「悪ぃ。歌えねえ」

 五時間目の終了を告げるチャイムが鳴ると、デスクに突っ伏した先生が、ハッと起き上がった。ああもう睡眠不足なんだからと、つぶやいて、それから胸を押さえて小さな悲鳴をあげる。


 そうだった。長江先輩のいたずら。告げ口のしようもないから黙っておく。


 わたしはまだ教室に戻れる気分じゃなかった。でも、本当に熱のある人が保健室にやって来たから、熱のないわたしはベッドを譲るべきだと思った。


「失礼しました」


 ポーチを胸に抱いて保健室を出る。

 その途端、声をかけられた。


「鈴蘭さん、体調はもう大丈夫?」


 ふみのり先輩がそこに立っていた。


「は、はい。疲れてるだけなので」

「調子が戻ってるようには見えないけど?」


「いろいろ重なって、悩んでしまって。あの、文徳先輩も保健室に用事ですか?」

「保健室というか、保健室にいる鈴蘭さんに用事、だな。あきらから、話を聞いてあげてほしいって頼まれたんだ。おれでよかったら相談に乗るよ。六時間目、一緒にサボらない?」


 煥先輩がわたしのことを気に掛けてくれている。でも、勘違いもしている。わたしは煥先輩自身に迎えに来てほしかったのに。


 わたしは文徳先輩に連れられて生徒会室に入った。会議用の机が置かれた広い部屋だ。壁際には鍵付きの棚があって、過去の会議の記録が並べられている。


「どうぞ、その椅子に座って」

「はい。失礼します」


 文徳先輩はロッカーを開けた。事務用品が整然と収められている。と思ったら、クッキーの缶が出てきた。小型のポットとインスタントの紅茶もある。文徳先輩は紙コップに紅茶を淹れて、クッキーの缶を開けてくれた。


「適当につまんでよ」

「ありがとうございます」


 勧められるまま、クッキーを一ついただいた。お昼、食べてなかったんだっけ。クッキーの甘さが体に優しい。温かい紅茶をのどに流し込んでから、のどが渇いていたことに気が付いた。


 文徳先輩も椅子に腰掛けた。


「進学科の三年ってね、自習が多いんだ。授業は全部、志望する大学の試験内容に合わせた選択式で、授業が入ってないコマは自習の時間になる。おれは経済学部を狙ってる文系だから、理系の難関校ほどのコマ数は必要なくてさ」


「今の時間も自習なんですか?」

「そういうこと。だから、おれがここにいることは気にしないでいいよ」


「でも、わたしのことで時間を割いていただいて……すみません」

「いいんだって。それより、煥の様子が変なんだよ」


「煥先輩が?」

「昼休みの終わりにフラッとおれのところに来たんだけど、死んだような目をしてた。どうしたんだって訊いたら、刺されたっていう一言だけ」


 文徳先輩は紅茶の紙コップを机の上に置いた。わたしを見る視線が、話を促している。

 わたしは紙コップを両手に包んだ。紅茶のぬくもりを感じながら、口を開く。


「今日の夜から巻き戻ってきました。煥先輩は、わたしをかばって刺されたんです。文徳先輩はどこまでご存じですか? 預かり手の役割のこと、聞いてますか?」


 文徳先輩はうなずいた。


「おおよそ全部わかってると思う。煥は、巻き戻るたびにおれに話すんだ。それをスマホで文章に起こして、共有する形で記録してる」

「だったら、わたしが違反者だってことも知ってるんですね」


「煥は、そうは言ってないよ」

「でも、四獣珠の預かり手の中で、まだツルギに命を奪われていないのは、わたしだけです」


 文徳先輩がクッキーをつまんで、ぱくりと一口で頬張った。もぐもぐと口を動かす間、言葉を探していたみたいだ。文徳先輩は言った。


「外から見てると、不思議だよ。いつの間にか、鈴蘭さんと煥の距離が近くなってて、煥の顔つきが急に変わった。今回の煥の変化は、危うい印象だけどね」

「危ういって?」

「心ここにあらず、というか。一度死ぬ体験がショックだったせいかな? おれにもよくわからないんだけど」


 文徳先輩に勧められて、クッキーを手に取って口に運ぶ。甘い味が舌の上でとろける。


「煥先輩やわたしの様子、違和感があるんですね」

「事情が事情だろ? 外から見てわかるほどの心境の変化があるのも当然だと思う」


 わたしの心境は変わった。大きく変わった。


 文徳先輩と二人きりだ。少し前までのわたしなら、舞い上がったはずだけれど、今はそうじゃない。わたしの心にいる人は、文徳先輩じゃない。


「わたし、文徳先輩のことが好きでした」


 泣きそうな声が、ポツリとこぼれた。


「鈴蘭さん?」

「去年のオープンキャンパスのときも、今年の入学式のときも、わたしが校内で迷ったときも、生徒会長の文徳先輩はカッコよくて、好きでした。亜美先輩とのことを知って、悲しかった。わたし、一度、間違いをしてしまいました。そのせいで煥先輩に嫌われてます」


