬だけ、煥先輩が体をこわばらせた。


「最初からこうすりゃよかった」

「え?」

「バイクなら、間が持たないなんてこともない」


 それはどういう意味かと訊くより先に、バイクが動き出した。



***



 轟音をあげて吹き抜ける風になった。景色がするすると流れ去っていく。頬や耳をかすめて過ぎる空気が冷たい。脚も冷える。でも、煥先輩にくっついたところは温かい。


 革のジャケット越しには、体の感触はわからない。煥先輩にとっても、きっとそれは同じだ。よかった、と思う。胸のドキドキを聞かれずにすむ。


 毎日、時間をかけて上り下りする坂が、あっという間だった。わたしは自分の家のそばに降ろされる。魔法が解けた気分になった。


「ありがとうございました」


 ヘルメットと上着を煥先輩に返して、カバンを渡してもらう。煥先輩は何も言わない。

 バイク通勤の門衛さんが出てきたところで、煥先輩はサッとバイクを発進させた。


「鈴蘭お嬢さま、お帰りなさいませ。今のバイクの男は何者ですか?」


 門衛さんは煥先輩を知っているけれど、今はヘルメットで顔も髪も見えなかった。


「白虎の伊呂波よ。送り迎えをしてくれてる」


 門衛さんはわたしのカバンを持ちながら、眉をひそめた。


「彼は十六歳ではありませんでしたか?」

「そうだけど」

「大型バイクの免許は、満十八歳でなければ取得できません。彼の年齢で、あんな大型を乗り回すなんて」


 法律違反だったんだ。暴走族。不良少年。銀髪の悪魔。忘れていた言葉が頭によみがえる。

 わたしは門衛さんの腕をつかんだ。


「お願い、このことは内緒にして。煥先輩の免許の件、母が知ったら」

「わかりました。私からは何も申し上げません。奥さまにも大奥さまにも口外しませんから」

「ありがとう」


 門衛さんは、お人好しそうに笑った。


「カッコよかったですね。リッター超えのモンスターマシンだったでしょう? 十六歳の少年が、あんなにスムーズに乗りこなすとは。彼自身はずいぶんと細身の体つきなのに」

「すごいことなの?」

「素晴らしい運動能力の持ち主ですね。私などでは、あのマシンに振り回されるのがオチです。いやぁ、憧れますね」


 バイク好きの門衛さんは、子どもみたいに目を輝かせている。ふと、尾張くんを思い出した。煥先輩のケンカの強さに憧れて、カッコいいと言っていた。


 煥先輩って、男の人から見てもカッコいいんだ。バイクやケンカが価値って感覚はよくわからないけれど、わたしは嬉しくなった。


 ほわほわと舞い上がりかけたところで、唐突に、煥先輩が放った言葉が頭をよぎった。「バイクなら、間が持たないなんてこともない」と。


 ガン、と撃ち落とされた気分になった。

 いきなり気付いた。バイクに乗っていたら話をしなくて済むって意味だ。


「残酷すぎる……」


 制服から部屋着に着替えて、食欲がないままごはんを食べて、部屋に戻った。


 課題やらなきゃ。予習やらなきゃ。お風呂に入らなきゃ。やることリストは頭の中にあるけれど、やる気が起きない。


 平井さんに渡されたファイルを開く。海牙さんが必死で読んだ『秘録』。癖のある文字をたどってみる。


 序文によると、『秘録』は江戸時代に編集されたらしい。編者は、当時の阿里家の預かり手。阿里家に収集された宝珠関係の記録をまとめたもので、全部で五冊印刷されて、四獣珠の家系と平井家に一冊ずつ配られた。


 そのときも今回と同じように、一つの危機が起こって、四獣珠の預かり手は協力してそれを乗り越えた。その記録を兼ねて『秘録』は編集されたそうだ。


[愚願令此書伝世長久然乃後人不詐守珠之道耳

 、願ふらく、の書をして伝世すること長久たらしめんことを。しからばすなはち、後人、守珠の道をいつはらざるのみ]


 ノートの余白にはビッシリとメモが書き込まれている。


 ・愚=一人称。筆者自身のこと

 ・令=使役。「□□をして○○せしむ/△△たらしむ」

 ・願うらく~○○せんことを

 ・然乃=しからばすなわち

 ・之=これ/の ←注意!

