Rabbit's Hole:兎の穴
魔法が溢れるこの世界の住人は、人と獣人族がいる。
獣人族というのは、その名が示す通り、獣ではあるが人のように二足歩行で服を着て、人のように生活をする種族のことである。
だが、全ての獣が人のように暮らしているわけではない。
例えば牛などの
鳥類も人のように話したりしない。
虫の場合はほんの一部が言葉を話したりするが、大半がただの虫だ。
だが、そういう獣人族に属さないただの動物たちは主に食料であって、動物園のようなものは存在しないし、ペットという認識もない。
飼われている場合は、家畜として、である。
***
深夜、息を切らせ、森の中を走る小さな影が一つ。
背後を振り返り、追手の姿や気配がないのを確認すると、ようやく立ち止まりその場で荒い呼吸を整える。
「ナニガ、起コッた……ナンで……なんで……?」
頭の中はパニックだった。
鬱蒼と茂る木々の隙間から月明りが僅かに差し込む。
その光を見上げた顔は、まだ幼い少女だった。
呼吸が整うと、少し冷静になった彼女は自分の両手を見た。
何が起こったのか理解しようと努めた。
眠っていたら子供のすすり泣く声で目が覚めた。
目を覚ますと、一層大粒の涙を流して何かを繰り返し言っていた。
ご飯の時間じゃなかったけど、子供が私にご飯を差し出したので食べた。
そうしたら、子供が何を話しているのか理解できた。
「ごめんね、ごめんねぇ」
謝っている。
なぜ?
「ドウシテ……アヤマルノ?」
そう聞いたら、子供はぴたりと泣き止み、驚いた顔で私を見つめた。
「話せるの?」
「ハナ、ハナセルヨ」
「すごい!」
そう喜んだのも束の間、遠くで子供を呼ぶ声がすると、子供の表情が強張る。
「……逃げて。僕が逃がしてあげる。ここにいたら食べられちゃうんだ」
子供を呼ぶ声が近づいて来る。
子供はしぃーっ、と人差し指を立て、もう一方の手で手招きをした。
「ここから逃げて。見つかっちゃダメだよ!」
何が起こってるのか理解できなかったけど、私は走って飛び出した。
その後を追って来る足音がした。
だから、一生懸命走った。
どこをどう走って森に辿り着いたのか、よく覚えていない。
夢中で走った。
でも、途中から走り方が変わったのは気づいた。
両手両足で地面を蹴っていたのに、足だけで走っていた。
月明りの下、今こうやって見つめると、自分の手じゃなかった。
あの子供と同じ手だった。
足も違ってた。
自分の体が自分のじゃなくなってた。
「ワタシ……どうしちゃったの……?」
声も言葉も私のじゃなかった。
そして、急に寒く感じた。
両腕で自分を抱きしめる。
その自分の動作に驚く。
こんな風に体を触れるなんて。
なんて、不思議な感覚。
再び空を見上げる。
月が雲に徐々に隠されていく。
逃げて来たけど、行く場所が分からない。
どうやって生きていけばいいか分からない。
どこに行けば食べ物があるのか、どこで眠ればいいのか。
私は急に寂しくなってその場にうずくまった。
あの子供のように、目から涙が零れた。
***
目を覚ますと、知らない場所にいた。
温かい。
あの子供と同じようなものを着せられ、布を掛けられていた。
ここはどこ?
「おや、目を覚ましたね? 温かいスープがあるんだけど、食べれるかい?」
優しそうな人がいた。
「ここはどこ? スープって何?」
「スープを知らないのかい? ここは私の家。あんたは素っ裸で森で倒れてたんだよ。今朝、旦那と一緒に薬草を摘みに行ってあんたを見つけたんだ。びっくりしたよ。何があったか言いたくなかったら無理には聞かないけど……家に帰りたいなら連れてってあげるよ」
「……家から逃げて来たの。逃げなきゃ食べられるって言われたから」
「食べる?」
その人は心底驚いた表情で私を見た。
それから、憐れむような目で私を見つめた。
「ちょっと待ってて。スープを持って来るから」
そう言って部屋に一人残された私は窓から外を見た。
初めて見る景色。
人がたくさん歩いていた。
人の言葉が分かる。
それからふと、窓ガラスに自分の顔が映っているのに気づいた。
人の顔をしていた。
やっぱり私は人になったんだ。
なんで急に……?
そう言えば、あの部屋にいた時、大きくなった子は部屋から連れ出されて戻って来なかった。
大きくなると、人になるから戻って来なかったのかな?
あ。
でも、食べられるって子供が言ってた。
人は私を食べるの?
でも、さっきの人は食べるって言ったら驚いてた。
「お待たせ。トマトのスープだよ。温まるから」
美味しそうな匂い。
でも何か……変な匂い。
「兎の肉も入ってるんだよ。じっくり煮込んであるから柔らかくて美味しいよ」
うさ……ぎ?
「兎を……食べるの?」
「あら。兎は嫌いかい?」
あ。
やっぱり食べるんだ。
「私も……食べるの?」
「あんたを食べたりしないよ。あんたは兎じゃないだろう? だから安心して食べな」
にっこりとその人は笑った。
逃げなきゃ。
兎だって分かったら食べられちゃう。
私はその人を突き飛ばして走った。
何か叫んでたけど、私は走った。
出口はどこ?
ドアが閉まっててどうやって開けるのか分からない。
「大丈夫。何もしやしないから。怖がらなくていいから」
嘘だ。
兎を食べるじゃない。
早く開いて、開いてっ!
