My Dear Zipper, Zill:親愛なるジッパー、ジル
「……ジッパー」
誰かが呼んでいる。
「……ジッパー」
誰かが、優しい声で、懐かしい声で。
「ジル?」
懐かしい名にジッパーはゆっくりと目を開けた。
二、三度瞬く。
驚いて上体を起こしたその視界には。
「ヴェル……?」
銀の髪に氷のように青白い肌、深い紫の眼に黒いローブの懐かしい姿があった。
優しい笑顔で頷く彼に、ジッパーの目には思わず涙が溢れた。
「ずっとここで見ていた」
ヴェルダンテはそう言ってジッパーの隣に座り、彼女の頭を優しく撫で、その手は下へと移動して、ジッパーの涙を優しく拭った。
けれど、ジッパーの涙はさらに溢れる。
会えたなら言いたいことがたくさんあった。
それはジッパーもヴェルダンテも。
だが、お互い言葉にならず、しばらく見つめ合ったまま、無言で気持ちを伝え合っていた。
目を見れば、言葉にならない気持ちは、例え長く離れていても伝わることもある。
「……何が、起こったの?」
しばらくして、ようやく涙を拭ったジッパーはそれを訊くので精一杯だった。
「どこから話せばいいか……そうですね、まずは心を痛めていた二つの魔法について」
二つの魔法。
それはリュクスの名を名乗っていた彼女が、解魔屋を探すためにかけた魔法のことだ。
「結論から言うと、一つ目は残念ながらそのままですが、二つ目は彼女が街を離れるとすぐに効力を失って自然に解けました」
「じゃあ、街の人達は助かったのね?」
「残念ですが、彼女は街に一週間滞在していましたので、幼い命が少し奪われました。ですが、彼女は『水鏡』の魔法が解けた瞬間、寿命が尽きました」
「どういうこと? 一つ目の魔法の効果が残ってるはずでしょ?」
自己中心的で嫌な人ではあったが、それでも死んだと聞かされれば良い気持ちはしない。
「……私の魔法にはいろいろと安全装置のようなものが用意されているんです。特に禁術に値するものや高等なものほどね」
「発動しないように?」
「魔法によります。今回の場合は、彼女にではなく、ジッパー、キミに効果がいくように」
「わ……私に……?」
不意を突かれてジッパーは思わず胸を押さえた。
命を得た気はしない。そんな感覚はない。
だが、自分の中に人の命が流れている。
そう思うと自然と胸を押さえていた。
「本来なら私に効果があるはずだったのですが、私はこの通り、囚われの身でしたからね。私以外では私の弟子に。これはちょっと想定外でしたが、今回はこれで良かった、と思っています」
「どうして? 私はそんな人の命の犠牲の上になんか……っ」
「でも、もしこの魔法がなければ、キミはもう死んでいたんですよ?」
「覚悟の上よ! そうなるかもって考えたわ。長く生きてるのは魔法のせいだって。でも私は解魔師として生きてきたの。解魔屋は魔法を解くのが仕事よ。だから、自分の魔法も解くの。私には解けない魔法はない。その証明に」
真っ直ぐに見つめるジッパーに、ヴェルダンテは成長した弟子の姿を嬉しく思うと同時に、その決意を少し悲しく思った。
その複雑な感情が困ったような笑みとして、その顔に浮かぶ。
「……ジッパー、よく考えて。キミが死んでしまったら私はこのままだし、世界はキミのような凄腕の解魔師を失うし、そうしたら魔法に悩む人は増えるんですよ? キミは一人でもいつも真っ直ぐで前向きで、見違えるほど立派に成長して、私は本当に誇らしく思ってるんです。キミは自分で思っているよりもずっと、とても素敵に成長して……それに……」
そこでヴェルダンテはジッパーの頭を優しく撫でた。
ジッパーの目に再び涙が浮かんでいるのに気づいたからだ。
「それに。私はキミにいろいろと教えられましたし、何度も救われてきました。その恩返しをする時間を私に与えないつもりですか?」
ヴェルダンテの言葉にジッパーは俯く。
同時に涙が零れたが、ヴェルダンテが包み込むようにジッパーを抱きしめた。
