第14話 バルベーラの憂鬱(後編)


 うず高く積まれた砂糖菓子と、口当たりの良い果実酒。

 献上品からかっぱらってきた品々を卓上に並べ、友枝はグラスに並々と酒を注ぐ。


「それじゃあ、第一回・女子会INレディコルカ、はじまりはじまり~」


 上機嫌でぱちぱちと手を叩くが、卓を囲むキヌとバルベーラは困惑を隠せない。


「それで友枝さま、ジョシカイという催しは、一体何を致すものでしょう?」

「何でもいいよ~ 女の子だけで適当に美味しいもの食べたり、男子がいる時には出来ないような話をしたり。適当にゆる~くガールズトークを楽しもうよ」


 友枝の言葉に反して、カチコチと肩を強ばらせるバルベーラ。

 護衛として側に寄れ、と言われたのなら全力で尽くせよう。しかし、歓談に加われと言われてしまい、バルベーラはキヌに視線で助けを乞うばかり。

 一方、キヌはエルフの異能で、友枝の感情の概ねを察していた。友枝とて、城内に厳然と存在する身分と格式の差は身を以て思い知っている。その上で、敢えてそれを破ろうとしているのだ。

 彼女にとって、尽くされるばかりの現状は、余りに窮屈で息が詰まるものらしい。

 ――だが、この女子会の企図は、友枝のストレス解消のみでは無い。それ以上に強く抱いているのは、キヌとバルベーラへの掛け値なしの純粋な好意。 

 くすぐったいような思いで、キヌはそれを受け取った。

 困惑と恐縮に身を強ばらせているバルベーラにも、きっと友枝の気持ちが届くと信じて。

 

「ほらほら、バルベーラさんも飲もう! いつも男の人ばかりのお仕事に女の子一人で混じって大変でしょ? 飲んで本音を吐き出しちゃえ♪」


 ぐいぐいと、押し付けられたグラスを満たす薄桃色に、舐めるように唇をつける。

 無礼講の晩に正義に飲まされた蒸留酒のような、暴力的な酒精は無い。

 果汁のような口あたりに、バルベーラは少しだけ安堵する。

 