ガチャガチャとノブを回したり叩いたりしていたら、偶然にも鍵が何かの拍子で開き、外へ出られた。
走って走って走って。
でもどこへ行けばいいの?
歩いてる人みんな、私を食べる。
怖い怖い怖いっ!
誰か助けてっ!
「いっ……たぁ……ちょっと、あんたっ!」
ぶつかったのは小さな子供だった。
お互いその場に転んだけど、すぐに起き上がってまた走り出そうとしたけど、服の裾を掴まれてしまった。
「人にぶつかっておいて謝りもせずに……って、ちょっと、それ魔法?」
その言葉に思わず立ち止まってしまった。
「マホウって……何?」
「魔法を知らないって一体どういう生活……」
言いかけてその子供は私を足から頭までゆっくりと見た。
「なるほど。ちょっと動かないでね」
そう言って片手で私の顔を拭くような動作をした。
「あなた、何か食べた?」
「いつものご飯だけ」
「本当に? こうなったのはいつ?」
「夜」
「いつの?」
「目を覚ます前」
私の答えに子供は大きな溜息を吐いた。
「ま、いいわ。その魔法、今すぐ解きたい? それとももう少しそのままでいたい?」
「分からない……」
「なぜ?」
「だって兎は食べられるんでしょう? あなたも食べるんでしょ?」
「私は肉は一切食べないわ。でも兎の足は魔法の材料になるけど、あなたの足をわざわざ切ったりしないから安心して」
「ほ、本当に……?」
「本当に。でもどちらにせよ、いずれその魔法は切れるわよ。もう少し人の姿を楽しみたいなら……そうねぇ……二、三日はそのままでいられると思うわ。ただ、魔法が解けるタイミングってものがあるから、気をつけることね。それとも、新たに別の魔法をかけるっていう方法もあるわ」
「別の魔法?」
「そ。兎が嫌なら永遠に別の姿にできるわよ。私は普段、魔法を解くのが専門だけど、特別にかける方もやってもいいわ」
兎じゃなくなる。
そうしたら食べられない。
誰も私を食べようとしない。
「誰にも食べられないようにしてくれる?」
「いいわ。とりあえず、うちにいらっしゃい。新しく魔法をかけるには今の魔法を解かないといけないしね。でも、まずはその恰好、どうにかしなくちゃね」
その子供は私が知ってる子供と違ってた。
人差し指を振ると、私の服が変わった。
その子供が着ているような布がたくさんひらひらふわふわした服に。
でも同じじゃない。
足も痛くなくなった。
足が何かに包まれた。
不思議。
こんな一瞬で変わる。
人っていいな。
人でいたいな。
この子と一緒にいたいな。
***
参ったわ。
街で偶然、魔法にかかった人に出会うのはたまにあることだし、動物や虫が人の姿に変えられて混乱してるのを見たこともある。
初めてじゃないけど、毎回悩む。
この間はゴキ……
アレが間違って人の姿に変えられて、その魔法を解いてくれって来たけど、大抵は元に戻りたくないって思うのよね。
理由はただ一つ。
元に戻れば人や獣人族に食べられるから。
でもそれって大抵、自然に生きてる動物じゃなくて、誰かの家畜が偶然魔法がかかって人になって逃げ出して来てるから、元に戻して飼い主に返すのが筋ってものだと思う。
でも、食べられるって分かってるのに、それってつまり殺されるって分かってるのに、元に戻すのはやっぱり辛い。
だから、わざわざうちに依頼に来るのは別として、こうしてたまたま出会った時は正規の依頼がなくても手助けしたくなるのよね。
私が菜食主義だから余計にそう思うのかもしれないけれど。
いつも思う。
どうするのが彼らにとって良いことなのか。
魔法はいろんなことができる。
けれど、どれが正しい答えなのか、そういう哲学的なことは教えてくれない。
そういうことを知る魔法もない。
魔法を解いて、兎に戻り、菜っ葉をもしゃもしゃと食べる彼女を見て、私は考える。
「ねぇ、本当に人として生きたい? 兎のまま草原で暮らしたい?」
魔法で現実から隔離された世界に閉じ込めることはできる。
そこでは誰にも食べられる心配はない。
それは幸せだろうか。
彼女に選んでもらう。
でも、その答えが正しかったかどうか。
その先を私はいつも知らない。
「人になりたい。一緒に暮らしたい」
それが彼女の答えだったけれど、私とは一緒に暮らせない。
私ができるのは、人に変え、菜食主義の家に彼女を迎えてもらう。
そのために、最適な家を探して家の人の記憶をちょっとだけいじる。
ただ、それだけ。
ただ……それだけ。
***
人になれた。
それは世界がとても変わったってこと。
いろんなことが一気に頭の中に入っていく。
餞別よ、と言って私の中に人としての知識を入れてもらった。
食べられないって素敵。
人にも兎を食べない人がいる。
彼女と一緒に暮らせないのは寂しいけれど、でも遊びに来ていいって言ってくれた。
とても幸せな気分になった。
でもね、私はその後知るんだ。
人として生きることは、兎として生きることよりずっと大変だってこと。
だからね、会いに行くの。
今度はね、黒い封筒、黒い便箋に白いインクで依頼を書いて。
彼女に、ジッパーに、解魔屋のジッパーに。
草原で兎として暮らしたいって。
そう依頼をしに。
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