ジッパーと本

Dogged Determination:ゆるぎない決意

 夜が来て、室内にも闇が滑り込んで来る。

 まるで世界が闇の中に飲み込まれたように感じた。

 夜がこんなに深くて暗くて寂しいものだとは思わなかった。

 まるで初めて真夜中に目を覚ました小さな子供のように、夜の闇が怖いと感じた。


「星の数……なら、あと一つ。五芒星ペンタグラムは契約に用いられやすいから」

 ジッパーは本を胸に抱いたまま、床に足を投げ出して座り込んでいた。

 灯りもつけずにいたが、徐々に暗闇に慣れた目には見慣れた室内がぼんやりと映っている。

「男が死んだ時に一つ解けてて、『破魔はまの目』で一つ解けて、『眠り猫』の魔法でまた一つ、そして『水鏡』の魔法を解けば、残りはあと一つ……」

 男、というのは、魔法書を持って逃げ、ヴェルダンテを本に閉じ込めた男のことだ。

 男の名前も知らない。


 そして、彼女にかけられた魔法は『水鏡』の魔法と呼ばれるもので、姿と記憶を借りることができる魔法だ。

 性別が一致する場合に限るようだが、その人物に成りすますことが可能になる魔法で、いたずら用に思いついた魔法らしい。

 今回は性別が違うため、完全に成りすますことはできていないようだ。


 死んだ男がかけた魔法は攻撃的な魔法で、彼女が使った魔法は防御壁シールドだったがどちらも不完全で、その間にあった魔法書が二つの魔法を受け、自己防衛の魔法を発動。


 それは五つの契約という名の呪い。

 その一つが男に、もう一つが彼女に。


 男にかかったのは魔法書を使った瞬間に死が訪れるように、その死をもって五つ目の魔法にかかった者の呪いを一つ解く。

 恐らく『破魔の目』を持っていた魔法商店の店主は、魔法書を見たことがあったのだろう。

 その際知らないうちに『破魔の目』の魔法がかかっていたと思われる。

 騙されやすい店主だったから、誰かにかけられたのかもしれない。

 もしかすると、彼女か彼女の父親にでも。

 彼女がジッパーの街に『眠り猫』の魔法をかけたのは、魔法書の影響、つまり『水鏡』の魔法の影響だろう。


 彼女の話を聞き、本からリュクスの魔法が漏れて、それが誰かに感染するように魔法がかかっているのかと思ったが、それは少し違っていた。

 魔法書の自己防衛が働いた結果が招いたことと考えた方が自然だ。

 仮に本から漏れた魔法が感染したのなら、彼女だけに限定されているのは不自然だからだ。


 これで全てが一本に繋がった。


 ずっと探し続けていた魔法を解く方法。

 あの秋の祭りの前からすでにそれは始まっていて、ヴェルダンテもジッパーもそれに巻き込まれただけだ。


「あの人、本当に迷惑ね……」

 でも、とジッパーは思う。

 もし、あの時こんな魔法にかからなければ、今どうしていただろう?

 ヴェルダンテは別の名になってて、ジッパーもまた別の名を得ていただろうか。

 解魔屋なんてしてなかっただろうし、今もずっとヴェルダンテと二人、魔法を追及する旅を続けていただろうか。

 それとも街を離れて森の奥深くに閉じこもって研究三昧の日々だっただろうか。


 ヴェルダンテとどんな会話をいていただろう?

 それに、今まで魔法を解いて来た客はどうなっていただろう?


 いろんな想いが込み上げて来て、ジッパーはその場を動けずにいた。

 彼女の魔法を解く方法は既に分かっている。

 そう難しいことではない。

 だが、それを解けば残りは一つ。

 その一つを解く方法もなんとなく見当がついていた。

 それが解ければ、ジッパーの成長しない魔法は解ける。


 そして。


 ヴェルダンテを本から救い出せる。


 そう思うと、急に迷いが生じた。

 ずっとこの日を夢見て来たのに。

 この日のために魔法を覚え、あらゆる魔法書を読み漁っていた。

 ヴェルダンテの過去も追体験した。

 だから、実際にヴェルダンテと過ごした時間は短いけれど、ヴェルダンテのことをたくさん知っているし、本相手にもいろいろ話していた。


 だから。

 本物のヴェルダンテが今のジッパーを見たら何て言うだろう?