ずっとヴェルダンテに再び会ったら何を話せばいいのか、どんな顔をすればいいのかと不安だった。
突然の別れから百年以上も会っていなかったのだ。
こんな風に再び優しい声で優しく抱きしめてくれるとは思っていなかった。
ジッパーが泣き止むまで、ヴェルダンテは黙ったまま、ただ優しく抱きしめて背中を撫でてくれていた。
その手は大きく温かく、百年という長い年月を埋めてくれるように優しかった。
「……落ち着きましたか?」
涙を拭き、そっと顔を上げると、ヴェルダンテの優しい顔があった。
そこでやっとジッパーは周囲を見回した。
何もない真っ白な空間だった。
「……ここは本の中ですよ。話を続けましょうか」
そうだ、まだ話の途中だった、とジッパーは我に返った。
溢れる感情を抑えきれずにいろいろと失態を晒してしまったわ、と急に恥ずかしくなる。
「何があったのか、順に話しましょうか。私の魔法には安全装置のようなものがある、と話しましたね? それは魔法書も同じです。悪用されないように、私以外が扱えないようにと魔法をかけています」
「私は使っていたわ」
「使うには私の許可がいるんですが、キミには許可をしています。無許可で使えば、使った魔法の反動が使った者にいくようにしています。それで、私を閉じ込めた男は死に、私の名を名乗った女も死にました。使った魔法が些細なものなら、そこまで大きな代償を払わずに済んだのですがね。禁術の類は命を奪うことになります」
「でも、それで私の魔法が解けたわ。それに、彼女の場合は禁術を三つ使ってるのよ?」
「普通なら魔法を使った時点で反動が来るんです。でも、彼女の場合は少々複雑で、男が足止めの魔法を彼女にかけた時、魔法書がそれに反応して自己防衛の魔法を発動し、それがその場にいた二人にかかったんです。本来の持ち主である私に禁術を使った男は安全装置の反動と自己防衛のダブルパンチに。持ち主を失った場合は私を救い出すために、ジッパー、キミを選んだんです。キミの時を止め、女の魔法を解くことでここに来られる許可が下りる仕組みです」
「……ちょ、ちょっと待って。本に訊いたら五つ魔法を解いたら私の魔法が解けるって……」
「五つ、という訳でもないんです。ただ、この魔法書に関わる魔法の事後処理が終わったら、という意味で。それに、私の本ですよ? 事細かに分かりやすく説明はしません」
その言葉にジッパーは思い返す。
知ってて話さなかったこともあったし、はっきり五つとも言わなかった。
星の数とは普通に考えれば無数だ。それを
よくよく考えれば、
「……確かにそうね。あなたの本だわ」
大きく頷くジッパーにヴェルダンテは苦笑する。
「それで? ここに来た後は? どうやって出るの?」
「そう、問題はそれだ。正確に言うと、キミの魔法はまだ完全には解けていません。ここを出た瞬間に全てが解けます」
その言葉にジッパーの表情が険しくなる。
「……それって……もし、彼女が私を探すために魔法を使っていなかったら、私はあなたを出すためだけに生かされてたってこと……?」
「そうならないために、彼女が魔法を……」
「でも彼女が使うかどうかはあなたにはっ……」
言いかけてジッパーはヴェルダンテの深い紫の瞳を見つめた。
「……『水鏡』の魔法……」
ジッパーは目を閉じ、胸に手を当てた。
そんなジッパーの様子を見、ヴェルダンテも目を伏せた。
「ずっと不思議だったの。彼女が解魔屋を探すために街を消したって言った時、消してしまったら元に戻せないのにって。次の街は迷路にしたのに、私の街は『眠り猫』の魔法。まるで最初の二つの街での目的は魔法を解く人を探すためじゃない、何か別の意図があるようだったわ。だから彼女が『水鏡』の魔法がかかったのは、あなたの意思なんじゃないかって……姿形だけじゃない。記憶も見れるんだと思ってたけど……違うのね?」