 ・詐=いつわる。まちがうの意。

 ・耳=のみ。肯定。「なり」でも可。


[筆者である私は願います。この本を末永く子孫たちに伝えてほしい。そうすれば、子孫たちは宝珠を預かる道を外れません]


 海牙さんのノートには、『秘録』の目次ごとに付箋でタグが付けられていた。ノートのまとめ方が几帳面だから、とても見やすい。


 まずは『始源』。最初に大地聖珠が生まれて、次に陰陽の二極珠が生まれて、そして四聖獣の四獣珠が生まれた。四獣珠はランクの高い宝珠だ。


 次に『属性』。四獣珠は四聖獣のチカラを宿している。青龍、朱雀、白虎、玄武。そして、それぞれ方位と季節、元素を司っている。


 青龍は東と春、元素は木/植物。

 朱雀は南と夏、元素は火/炎熱。

 白虎は西と秋、元素は金/鉱物。

 玄武は北と冬、元素は水/寒冷。


 そして『禁忌』。宝珠の預かり手は互いに交流することを避けなければならない。己が預かる宝珠に願いを掛けてはならない。万一、禁忌の願いが発動したら、預かり手は違反者を排除しなくてはならない。


 重要だと海牙さんが判断した文章は、漢文を書き下すだけではなく、現代語訳も付けられていた。おかげで、わたしは苦労なく読み進めることができる。


 ふと『一珠』というタグが目に付いた。母数が一の宝珠について書かれている。つまり、大地聖珠のこと。ついでのように、月のことも。


「月も宝珠なんだ」


 それから『大樹』のタグがあった。運命について記された項目だ。


 運命は、いくつもの可能性を持つもの。多数に枝分かれした大樹のようなもの。わたしたちが生きるこの世界は大樹の一枝で、別の一枝には、よく似た別のわたしがいる。


 一枝が病めば、別の一枝にも影響を及ぼし得る。場合によっては、大樹全体を滅びに導くかもしれない。


 でも、そうだとしても、わたしには預かり知れない。


 この病んだ一枝の寿命はどれくらいだろう? 平井さんは断言しなかった。遠い未来かもしれないと言った。


 だったら、一枝の滅亡がわたしの生涯のうちに起こらないなら、別にどうでもよくない?


「イヤだ」


 ポツリと、つぶやいてみた。

 くすぶっているだけで、みじめで、情けなくて、ずるくて。逃げ道ばかりを探す自分が、イヤだ。


 海牙さんは強い。生まれ持った能力のために苦しみながら、そんな自分にちゃんと向き合っている。


 長江先輩は強い。預かるべきものを忌み嫌いながら、いちばん信頼したいはずの人と戦っている。


「煥先輩……」


 歌を聴いて、その人となりを知った。自分の弱さや孤独やみにくさや不安を直視することは、とても痛い。でも、目を背けちゃいけない。見たもののありのままを歌う煥先輩は強い。