「煥に嫌われてる? そうかな?」

「嫌われてます。なのに、煥先輩はわたしを守ってくれる。煥先輩は強くて、頼りになって、だから、気付いたら、わたし……」


 言葉が続かなくなる。声が震えて、息が震えて。

 文徳先輩がゆっくりと、かぶりを振った


「こう言ったら失礼かもしれないけど、鈴蘭さんはたぶん、いろいろ勘違いしてるよ」

「勘違い……」


 文徳先輩はいつもの笑顔だった。生徒会長としての、品行方正で頼もしげな、よそゆきの笑顔だ。


「おれは目立つ存在だから、憧れてもらうことはよくある。でも、それは恋じゃない。少なくとも、おれが知ってる恋とは違う。恋に条件やスペックは関係ないんだ」


 わたしが文徳先輩に惹かれた理由は、一言でまとめると、完璧だからだ。完璧な条件、完璧なスペックだから。


 そうだ。恋い焦がれたというよりも、ほしいと思った。モノみたいに。


「おれの彼女の亜美は、美人で料理がうまいし、腕も立つし、ベースも弾ける。だけど、完璧なんかじゃないんだよね。成績は普通だし、気が強すぎる。それでも、おれは完璧じゃない亜美が好きだ。完璧になってほしいなんて望まない。こういうのが、おれの恋だ」


「わたしの感情は、それじゃあ……」

「ただの憧れ、だろうね。失礼なことばかり言って悪いけど、本気の恋かどうか、目を見ればわかるよ。おれは煥と違って、鈍いわけじゃないから」


「じゃあ、文徳先輩、わたしが先輩のこと見てるって知ってたのに、気付かないふりしてたんですか?」

「傷付けてごめんね。でも、それ以外のやり方はわからない。こんなふうにオープンに話し合うんじゃなきゃ、恋だ憧れだなんて、お互い恥ずかしくて口に出せないだろう?」


 文徳先輩は冷静で確信的で、何もかもを見通しているみたいで、わたしの弱い心はつい甘えてしまった。自分ひとりで抱え切れない苦しみを、わたしは言葉にして吐き出した。


「わたし、煥先輩のことが好きなんです。さっき気付きました。ほんとはこの気持ち、たぶん、もっと前からで。なのに、煥先輩には嫌われてるんです。昼休みも避けられて、わたし、どうしたらいいか……」


 うつむいた頭に、ポンと温かいものが載せられた。文徳先輩の手のひらだ。


「ありがとう。ひねくれ者の弟のことを好きになってくれて」


 涙が出た。さっきも泣いたのに。


「心が、苦しいです。こんなに苦しいのは、初めてで……わ、わたし弱くて、助けられてばっかりで……でもっ、煥先輩は守ってくれて、それが当たり前、みたいに……」


 わたしは、わたしを信用できない。臆病で卑怯だ。思い込みが激しくて、何度も煥先輩を傷付けて怒らせた。


 なのに、煥先輩はわたしを信用してくれる。その温かさと優しさと強さが、胸に痛い。


「わたしは、想ってもらう価値もない。でも、わかってるけど……わたしだけを、想ってほしい。煥先輩のことを考えたら、頭がぐちゃぐちゃになる。つらいです……っ」


 文徳先輩が頭を撫でてくれる。ポン、ポン、と子どもをあやすようなリズムで。


「恋って、そうだよ。キレイな形をしてないんだよ。ぐちゃぐちゃなんだ。大切にしたいのに、破壊したくもなる」


 ありのままの煥先輩を好きになった。だけど、煥先輩の笑顔を見てみたい。わたしの前でだけ、笑ってほしい。


 人に触れられるのが苦手な煥先輩は、そのままでかまわない。ただ、わたしが触れることだけ許してくれるなら。


 煥先輩のことが好きで大切で、同時に、煥先輩のガードを全部、破壊したい。わたしだけが、無防備な煥先輩を知りたい。


 わたしはしばらく泣いていた。文徳先輩はずっと、わたしの頭を撫でてくれた。どうにか泣き止んでハンカチで顔を拭いたとき、文徳先輩は紅茶を淹れ直してくれた。


「少しは落ち着いた?」

「はい、ありがとうございます」


「だったらよかった。おれはちょっと生徒会の仕事をしようかな。鈴蘭さんも手伝ってくれる? 印刷物を仕分けるだけの単純作業なんだけど」

「わかりました。お手伝いさせてください」


 それから放課後になるまで、わたしは文徳先輩の仕事の手伝いをした。その後もわたしは教室に戻らず、自分の荷物とギターを教室から回収してきた文徳先輩に連れられて、軽音部室に向かった。