 ――正直に言えば、親しげな友人のように語りかけてくる友枝のことが、バルベーラは少しだけ苦手だった。

 友枝は、不思議な少女だった。気を抜けば、職務遂行の意志で固めあげた感情の鎧の隙間をするりするりと潜りぬけ、バルベーラの警戒心を解いていく。

 私情を挟まず節度を以て尽くそうと、己の心を厚い殻で覆っている彼女にとって、それは非常に居心地が悪いものだった。


「――それでさ、マサ兄って男一人暮らしだった癖に、掃除とか洗濯とかマメに欠かさなくて、いつ行っても部屋が綺麗なの。

 そりゃあ、だらしが無いよりずっといいけどさ、あんまり几帳面過ぎる男ってのも気持ちが悪いよね~、そう思わない、バルベーラさん」


 困ったもんだよね、と友枝は大袈裟に頭を振って見せる。

 酒席の歓談が進むにつれ、いつの間にか友枝による正義の昔語が始まっていた。

 キヌもバルベーラも興味津々と耳を傾ける。

 バルベーラは井戸端会議に花を咲かせる女達を、自分には関わりの無い生き方として眇めに蔑み剣士の道を歩んできた。

 それが今、主君からの上意と酒精をエクスキューズとして、バルベーラは己に許さぬ筈の無駄話に意気揚々と嘴を挟んでいる。


「なんと、正義様は、信次郎様とそのようにお過ごしになっていたのですか。従者のお一人も無く、片田舎で不自由な暮らしをなさっていたなんて、信じられません」

「だから、あっちじゃ私達は唯の一般人なんだってば」


 友枝は苦笑する。

 片田舎だったし、不自由もあった。だが、今となっては、涙が出そうな程に懐かしい日々。


「マサ兄はあの性格だからねえ。何度か彼女がいたこともあったみたいだけど、全部彼女の方から振られたみたいだよ。やっぱり、どう考えてもモテる性格じゃないよね」

「彼女って、あの、恋人のことですか……?」


 キヌは一瞬、言葉に不慣れな友枝が、何か違う単語と間違えたのではないかと考えた。


「そうだよ~、彼女。初めて彼女が出来たのが大学時代で、それから私の知ってるだけで、三人ぐらいとはお付き合いしてたかなあ?」

「……義太郎様は、生前、恋人の巴様を一心に想われ、家臣達の持ちかける良家の子女との縁談も一顧だにしませんでした。正義さまは、義太郎様と違って、女性への情け多きお方なのですね」

「う~ん……」


 友枝は、キヌの問いに首を捻る。


「その言い方だと、マサ兄が義太郎さんと違ってプレイボーイみたいに聞こえるなあ。

 キヌさん達も知ってると思うけど、マサ兄は自分から積極的にナンパするようなタイプじゃないし、誰かと付き合ってる間は絶対に浮気するようなタイプじゃないよ」

「それは勿論、重々存じております!」

「そうだね、じゃあ、私がマサ兄の別れ話を目撃した時の話でもしようか」



  ◆◆◆


 3年前、友枝がまだ14歳の中学生だった頃の話である。

 とある休日。

 その日曜が正義のデートの日であることを、友枝は幼いながらも鋭い女の嗅覚で、敏感に嗅ぎつけていた。

 普段は使い古しの作務衣や、ランニングのTシャツのような見栄の欠片も無い格好で休日を過ごす正義。

 その彼が、下したてのシャツにシルクのニットタイを合わせ、カジュアルなジャケットを羽織った小洒落た格好で磨き上げた愛車のハリアーに乗り込めば、誰でもデートと勘付こうというものだ。 

 しかし友枝は、正義に漂う見知らぬ女の匂いを察知し、念入りに今日という日を待ち構えていたのだ。

 夕飯のお裾分けという名目で切畠家を訪れ、本棚を漁るという名目で正義の部屋を詮索し、レストランに付箋の貼られた地域雑誌や、コーディネートを鏡の前で試す正義の様子などをつぶさに観察して、日取りやデートコースを予測し、バスで先回りして待ち構えていたのである。

 ストーカー顔負けの根性。

 100円均一のサングラスで顔を隠し、マックシェイクを啜りながら、待つこと2時間。

 果たして、正義は女と共に現れた。

 マニッシュなパンツルックに身を包んだ、美しい女性だった。スレンダーでありながら女性的な体つき。挑発的なアイラインのメイクと、赤いルージュが目を惹いた。

 女性にしては長身の部類に入るが、その背丈を、踵の高いハイヒールで更に上乗せしている。きっと正義の隣を歩くためだと、友枝は直感した。

 プライドの高そうな、怜悧な顔立ち。まだ14歳の友枝には手の届かない女性的な大人の魅力に溢れていて、友枝は彼女のことが一目で嫌いになった。

 彼女がごく自然な動作で、正義の腕に自分の腕を絡ませるのを目の当たりにして、その嫌悪は一層強まった。

 二人は、正義が雑誌に○印をつけた店に連れ立って入って行った。

 その店の一番安いコースですら手の届かない中学生の友枝は、潰れかけたハンバーガーをベンチで齧りながら、二人が出てくるのを待った。


 幸いだったのが、二人のデートがショッピング中心だったことである。

 正義のハリアーで遠くに向かわれれば、バスと電車しか交通手段の無い友枝では、到底尾行など叶わなかっただろう。

 友枝はやすりにかけられるように己の心を磨り減らしながら、丸一日、正義と彼女――ヨウコさんという名を知った――の仲睦まじい姿を追い続けた。

 最後に辿りついたのは、陽も暮れかけた海浜公園。

 噴水のイルミネーションも見事な、「いかにも」典型的なデートコースの締め括り。

 手垢のついたありきたりの道筋だが、それが逆に正義らしくもあった。

 ここから先の正義の予定は、友枝も知らない。

 ――二人が、このままラブホテルにでも入って行ったらどうしよう。

 ネガティブな予想が頭を過ぎるが、それは大人のデートコースの締め括りとして十分に有り得るものだった。

 正義と、ヨウコさん。二人の立ち振る舞いは14歳の友枝にとって、羨ましい程の大人のそれであり、こそこそとストーカーの真似事をする己が、どこまでも唯の子供でしかないことを痛感するばかり。