 まだ全部を覚えてはいないけれど、サビだけは歌えるようになった。


 青い月よ 消えないで

 この胸の叫びは飼い慣らせないから


 煥先輩が歌ってくれるなら、歌声を聴きながらだったら、わたしは覚悟を決められるんじゃないか。


 この一枝は、数年後の未来から巻き戻った。文徳先輩と亜美先輩の結婚式の日、願いの代償として、みんな殺された。


【何度やり直してでも、わたしはあきらめない。この恋が実る真実の未来へとたどり着くために、何度だって時を巻き戻す】


 許せないと思った。「わたし」の恋のために煥先輩が死ぬなんて、わたしは許せない。


「煥先輩は未来のある人だから。わたしは、煥先輩の未来の全部を応援したい。好きな人を、死なせたくない」


 わたしはケータイを手に取った。みんなに会いたい。会って話したい。教えてもらいたい。勇気をもらいたい。


〈鈴蘭です。今から嫦娥公園に集まれませんか? お話ししたいんです。

 追伸:海牙さん、ファイルありがとうございます〉


 煥先輩と長江先輩と海牙さん、三人宛てにメールを送る。長江先輩と海牙さんからはすぐに返信が来た。


〈りょーかい! すぐ向かうね〉

〈ぼくも行けます。夜道は気を付けて〉


 煥先輩からの返信がない。いちばん応えてほしいのに。


 わたしは制服に着替えた。私服でもよかったかなって、着替えた後で気付いた。ポーチに青獣珠とケータイと財布を入れて、忍び足で玄関から靴を取ってきて、メイドさんに見付からないように勝手口から外に出る。


 門衛さんがわたしの姿に目を丸くした。


「鈴蘭お嬢さま? こんな時間に一体どちらへ?」

「お願い、見逃して! 今回だけだから!」

「……白虎の彼ですか?」


 門衛さんは心配そうな表情をしながら、同時に、ワクワクしているようにも見える。ここはもう、一世一代の迫真の演技で押し通すしかない。


「わたし、どうしてもあの人に会いたいの……!」



***



 わたしは自転車で、車の通りがなくなった静かな住宅地を駆け抜ける。

 普段は自転車に乗らない。坂道の下りはいいけれど、上りがつらいから。


 この道を再び上ることはないかもしれない。頭に浮かびかけた恐怖を追い払って、前だけを向いて自転車をこぐ。


 玉宮駅前で長江先輩と落ち合った。ちょうど電車で着いたところだった。

 嫦娥公園のほうへ歩き出したとき、トラックの荷台から海牙さんが飛び降りてきた。


「海ちゃん、無賃乗車」

「公共交通機関じゃないからセーフでしょう?」


 そのとき、ケータイが鳴った。長江先輩と海牙さんのスマホも、同時に。


「煥くんからの返信ですね」


 いちばん素早かった海牙さんが報告する。わたしは慌ててポーチからケータイを出した。


〈今メールに気付いた。十分くらいで着ける〉


 わたしたちは先に嫦娥公園に入ることにした。公園の出入口に自転車を停める。


「やあ、こんばんは」


 当然のように、ベンチには平井さんがいた。挨拶をして、それきり沈黙が落ちかけて、気を遣うように長江先輩が話題を振った。


「鈴蘭ちゃんがメールに書いてたファイルって、海ちゃんの『秘録』勉強ファイルのこと?」

「はい。少し読ませていただきました。すごいですね、海牙さん。理系なのに、漢文も読めるなんて」


 海牙さんはウェーブした髪を掻き上げた。得意げで嬉しそうな表情を隠し切れていない。


「あんなに勉強したのは初めてですよ。漢文が読めるようになると、古文もできるようになりました。古い文体を読む勘が身に付いたんだと思います。古典の読みづらさをクリアできるようになったら、いつの間にか現代文の理解速度も上がりました」

「そうなんですね。すごいです」


「唯一の弱点だった国語も、もう怖くありませんね。志望校の旧帝大は、オーバーキルでA判定です」

「うらやましいです。わたし、入学して一週間でもう、進学科の授業のペースに置いていかれかけてます。要領悪くて。数学、どんな勉強の仕方をすればいいんでしょう?」


 全国模試ランカーの海牙さんが答えるより先に、長江先輩が茶々を入れた。


「海ちゃんに理系教科の相談しても無駄だよ。この人、天才以上のチカラの持ち主じゃん?計算なんて、呼吸するより簡単にできちゃう」

「そういえばそうですね」


 海牙さんが腕組みした。


「そんな言い方は心外ですよ。ぼくは教えるのも得意です。教師という職業にも関心がありますから」

「え、マジ? んじゃ、将来、襄陽に来ない? おれ、襄陽乗っ取るからさ、物理の先生として海ちゃん雇いたい」


 長江先輩が目指すのは、襄陽学園の理事長の椅子だ。海牙さんは物理か数学の先生になるかもしれない。わたしはスクールカウンセラーになりたい。三人とも、学校に絡む仕事をしたいんだ。