 文徳先輩が軽音部室の鍵を開ける。その背中をぼんやりと見ていたら、突然、後ろから声をかけられた。


「鈴蘭?」


 ビクリとして振り返る。


「小夜子……」

「よかったー、やっぱり鈴蘭だった!」

「どうしてここに?」

「あのね、鈴蘭のカバン、届けに来たの」


 小夜子は、二つ持ったカバンのうちの片方をわたしに差し出した。わたしはカバンを受け取った。中を開けると、確かにわたしのだ。


「あ、ありがとう」


 小夜子はホッとした様子で微笑んだ。


「鈴蘭が保健室にも教室にもいなくて、探したんだよ。普通科の寧々ちゃんって子から、放課後は図書室にいるはずって聞いて、こっちの棟に来てみたところ。図書室、この先でしょ?」


 わたしはうなずいた。声がうまく出ない。小夜子には軽音部室に来てほしくなかった。黙っていようと考えていたのに。


 文徳先輩がわたしと小夜子を見比べた。


「鈴蘭さんと同じクラス、かな?」


 小夜子は文徳先輩にペコッと頭を下げた。


「進学科一年の玉宮小夜子です。あのぉ、ひょっとして、瑪都流バァトル文徳さん?」

「おれのこと、知ってるんだ?」


 小夜子がパッと顔を輝かせた。


「わたし、瑪都流のファンなんです! 特に煥さんの大ファンで! 今から練習なんですか?」


 文徳先輩が気遣わしげな目でわたしを見た。わたしは無理やり微笑んだ。


「小夜子は、煥先輩と話してみたいんだそうです」


 勢い込んで、小夜子は言った。


「煥さんが来るまで待たせてもらえませんかっ?」


 文徳先輩がちょっと悩む顔をした。


「んー、普段はそういうの、断ってるんだけど」

「ご迷惑にはならないようにします! 今日だけでいいんです! お願いします!」

「まあ……約束してくれるなら。だけど、煥が来るかどうか、わからないよ」

「えっ?」


 わたしと小夜子は同時に声をあげた。文徳先輩は栗色の頭を掻いた。


「今日の昼休みの様子だと、歌える感じじゃなかった。あいつの歌、精神面に左右されるからさ、ダメなときはほんとにダメなんだよ。そういう日は練習に来ない」


 小夜子が泣きそうな顔をした。わたしもたぶん似たようなものだ。

 文徳先輩は仕方なそうに息をついた。


「待ってていいよ。中に入って」



***



 しばらくして、雄先輩が来た。亜美先輩と牛富先輩もまもなく合流した。


 小夜子が明るい顔で自己紹介をする。煥先輩のファンという言葉に、みんな楽しそうな表情をした。


 わたしはごまかし笑いを浮かべるだけで、小夜子の積極的なところについて行けない。


 通し練習が始まっても、煥先輩は来なかった。わたしも小夜子も、じっと黙ったままで、歌の入らない演奏を聴き続けた。


 煥先輩の声を、鮮やかに思い出すことができる。


 透き通ったトーンでささやいたフレーズ。ギュッと顔をしかめて張り上げるシャウト。しなやかに伸びる高音。包み込むような低音。


 どんな歌い方をするときも、誰の声とも似ていない。誰の声を加工して整えたって、煥先輩の声には及ばない。


 牛富先輩がドラムセットから立って、パソコンを操作した。ミックスされた雑踏の音源が、スピーカーから流れ出す。『ビターナイトメッセージ』のイントロだ。


 亜美先輩がベースの一音を放つ。完璧なタイミング。雑踏が耳を澄まし始める。


 そのときだった。ドアが開いて、煥先輩が部屋に入ってきた。小夜子が椅子から立った。亜美先輩が演奏を止めた。牛富先輩もパソコンの音を消す。


 文徳先輩が、ホッとした顔を見せた。


「やっと来たか。どこに雲隠れしてた?」

「いつもの場所だよ」

「歌えるのか?」

「一応」

「お客さんが来てるぞ。おまえのファンなんだって」


 煥先輩が小夜子を見る。小夜子は煥先輩に駆け寄った。


「お会いできてよかったです! 今日、来られないかもしれないって聞いてたから」

「約束がある。勝手に帰れねぇんだ」


 煥先輩の視線がわたしをとらえた。約束って、わたしの護衛のこと?