「……キミは自分のために絶対に他人を犠牲にはしないでしょう?」
「人じゃなくても良かったはずよ」
「森や動物だけではいずれ歪むんです。人の命を延ばすには人の命しかない。それが私が得た結論です」
「歪むってどういうこと?」
「人の心が失われていくんです」
「人の命を犠牲にできる時点で人の心なんて……」
「ヴェルダンテ以前、キミに出会うまでの私は本当に心が空っぽでした。でも、あの春の祭り以降、一人でいることが辛くなり、キミといると心が満たされたんです。穏やかにいられた。それは事実です。それまでの私の人生を垣間見たでしょう?」
「……でも、あなたは利己的だったけど自己中心的じゃなかったわ。魔法を追求する姿は狂気を帯びてたけど、でも人の心は残ってたわ。それに、長く生きることなんて私は望んでない」
「キミの目は優しい。いくら闇の底に堕ちた人間でも、キミの目には光が映る。だから、私はキミに本当に救われてきました。そんなキミを失いたくなかった。ただの私のエゴです」
「そんな告白、聞きたくなかったわ……」
「嫌われるのは覚悟の上です」
「……だから、魔法使いが嫌いなのよ。いつだって自分勝手だもの」
「そうですね……その自覚はあります。だからせめて、選択肢を一つ用意しました。ここから出るかここに留まるか」
「出て人の命で生きるか、それを拒否するならここに残れって? ホント、自分勝手ね」
「できれば出て一緒に生きて欲しいと思っています。残るならここをあなたがいた村へ変えることも可能です。ジルと呼ばれていた頃に」
思いもよらない申し出に、ジッパーは不快感を露にした。
「……そんなこと、今更望んでると思うの? 私のせいで消えたのよ? それに変えたところで本物じゃないのは分かってるわ。お人形ごっこなんて悪趣味だと思わないの? 馬鹿にしないで! 私は見た目は子供のままだけど、もう一二〇歳近いお婆ちゃんなのよ?」
烈火の如きジッパーの怒りに、ヴェルダンテもさすがにまずかったと反省した。
「……そうですよね。あなたはもう出会った頃の子供じゃない。百年の時が流れたことをつい失念していました」
そう、二人の間には約百年の時間の溝がある。
けれど、こうしているとお互いそのことを忘れそうになる。
特にヴェルダンテはずっとここに閉じ込められていた。
それはどんな百年だったのか、ジッパーには想像もつかない。
「……ヴェル、ここって……」
ここでどんな風に過ごしていたのか、それを訊きたかったがどう訊いていいか分からず、言いかけて止めてしまった。
だが、ヴェルダンテはそんなジッパーの言葉の先を感じ取った。
「時間の流れはほとんど感じません。今は魔法が解けかけているので、ただの真っ白な空間ですが、望めば宮殿でも森でも湖にでもなります。現実と切り離された別の空間ですから、ここで死ぬことはありません。ただ、本が燃やされるなど物理的に破壊されれば、この空間は消えてしまいますから、中にいる私も死ぬことになりますね。まぁ、この場合、死ぬというよりは消滅する、という方が正しいのですが」
「……そういえば、ずっと見ていたって言ってたけど、ここからでも外が見えるの?」
「ええ。本が開かれれば。ですが、例え叫んでも外には聞こえませんし、魔法も外へは影響しません。中と外ではそもそも空間が異なるので、互いに干渉も影響もしません。でも、見えるだけでも一時的に外と繋がった気がして、少しだけ気が紛れました」
「声も聞こえた?」
「いいえ。音は何も。見えるだけです」
「……あなたの記憶を見た時も? ゾルディアスの頃からずっと追体験したの。それで魔法を覚えたのよ?」
「それも本の中の別の空間です。
見ていた。
それはジッパーにとっては意外な事実だった。
ずっと一方的にヴェルダンテの人生を見ていたのだと思っていた。
追体験をしたと知ったら、怒られるような気がした。
自分の知らないところで自分の人生を見られるというのは、あまり良い気持ちはしない。