 学校は、わたしの世界のほとんどすべてだ。わたしを形づくる要素の、いちばん大きい部分。わたしだけじゃなくて、きっと、小学生から高校生までのほとんどみんな、学校に通っている多くの誰もが同じ。


 学校って、大切な場所だと思う。狭くて窮屈かもしれないけど、かけがえのない時空間であるはずだから。


「ステキな場所にしてあげたいよね~」

「リヒちゃんならできるでしょう」

「わたしもそう思います」


 長江先輩も海牙さんもわたしも、よく似た何かを感じながら、将来を夢見ている。

 平井さんが、話をまとめるように言った。


「きみたちのその将来のために、そろそろ真実を追究するときが来たようだ」


 平井さんは耳を澄ませる仕草をした。それを合図にしたように、夜風がバイクの音を連れて来る。


「煥先輩でしょうか?」

「あっきーだろうね。大型バイクの音だ。瑪都流バァトルのバイクってさ~、エンジン音、ナチュラルなままなんだよね。暴走族なんて呼ばれるけど、交通ルール守るし。あいつらはね、ただ走るのが好きなだけなの」


 公園の出入口付近に光が躍った。ヘッドライトだと気付いたとき、黒い疾風が公園に乗り入れた。重さをものともせず、巨体が華麗に停止する。エンジン音とライトが消えた。


 煥先輩がバイクから降りてヘルメットを外した。頭を振ると、銀髪が跳ねた。

 わたしは煥先輩に駆け寄ろうとした。でも、体が固まる。


「何で……」


 煥先輩に続いて、バイクを降りた人。ヘルメットを外して上着を脱いで、煥先輩に笑顔でそれらを返す。


「ありがとうございました、煥さん! バイクって、速いんですね! 本当にステキな体験でした!」


 はしゃいだ声。キラキラ輝く目。


「何で、小夜子が煥先輩のバイクに……」


 煥先輩の背中にくっついて風になる体験をしたのはわたしだけだと、心を躍らせていたのに。


 ヘルメットや上着をしまい込んだ煥先輩は、わたしたちに合流した。当然のように、小夜子も一緒だ。


 小夜子は、淡く透けるような素材の青白いワンピースを着ている。ほっそりしたスタイルに、よく似合っていた。


 長江先輩が小夜子に目を向けた。


「これまた美少女だね~。あっきーってば、ナンパでもしてきたの?」


 長江先輩は軽い口調を装っているけれど、目が笑っていない。朱い光を宿す両眼は小夜子を鋭く観察している。


 煥先輩は淡々と説明した。


「襄陽の進学科の一年だ。とうでフラフラしてた。家がこの近所らしいから拾ってきた」


 海牙さんが首をかしげた。


「こんな時間帯に、なぜ埠頭に? 港の一帯の倉庫群は、よくない噂がありますよ。きみは、なぜそんな場所にいたんです?」


 小夜子は黙って微笑んだ。ミステリアスな笑顔がわたしたちを見渡す。


 ドクン、とポーチの中で青獣珠が脈打った。まるで危険を察知したかのように。わたしに注意をうながすかのように。


 煥先輩が、長江先輩が、海牙さんが、自分のふところのあたりに目を落とす。ツルギの柄を収めた場所だ。みんな同じ何かを察知したんだ。危機感に似た何かを。


 長江先輩が両目を強く輝かせた。


【おれら、内緒話があるんだよね。進学科一年の美少女ちゃん。きみは帰ってもらえるかな?】


 長江先輩の号令コマンドが発動した。服従を強いるマインドコントロールだ。

 けれど。


「お断りするわ、朱雀。あなた程度のチカラでは分不相応よ。月の明るい夜に、わたしを服従させようだなんて」