 小夜子は煥先輩を見つめている。煥先輩はわたしからも小夜子からも顔を背けて、文徳先輩に言った。


「兄貴、とりあえず一曲、合わせたい」


 煥先輩はさっさとマイクの準備にかかった。

 わたしは小夜子の手を引いた。


「座って聴いてよう?」


 小夜子はわたしの手を振り払った。部屋の隅の椅子に、黙って腰掛ける。


 前のときとは空気が違う。あのときは楽しかった。笑ったり、からかったり、騒いだり、小学生みたいな瑪都流の姿を目撃した。亜美先輩から、子どものころの煥先輩の話を聞いた。


 煥先輩のマイクの準備が整う。文徳先輩が煥先輩に訊いた。


「いきなりいけるのか?」

「勇者シリーズだったらいける」

「了解、どっちにする?」

「プロローグのほう」


 中学生時代、瑪都流が結成して最初にできた曲が『ブレイヴプロローグ』。いちばんやり込んだ曲だと、文徳先輩が言っていた。


 4カウントも取らず完璧に呼吸を合わせて、いきなり演奏が始まった。

 煥先輩が歌う。がむしゃらな少年の顔をして叫ぶ。曲に入り込んだ表情だ。


『ブレイヴプロローグ』の演奏を終えて、次は『ビターナイトメッセージ』。さっきの仕切り直しだ。


 効果音付きのイントロから始まって、ベース、シンセ、ギター、そしてドラムの順に、楽器が加わっていく。最後に煥先輩が歌い出す。


 悩み抜いた夜。朝の光におびえる胸。みにくい自分の姿を、明るみにさらしたくない。


 そんな唄を、美しい煥先輩が歌うなんて。煥先輩の存在はきっと、闇の中でもキラキラするのに。


「煥」という字の意味を調べた。キッパリと明るく光り輝くとか、ハッキリと照らして明かすとか、そういう意味だった。


 煥先輩、あなたに「煥」という字は、すごくよく似合います。あなたはとてもまぶしいから。

 曲がサビに差し掛かる。


 この胸の泥の奥の底

 その声をあげたのは何だ?

 僕の押し殺した息

 僕が忘れたふりの僕

 僕にようやく聞こえた

 青い……


 いきなり、煥先輩の声が止まった。異変に気付いて、演奏が止まる。


「おい、煥? どうした?」


 煥先輩は呆然と目を見開いていた。口元を、大きな手のひらで覆っている。


 小夜子が立ち上がった。蹴られて倒れそうな椅子を、わたしが支える。誰も何も言わない。固唾を呑んで煥先輩を見つめる。


 やがて、煥先輩は長いまつげを伏せた。


「悪ぃ。歌えねえ」


 青い月よ 消えないで

 この胸の叫びは飼い慣らせないから


 曲の中でもいちばん印象的なフレーズ。「青い月」と歌う響きが美しい箇所だ。

 不意に、わたしは思い出した。煥先輩の呆然とした目を、昼休みにも見た。


 ブルームーンじゃないのか、と煥先輩はつぶやいた。ケータイの連絡先を交換したとき、わたしのアドレスを知ったときのことだ。


 ブルームーン? 青い月?

 歌えない理由とメールアドレスに何か関係があるの?


 そういえば、『ビターナイトメッセージ』のタイトル、仮に付けられていたのも『ディア・ブルームーン』だった。


 それに、もっと前にも一度、煥先輩は月というモチーフに大きな反応を見せたことがある。


 路地での巻き戻しを経験した後の放課後、初めて一緒に帰ることになったときだ。煥先輩はわたしのアミュレットに驚いていた。月のモチーフで、青い石が付いたアミュレットだ。


 どうして煥先輩は青い月にこだわるんだろう? なかなか完成しなかった歌詞の、最後の一ピース。そのフレーズはどこから来たんだろう?