もし自分がされたら、と思うと、ジッパーなら怒り狂う。
だが、ヴェルダンテは怒るどころか、微笑ましいという風にジッパーを見つめた。
「……怒らないの?」
「怒る? 何をです?」
「追体験したことよ。一緒にいた時だって昔のことは話したがらなかったでしょ?」
「自分のことを話すのは苦手で……それにあまり訊かなかったでしょう?」
一度、ヴェルダンテがゾルディアスから続く伝説や御伽噺に出て来る偉大な魔法使い達であることを知って、興奮して矢継ぎ早に質問攻めをしたことがあった。
その時、ヴェルダンテが眉間に皺を寄せ、あまり話したがらなかったので、過去の話はしたくないのだと思い、それ以降はあまり聞かないよう遠慮していた。
だが、今になって思い返してみれば、誰だってあれこれ質問攻めにされれば、嫌な顔をして当然だと思う。
あの頃はまだ幼い子供で、まだ世界のほんの一部分しか知らず、魔法もほとんど知らなかった。
「でも、勝手に人の人生を覗き見するような真似されたら、普通怒らない?」
「私は普通の人でも並の魔法使いでもありませんよ? それに魔法使いは自己顕示欲の塊ですからね。どんな名の時でもどんな失敗も恥ずべきことでも、隠すつもりはありません。それに、追体験だって私の許可なくできませんし。ただ、残念に思うのは私が直接魔法を教えられなかったことですかね。できれば、弟子の成長をもっと間近で見守りたかった」
ヴェルダンテの目は終始優しく、温かい。
ずっと一人でこんな寂しい場所にいたのに。
それはまるで。
その目はまるで――――――――
「さて。つい長話をしてしまいましたが、そろそろ出るか出ないかを決めないといけません。魔法が解けかけている以上、出るならなるべく早く出ないといけませんし、出ないなら出ないように魔法をかけ直さねばいけません。いずれにせよ、ジッパー、キミを傷つけるつもりはありません。一応これでも魔法使いですからね、望みを叶えるために最善を尽くしましょう。気持ちは決まりましたか?」
「その前に一つだけ聞かせて。私の命はあとどれくらい残ってるの?」
「ここから出れば数ヶ月、ここに残るなら数年です。本来ならもう数百年残ってるはずですが、魔法を解く際に消耗してしまったようです」
どちらにせよ、残された時間は短い。
やっと会えたのに、という思いもある。
百年という時間は長い。
「ここから出るわ」
それは幼く純粋だった子供が強かに成長するには充分な時間であり、視界も広く深くなっていた。
人の命で生きる。
それは耐え難いことではある。
でも、その命を還すことができないならば、貰った命が尽きるまで大切に生きる方が貰った命に対しての礼儀であるように思ったからだ。
「ヴェル……あなたもここから出るのよね?」
見上げるジッパーにヴェルダンテはにこりと笑んだ。
「ずっと私を忘れずにいてくれてありがとう。救ってくれてありがとう。さあ、目を閉じて」
「ヴェル?」
「目を閉じて、ジル」
それはまるで呪文のように、ジッパーの目は意思に反して閉じてしまった。
瞼の向こうで強い光を感じ、体が熱くなる。
少し息苦しくもあった。
ヴェルダンテの名を叫びたいのに口は開かず、声にならなかった。
「できれば、弟子の成長をもっと間近で見守りたかった」
さっきのその言葉はなぜ過去形だったのか。
「ヴェル……あなたもここから出るのよね?」
なぜその問いに答えてくれなかったのか。
訊きたいことは他にもたくさんあるのに、熱さと息苦しさに意識は遠のいていった。
百年という時間は長い。
それは幼く純粋だった子供が強かに成長するには充分な時間であり、同時に偉大なる魔法使いには、独りで過去を振り返り、現在の状況を分析し、未来を考えるのにも充分な時間であった。
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