「だから、ノーカウントだろ」
視界の高さに青空がある。グラウンドを吹き抜けた埃っぽい風がわたしの髪をさらった。
「屋上?」
昼休みの屋上だ。海牙さんが、長江先輩を刺して自分ののどを裂いて、検証をしてみせた場面。
時間が巻き戻った。
我に返った煥先輩が、ぶるっと頭を振った。
「海牙、てめえ!」
煥先輩が踏み込もうとしたそのとき、海牙さんが口を押さえてうずくまった。コンクリートの床にひざを突いて背中を丸める。
「……ッ、う……っ」
海牙さんの背中が苦しげにビクリと震えた。波打つ髪が、乱れながら顔を隠す。
吐いているらしい。
長江先輩が海牙さんのそばにしゃがみ込んで、グレーの制服の背中をさすった。
「だから、おれがやるって言ったんじゃん。海ちゃん、悪役やるたびに吐いてるっしょ? しかも食べてないし。あ~ぁ、胃液しか出てこない。苦しいね。もう無理しなくていいって」
信じられない気持ちだった。
海牙さん、無理していたの?
煥先輩がこぶしを握ったままで固まっていた。眉根を寄せた顔は、怒りではなく心配の表情を浮かべている。
海牙さんはひとしきり咳き込んだ。咳が落ち着くと、荒い呼吸をしながら、長江先輩に言った。
「ありがとう。もう、収まりました」
胃液でのどが焼けて声が割れていた。海牙さんはポケットからハンカチを出して、手と口を拭った。
煥先輩がこぶしをほどいた。
「この屋上からライヴの夜に戻ったときも吐いてただろ。北口広場で会ったとき、呼吸が乱れてた」
海牙さんが顔を上げた。充血した目に涙がたまっている。
「ばれてたんですか?」
「ケンカしまくってる不良の勘を見くびるなよ。相手の体調がどんなふうか、すぐわかるんだ」
「それは不良の勘じゃなくて、煥くんだからわかるんですよ」
海牙さんが初めて、柔らかく微笑んだ。
長江先輩がポケットからスマホを出した。
「四月十七日、十三時十九分ね。前んときはここで軽くケンカしたけど、今回どうする? そろそろ休戦しない?」
長江先輩は、ぐるっとわたしたちを見渡した。海牙さんが口を開きかけて、やめた。煥先輩が足を踏み替えた。わたしは両手の指をきつく組み合わせた。長江先輩が再び言葉を発した。
「海ちゃんは今、何も言えないよね。今までのやり方じゃ、壊れるもんね。あっきーも、混乱中って顔してるよ。ま、あんな大胆なことしちゃったからね。鈴蘭ちゃん、ごめんね。めっちゃ苦しい思いさせた。休戦宣言を信用しろってのは酷かな?」
逆だと思った。わたしが相手を信用することより、みんながわたしを信用することのほうが難しい。
「長江先輩、ハッキリ言ってください。簡単な消去法でしょう? わたしが排除されれば……」
わたしが認めてしまえばいい。わたしが殺されれば、それでおしまい。病んだ一枝は、もとどおりになるはず。
長江先輩が海牙さんを見た。海牙さんは肩をすくめた。長江先輩が、ふぅっと息をつく。
「んじゃ、ハッキリ言うけど、人を殺すのはイヤだ。おれは未遂だけど、それでも十分にイヤだった。刺した瞬間の手応えとか、朱獣珠の拒絶反応とか、二度と味わいたくないね」
長江先輩の言葉に、同意する声がある。声なき声の波動。朱獣珠、玄獣珠、そして青獣珠。命の消滅に関与した宝珠たちが、その記憶を忌み嫌っている。
煥先輩が、わたしのほうを向かずに告げた。
「前にも言ったはずだ。あんたの覚悟ひとつだろ? 違反者かそうでないか、あんたが自分で必要だと思うとき、試してみりゃいい」
「わたしが違反者なんでしょう? 覚悟を決めるときっていうのは……死んでいいと思えるとき、でしょう? そんなの、わたし、やっぱり……」
煥先輩は小さくかぶりを振った。
「たぶん違う」
「どうして?」
「直感」
煥先輩は言葉が足りない。何を考えているのか、本当にわからない。
「直感って、それだけじゃ説明になってません。だいたい、煥先輩はさっきも……さっきっていうか、今日の夜っていうか、どうしてわたしの傷を治そうとしたんですか? 放っておいてくれれば、ハッキリしたのに」
「できるか、バカ。何分間あの状態で見てろって? その光景に耐えられる人間がいるかよ? 反射的に、どうにかしようと思うもんだろ?」
横目でにらまれる。真剣な怒りに、金色がキラキラしている。
長江先輩が、手に持ったままのスマホを振った。
「とりあえず、連絡先、交換しない? この先どんなふうに進むとしても、フツーに連絡とれるほうが便利でしょ?」
そういえば、わたし、煥先輩の連絡先すら知らない。
煥先輩と海牙さんがスマホを取り出した。二人とも休戦に同意ってことだ。