 煥先輩はマイクの片付けを始めた。文徳先輩がギターをスタンドに立てて、煥先輩の肩に手を載せた。


「背負い込むなよ。気晴らしに、バイク走らせてきたらどうだ?」

「そうしようと思ってた」

「道は選べよ。春先は警察がうるさい」

「わかってる」


 煥先輩は瑪都流のメンバーに小声で謝った。亜美先輩が肩をすくめて、牛富先輩はニッコリ笑って、雄先輩は手を振った。煥先輩がわたしを振り返った。


「帰るぞ」


 煥先輩はスタスタとドアに向かう。わたしは慌ててカバンをつかんだ。

 小夜子が声をあげた。


「待って、煥さん!」


 煥先輩が無言で振り返る。小夜子は胸の前でギュッと手を握った。


「わたしも一緒に行っていいですか? じょう公園のそばまで」


 煥先輩がそっぽを向いた。


「ダメだ」

「ど、どうして……」

「面倒見きれねえ」


 小夜子は、イヤイヤをするように首を左右に振った。長い黒髪がふわりと舞い上がる。


【お願い! 一緒に帰りたい!】


 文徳先輩が、頭痛でもするみたいにこめかみを押さえながら、煥先輩に言った。


「鈴蘭さんと小夜子さんを送っていけ」


 煥先輩は目を丸くした。でも、口答えせずに、しぶしぶといった様子でうなずいた。



***



 無言の帰り道はひどく長かった。


 煥先輩が先頭、その後ろに小夜子、半歩遅れてわたし。小夜子は何度か煥先輩に話しかけた。でも、煥先輩は最低限の返事しかしない。


 無口な人なんだって思い出した。優しくて強い言葉をいくつももらったせいで、煥先輩からおしゃべりを引き出すのが難しいことを、わたしは忘れていた。


 玉宮駅が見えてきた。嫦娥公園はそのすぐそばだ。まもなく小夜子と別れることになる。

 しばらく黙っていた小夜子が少し走って、煥先輩に追い付いた。


「あのっ、煥さん」


 小夜子が煥先輩の肘のあたりに触れようと手を伸ばした瞬間、パシッ、と鋭く短い音がした。小夜子が立ち尽くす。煥先輩がハッと顔を上げた。


「バカ。いきなり触れようとするな。条件反射で、振り払っちまう」

「ご、ごめんなさい」

「いや……すまん。痛かっただろ?」


 小夜子は微笑んで、胸の前で右手を左手に包んだ。


「平気です。驚かせて、すみませんでした。初めて煥さんに触れてもらえましたね。嬉しいです」


 煥先輩は眉をひそめた。


「そんなの、喜ぶなよ。手、出せ」

「え?」


 小夜子が目を見張った。煥先輩が右手を差し出している。


「いきなりじゃなけりゃ、平気だから。手を握るくらいなら」


 広い手のひら。長い指。出っ張った関節の形。正方形に近い爪の形。


 その手がわたしに触れてくれたことがある。抱きしめてくれたこともある。でも、触れていいって、握っていいって、そんなふうに差し出されたことはない。


 悔しさが胸を支配する。


 小夜子のほっそりした右手は、わたしの手とは違う形で、わたしの手よりキレイで大人っぽい。小夜子の手が、煥先輩の手に触れた。手と手がそっと握り合った。


「すごく、嬉しいです」


 小夜子がうっとりとささやいた。


 煥先輩は手をほどいた。両手をブレザーのポケットに入れて、黙って再び歩き出す。顔が赤くなっているかどうか、後ろ姿からは見て取れない。


 嫦娥公園のそばで、小夜子と別れた。小夜子はわたしを見なかった。煥先輩にだけ笑顔を向けて、ペコッと頭を下げる。


「送っていただいて、ありがとうございました! 少しだけでも、お話しできて嬉しかったです。次のライヴも絶対に聴きに行きますね!」


 煥先輩は「ああ」とだけ応えた。


 小夜子が嫦娥公園のほうへ去って行った。わたしは結局、小夜子と一言も話さなかった。


「煥先輩、今日の午後はどこにいたんですか? わたし、お話ししたかったのに」

「相談役は兄貴のほうがよかっただろ?」


 わたしは首を左右に振った。文徳先輩と話をして落ち着いたのは事実。でも、わたしが話したかった相手は違う。


「煥先輩、わたしは……わたし、あの……」


 うまく言葉が出てこない。

 煥先輩は肩越しに親指で嫦娥公園を指し示した。


「公園のベンチに行け。平井がいる。あいつと一緒にいれば問題ない。二十分くらい待ってろ」

「待つって?」

「バイクを取ってくる」


 煥先輩は言うだけ言って、人混みを縫って歩いていった。

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