 尾行なんてするんじゃなかった。惨めな思いをするだけだった。

 変装用のサングラスの下の瞳が、涙で潤む。

 そんな時、信じられない言葉が友枝の耳に飛び込んだ。


「あれからよく考えたんだけど――やっぱり、別れましょう。私達」


 正義は、暫しの沈黙のあと、ゆっくり、「そうか」とだけ答えた。

 友枝にとっては余りに唐突なヨウコさんの言葉だったが、二人の間では既に十分に煮詰まっている話のようであった。


「貴方が私を愛してくれているのは分かるし、私も貴方の事は愛してる。

 ごめんなさい、これは私の我儘ね。

 私は耐えられないのよ。自分が貴方にとって、何の役にも立たない人間であることが」

「そんなことは――」


 ヨウコさんは、正義の言葉を遮るように続ける。


「貴方は、私の事を可愛がってくれるけど、本心から必要としてるわけじゃない。

 貴方は、強すぎるのよ。

 もし見知らぬ異国や無人島に独り流れ着いたとしても、貴方は平気でやっていけるような人。

 私なんていなくても――きっと、何が無くなっても、自分さえいれば、平気なんだわ。

 可笑しいわね。貴方の隣なら、私は私らしくあれると思ったのに、自分が惨めになるばかり。

 正義さん、貴方は強すぎるけど――」


 ――そんな、強い貴方が好きだったな。


 ヨウコさんは、そう言って、正義のネクタイを摑んで引き寄せ、強引に唇を奪った。

 鮮やかな、一瞬のキス。

 名残惜しげに唇が離れ、ネクタイを摑んでいた薄紅色のネイル輝く指が、逞しい胸板を撫でながら滑り落ちた。

 ヨウコさんは、颯爽と踵を返し、一言も残さず平然と歩き去った。海浜公園の夜闇の向こうに薄れゆくハイヒールの音を、今でも友枝は印象深く覚えている。


 正義はヨウコさんが去っていくのを、最後まで見つめていた。

 その瞳が孕んでいた感情を、友枝は今でも形容しきれずにいる。

 

 ヨウコさんの後姿が完全に闇に溶けるまで見送ると、正義は素早く視線を友枝の張り付いたベンチに走らせた。


「おい、出歯亀娘。人が振られる所を見た感想はどうだ?