わたしもポーチからケータイを出した。三日月ストラップがゆらゆら揺れるケータイに、三人の視線が集中する。
「珍しい型を使ってるんですね。お年寄り向けですか?」
「ち、違いますっ。一応普通の、全年齢向けのタイプ……だと、思います」
「不便じゃねぇのか?」
「スマホ使ったことないからわかりません。でも、わたし、ネット経由で音楽を聴いたり動画を観たりしたことないし、電話とメールができれば人と通信できるし、気になった情報をちょっとだけ調べたりブログを見たりするのは、この型でもできますし」
「あ~、了解。ま、確かに意外とどーにでもなるよね~。おれもこないだまで国外にいてさ、プリペイドのしょぼいケータイ使ってた時期があったんだけど。んじゃあ、鈴蘭ちゃんのデバイスに合わせて、連絡はSNSじゃなくて、メール使おっか」
「た、助かります」
スマホの画面にメールアドレスのQRコードを表示してもらって、わたしが読み取る。わたしの連絡先を入れたメールを三人に一斉送信する。ほとんどタイムラグなしで、三台のスマホがメールを受信した。
煥先輩の指先がビクッと震えて、固まった。全員がその動きに気付くくらい、明白に。
「えっと、煥先輩、どうかしました?」
「ブルームーンじゃ、ないのか……」
「え?」
「いや……その、ほかに、アドレスは?」
「わたしはこれだけですよ。恥ずかしいんですけど、機械の操作は本当に苦手で、スマホもパソコンも全然うまく使えなくて、子どものころに祖母から叩き込んでもらったメールとアドレス帳の使い方しかわかってないんです」
「そうか。なら、別にいい」
煥先輩は下唇を噛み締めた。
その唇はすごく柔らかかった。傷が付くようなことをしてほしくない。
「あっ……」
思い出してしまった。煥先輩とキスをしたこと。抱きしめられたこと。煥先輩が口移しで痛みを受け取ってくれたから、わたしが救われたこと。
自分が信じられない。ファーストキスという大事件を、状況が状況とはいえ、今まで忘れていたなんて。
空気の温度が急に上がったように感じた。ドキドキして顔が熱い。わたしはさりげなく煥先輩から離れた。
長江先輩が海牙さんの肩に手を載せた。
「腹、減ってないかい? どっかに何か食べに行こうよ」
「ええ、まあ、そうですね」
「海ちゃんは人一倍、運動量があるんだから、きちんと補給しなきゃ倒れるよ。さ~、行こう行こう! ってことで、じゃ~ね、お二人さん」
長江先輩が海牙さんを連れて屋上から出ていった。ドアが閉まる。煥先輩と二人きりにされた。胸の鼓動が、ありえないくらい速くなる。
わたしはあせりながら、まだ言えずにいたお礼を口にした。
「あ、煥先輩、た、助けていただいて、ありがとうございました」
沈黙。風の音。
わたしは審判を待つ気持ちで、そっと煥先輩を見上げた。煥先輩は考え込むような様子で、大きな手で口元を隠していた。
「あの未来は、起こらない」
手のひら越しに転がされた言葉は平坦だった。銀髪の間からのぞく肌は、少しも赤くなっていない。
「どういう意味ですか?」
「理仁も海牙も、もう誰も刺す気がない。だから、今日の夜、あんたは公園で刺されない。おれがあんたの傷を癒やすという一枝は消えた。最初から存在しないことになったんだ。だから、ノーカウントだろ」
わたしは冷水を浴びせられた気分になる。胸のドキドキが急速に引いていく。
「ノーカウント……」
煥先輩は両手をポケットに突っ込んで、校舎に続くドアへと歩き出した。その背中が、感情のこもらない言葉をわたしへと放り投げる。
「キスは、しないんだ。オレが相手じゃなくて、よかったな」
「え……あ、煥先輩、待って」
「あんたは、兄貴みてぇなのが好きなんだろ?」
ちょっと待って、煥先輩。
違う。誤解です。確かに、わたしは文徳先輩のことが好きだった。でも煥先輩、今は違うんです。
わたしの命を救ってくれたのは、あなたです。必死で痛みに耐えてくれたのは、あなたです。わたしの心を揺さぶったのは、あなたです。
抱きしめてくれた腕。触れていた唇。見つめてくれたまなざし。全部全部、わたしは覚えている。ノーカウントだなんて言いたくない。
「煥先輩、わたしは……っ」
ドアを開けた煥先輩が、振り返りもせずにドアの向こうに消えた。ドアが閉まった。
心に穴が開いた気がした。
***
昼休み終了のチャイムが鳴った。いつの間に、そんなに経っていたんだろう? わたしは屋上で立ち尽くしたままだった。涙も出てこない。
今のわたしの心の中でいちばん大きな存在が誰なのか、ハッキリしている。
最初に四月十五日が始まったとき、わたしは文徳先輩に恋をしていた。いつ変わったんだろう?