 それを思うと、会いたいと思っていたのに会うのが怖くなる。


「ヴェル……そこにいるの……?」


 答えがないのは分かっている。

 それでも訊いてみたのは、自分のためだった。


 本の中にいる。

 そう思っていた。

 吸い込まれるように消えたから、閉じ込められた、と思っていた。

 でも、そうだという証拠も確信も今はない。

 ずっとヴェルダンテの声音で、口調で、話していた相手はただの本で、本物ではない。

 それは初めから知っていたが、本の中にいるであろうヴェルダンテがどういう状況か想像したことがなかった。

 とても長い間、一度もそんなこと想像しなかった。


 やはり自分も自己中心的な魔法使いなのだ、とジッパーは自嘲する。


 ヴェルダンテのことばかり考えていたようで、実は深くは考えていなかったのかもしれない。

 大人の女性を見て、何度も羨ましいと思った。

 心は成長するのに、身体は成長しない。

 いつまでも若くいられるというのは良いことだけれど、子供であるというのは商売をするにしても、何かにつけて不都合が生じることが多い。

 それに、もっと大人びた服装がしたい、とも思う。


 人はいつも何かが欠けていて、欠けた部分を補うことに必死だ。

 魔法を解いて大人になれたとしても、きっとそれで終わりじゃない。


 そこでふと、ジッパーは本当に? と自問する。

 魔法は万能ではない。

 手品に近い。

 何でも可能なように見えて、限界はあるし、制限もある。


 この魔法が解けたら、どうなるのだろう。


 それはいつも頭の片隅で考えていた。

 本当なら人の命はこんなにも長くはない。

 ずっと子供のまま百年以上生きてきた。

 とっくに終わっている命だ。


 ヴェルダンテの場合、人の命を犠牲にして自分の命を永らえている。

 ジッパーと出会った春の祭りの時、あれは実験だった。

 最初の魔法使いに倣って、森を一つ消し去ることで約五十年寿命を延ばし、若さを保っていた。

 だが、人の命だったなら? とずっと考えていたことをヴェルダンテはジッパーの村で試したのだ。


 全ての魂は何であれ平等だ、というのは倫理的、道徳的な観点からの意見である。

 だが、魔法ではそうは考えない。

 人と動物、植物はそもそもの構造が違う。

 故に平等ではない。

 人も長く生きる人もいれば、生まれてすぐに死ぬ人もいる。

 そういう事実からヴェルダンテは植物よりも動物、動物よりも人、と考えた。

 人の命に一番近いのは当然ながら人である。

 だから、人の方が効率が良いと考えた。


 結果は数百年も違った。

 木の方が人よりも長く存在しているが、構造が違うのだ。

 だから、人に当て嵌めるとその魂の全てを綺麗に取り込むことができなかった。

 動物も同様で、植物よりも人に近いが、やはり魂を全て取り込むということはできなかった。

 だが、人は全てを綺麗にほぼ完璧に近い状態で取り込むことができた。


 この魔法は古い魔法で、当然ながら禁術に指定されている。

 今では使える人もいない。

 恐らく現在仕えるのはヴェルダンテだけだろう。

 そのヴェルダンテが最初で最後に使ったのが、約百年前の春の祭り。

 だから、ヴェルダンテにはまだ寿命が充分残っている。


 だが、ジッパーは?

 春の祭りの時に側にいたが、その魔法がジッパーにかかっているとは思えない。

 なぜならその後背が少しだが伸びている。

 あの魔法は成長を止める。


 だから、今のこの魔法が解けたら?


 弱くなっていく本。

 それは、閉じ込めている力が弱くなって、ヴェルダンテが出て来るか、閉じ込められたまま消えてしまうのか、と懸念していた。

 でも、違うとしたら?


 考えれば考えるほど、悪い方へと考えが及ぶ。

 誰か相談できる人が側にいてくれたなら。

 誰か頼れる人が側にいてくれたなら。


 どうするのが正しい?

 魔法を解いたらどうなるの?


 誰かに答えて欲しかった。


「ヴェル……」


 先程から何度もその名を呟く。

 まるで魔法の呪文のように。


 どれだけそうしていたのか。


 部屋の中の闇が徐々に薄れ始め、顔を上げると窓から光が射し込み始めていた。

 静かに夜の闇が消え去ってゆく。


 もう夜が明けるのか。


 膝に本を乗せ、両手で頬を叩く。

 頬を伝った涙は既に乾いていた。

 再び本を胸に抱いて立ち上がる。


「ぐだぐだ悩むのは私らしくないわね。私は解魔屋だもの。魔法を解くのが仕事なのに、魔法を解かないってあり得ないわ。でしょ?」

 誰にともなくそう問いかけ、自身を奮い立たせる。

「正規の依頼じゃないけど、契約を交わした以上やり遂げなきゃ。私に解けない魔法はない、それが売り文句だしね」

 ようやくそこで笑顔になる。


「『水鏡』の魔法、解いてやろうじゃないさ!」


 そう言ってジッパーはキッチンへ移動する。

 テーブルの上に本を開いて、水を張った木製の深皿を用意する。

 棚からガラス瓶を幾つか取り出し、深皿の側に置くと、瓶の中の粉や液体を順に皿に振りかけたり注いだりした。

 そして、目を閉じて水の上に両手を翳し、呪文を唱える。

 すると水面に波紋が生じ、中央から水が龍の形へと変化し、まずは頭が、そしてそこからとぐろを巻くように体が持ち上がる。

 ゆっくりと回転しながら現れた水の龍は、全身が皿から抜け出すと天井をすり抜けて出て行った。

 その行き先は彼女の所だ。


 リュクスの名を名乗る彼女はその時、街の宿屋にいた。

 水の龍は二階の角部屋の閉じた窓をすり抜け、まだベッドの上で眠っていた彼女の胸に、貫くような勢いで飛び込んだ。

 その瞬間、彼女は突然の痛みと苦しみで大きく目を見開き、大きく開いた口から漏れるはずの悲鳴は声にならなかった。

 そして、深い紫の眼は青く、銀の髪は栗毛に、氷のように青白い肌は褐色に変わると、再び眠りについた。

 その眠りは深い深い永遠の眠りだった。


 そして、彼女の魔法が解けた瞬間、ジッパーも自分の中で魔法が解けるのを感じた。

 同時に彼女につけられた胸の刻印も消えた。


「これであと一つ」


 呟いて本を閉じ、表紙の上に右手を置く。


「覚悟はできてるわ」

 いつになく真剣な表情で言うと、右手に力を込めた。

 そこから青い光の粒が無数に溢れ出し、ジッパーを包むと一際強く光を放った。

 そしてその光が消えると、ジッパーの姿は跡形もなくその場から消えていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る