 長江先輩が目を見張る。海牙さんが笑みを消す。煥先輩が小夜子から跳び離れた。

 平井さんが小夜子に問いかけた。


「実体を持つのは約千二百年ぶりかな、月の姫君?」


 小夜子は長い髪を払った。風が止んでいる。でも、小夜子の髪はふわりと宙にそよぐ。


「邪魔をしないでね、大地の主。こんなに胸が熱いのは初めてなの。これが恋なのね。永遠の時間の流れの中で、初めて知った感情よ」

「私は邪魔などしないよ。できないのだ。私が禁忌を犯せば、大地聖珠が滅ぶのだから」

「ならば安心ね。わたしは止まらない。動き出した願いはもう止められないのよ」


 その言葉の響きに、強烈な既視感がある。わたしは彼女を知っている。


 同化しそうなほど、よく似た願いをいだいた。だから、お互いの感情とチカラが干渉し合った。わたしは彼女の願いを聞いたことがある。


「小夜子、あなたは……」

「気安く呼ばないで」


 小夜子が正面からわたしを見た。微笑みはない。ゾッとするほど美しい顔立ち。漆黒の目に銀色の光が宿っている。


 ふわりと、小夜子の体が地面から浮き上がる。


 小夜子が両手を空に掲げた。星空を支配する満月の光を浴びながら、小夜子は歌うようにわたしを嘲った。


「チカラを持つ身でありながら非力なのね、青龍。おまじないに、お守り。夜空を見上げて、願いごと。チカラを込めた願いなんて、久方ぶりに聞いたわ。だから、わたしが目覚めたの」

「わたしが、願ったから?」


「そうよ、青龍の願いが聞こえた。でも、何なの? 恋が叶いますように? 笑わせないで。自分で努力もせずに、恋に恋して浮かれてるだけ。まあ、わからないでもなかったわ。生身の体で恋をするのは、ワクワクするものなのよね」


 小夜子の両手の間に、輝きが生じる。長い長い、背丈ほどに長い、一振りのツルギだ。月の光を具現化したような刃が、金とも銀ともつかない色にきらめいている。


 圧倒的なチカラが、小夜子から立ち上っている。暴風みたいな波動が吹き付けてくる。


 小夜子はツルギの柄を両手で握った。その体もツルギも低い宙に浮いて、まるで羽根のように、重さを感じさせない。


 煥先輩はいつの間にか、純白の刃を備えた短剣を手にしていた。


「あんたは何者なんだ?」


 小夜子が、とろけそうな笑顔を煥先輩に向けた。


「わたしはあなたに恋をしているだけ」

「何を言ってんだ」

「ブルームーンより、願いを込めて。歌うあなたに、幸運な未来を」


 煥先輩は切れ長な目を見開いた。


 小夜子がわたしに向き直った。その顔に、もう微笑みはない。わたしは刃のきらめきを見た。切っ先がわたしを狙った。


 何が起こるのかわかっていた。なのに動けなかった。たぶん全員が同じ状態だった。

 ツルギを構えた小夜子が、宙を滑る。わたしのほうへ突っ込んでくる。


「青龍、あなたが嫌い」


 小夜子の声がハッキリと耳に届いた。次の瞬間、わたしはツルギに胸を貫かれた。


 痛みを感じるより先に、時間と空間が消滅した。

 消滅の間際に知った。わたしは違反者じゃない。わたしは青獣珠に願っていない。


 違反者は、小夜子。月という宝珠の預かり手。その小夜子が願った。


【何でも差し出すから、どうか、この恋を叶えて】



 座標

 F(嫦娥公園内,4月17日21:48,安豊寺鈴蘭)

 ↓

 E(嫦娥公園内,4月17日19:49,伊呂波煥)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る