「煥先輩のことが好き……」
守ってくれる。どうしてわたしなんかを? 何度尋ねても、直感としか答えてくれない。つまり、無条件にわたしを信じてくれている。
わたし自身、わたしのことを信用できない。それなのに、煥先輩は。
だから、煥先輩は残酷なんだ。わたしの命を救ってくれた。そのせいで刺された。途方もない優しさと強さを目の前で見せられた。
でも、煥先輩。あなたは、わたしじゃなくても守ったんでしょう?
本館の階段を下り始めたところで、思いがけず呼び止められた。
「鈴蘭! どうしたの! なんか、ものすごくフラフラしてるよ?」
「小夜子……」
「授業、受けられる? 保健室に行ったほうがいいんじゃない?」
大丈夫、と言えたらいいけれど、さすがに全然、大丈夫なんかじゃない。わたしは小夜子から顔を背けた。今、小夜子と目を合わせるのはつらい。
ごめん、小夜子。わたしも同じだから。煥先輩のことが好きだから。
「保健室、行くね」
「一人で行ける?」
「うん、小夜子は教室に戻って」
放課後、ごめんね。小夜子を煥先輩に紹介できない。
襄陽学園に入学して初めて保健室に行った。保健室には、カウンセリング用の小部屋が併設されている。教室に行けない生徒が自習するための小部屋も、その隣にある。
わたしが今どんなふうに具合が悪いのか、何とも言えない。胃が痛いのは確かだった。睡眠不足で、食欲もない。巻き戻す一日は長すぎて、精神的にひどく疲れている。
幸いベッドが一つ空いていて、そこで休ませてもらうことになった。横になってみるけれど眠れるはずもなくて、涙がとめどなくあふれてきた。
煥先輩が好き。
誰よりもステキな声をしている。本当は繊細で純粋で優しい。笑顔を見せてくれない。強くて傷付きやすい心の持ち主だ。
天井がにじんでいる。
胸が、体の奥が、とても痛くて苦しい。胃が痛むのとは違う場所がギュッとよじれて、きしんでいる。
切ないって、こういうことなんだ。
ノーカウントだろ、と言った煥先輩の乾いた口調がリフレインしている。キスしたのに。覚えているのに。大切な瞬間だったのに。
自分の唇に触れてみる。キスをした証拠なんて何も残っていない。
未来の自分に訊いてみたい。わたしは宝珠に何を願うの? 月に願うのと同じことを? 恋を叶えたいって言うの? 誰との恋を叶えるの?
自分の願いが、もうわからない。ポーチに付けた、三日月のアミュレット。恋に効くはずのお守りは何も導いてくれない。
突然。
【お呼び出し申し上げま~す。鈴蘭ちゃ~ん、あっき~、今どこいるの? 教室にいないっぽいけど、校内にいる? いたら返事して~。ちょっと話し足りないんだよね。メールでも電話でも、待ってま~す】
頭の中に直接響いてくる、長江先輩の
わたしはポーチからケータイを出した。わたしも話し足りない。煥先輩に誤解されたままなのはつらい。
新規メール作成。宛先は、煥先輩と長江先輩と海牙さん。
〈鈴蘭です。保健室で休んでいます〉
それだけ書いて送信した。
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