 まったく、折角の休日なんだから、もっと有意義な使い方をすればいいのに」


 やれやれ、と首を振る正義は、友枝の知る今まで通りの正義の姿で。

 安堵するより、なんだかその事が悲しかった。


「マサ兄、口紅、ついてるから」


 友枝は、ぶっきらぼうに言い捨てた。

 正義の下唇には、ヨウコさんの残した紅の跡。

 ポケットからハンカチを取り出し、ぐりぐりと乱暴に正義の唇を拭う。お気に入りの品だったけど、そのまま丸めて道端のゴミ箱に叩き込んだ。

 頭の中は、今の出来事と、尾行がバレていた気恥かしさでぐちゃぐちゃだった。

 正義は苦笑して、大きな手掌たなそこで子供をあやすように友枝の頭を撫でた。


「少し腹ぁ減ったな。上品な料理は腹が落ち着かない。お前も一日中探偵の真似事して腹減っただろ。飯に連れてってやるよ。

 やっぱり友枝はラーメンか何かがいいか?」

「……カレーがいい」


 聞き返す正義に、友枝は再びぶっきらぼうに答える。


「カレー? また、変わった趣向だな?」

「うん、今日はカレーがいい」


 とんでもない激辛のカレーを注文して、あの女の唇の感触なんて忘れさせてやる。

 14歳の友枝は、そんな本心を口には出さずに、正義の腕を掴んでデートスポットの海浜公園を歩く。

 それはまだ、友枝と正義の身長が今よりずっとずっと離れていた頃の話。

 仮令ネクタイを両手で引っ張っても、その頃の友枝に正義の唇は届きそうになかった。


  ◆◆◆


「その女、許せません! 彼女が口にした別れの口実は、全部自分本位で身勝手な理由ではないですか!

 たとえ一時たりと、正義様がそんな女に煩わされたなんて、なんて御痛ましいことでしょう!」


 憤慨したバルベーラが卓を叩き、砂糖菓子のバスケットが跳ねた。

 その頬は微かに赤く、目尻は緩みかけている。酒精と友枝の昔語が、殻を剥くように彼女の地を曝け出していく。


「まあまあ。それも昔の話だから」


 友枝は柔らかく宥めるが、ヨウコさんの言い分はあんまりにも自分勝手な暴論だと、その時は友枝も随分と憤慨したものである。

 しかし、今の友枝には、あの時のヨウコさんの気持ちが分かる気がするのだ。

 自分が暮らしているのは、日差しを遮り、時折果実を落としてくれる立派な大樹の下。

 だが、自分がその大樹に返すものが何一つ無いと気付いた時、それでもぬくぬくと暮らしていくことが出来るだろうか?

 きっと、ヨウコさんはプライドの凄く高い女性だったのだろう。ヨウコさんは、正義と付き合うことで、何か自分の価値を見つけようとしていたのだろうか?

 ――友枝は、時々そんなことをぼんやりと考えてる。

 

「それに、マサ兄が滅多なことじゃ人に頼らないのはヨウコさんの言う通りだから。

 だから、私はキヌさんが凄く羨ましい。マサ兄があんなに誰かを頼っている所、初めて見た」


 友枝は瞳を弓にしてキヌに微笑みかけた。

 キヌは、一瞬、友枝の笑顔に返答に詰まった。

 人はエルフとは違い、その表情と内心を便利に使い分ける生き物である。

 友枝もその例に漏れず、17歳の少女の顔の下では大人顔負けの思索を巡らせている。

 それでいて、突如として何の衒い無く、素直な赤心を晒してくるのだ。

 

「正義さまは、私を決して私を恃んで下さっているわけではありません。

 確かに、言葉の件や諸大臣への折衝など、微力ながら私がお力沿えをしたこともありました。

 ですが、それは私が適任でしたから、私に任されただけのこと。

 友枝さまの仰る通り、あの方は、簡単に誰かに御心をお預けにはなりません」

「そっか、キヌさんでもそうなのか~」


 お手上げと言うように諸手を上げて、友枝は柔らかいクッションに背中を沈めた。


「それでも、私は絶対にマサ兄に頼られるような人間になるんだ。

 お願いだから助けて、ってマサ兄が泣きついてくるような大人になってやる。

 ――そうじゃないと、マサ兄を好きになった甲斐が無いじゃん」


 バルベーラは、友枝の告白に、心臓を揺さぶられるような衝撃を受けた。

 伸びた背筋。揺らぎながらも、真っ直ぐに先を見つめる瞳。

 友枝の健やかな強さこそ、虚勢と意地で己を支えてきた自分には得られないものだった。

 

 バルベーラは、友枝の正義への恋心の吐露に驚愕していたが、キヌにとっては、そんなバルベーラの驚愕こそが驚きだった。

 エルフの彼女にとっては、分かり易過ぎる程の友枝の慕情。

 それすら気付けないとは、ヒトとは何と不便な生き物なのだろう。

 この数ヶ月、正義達と過ごしてすっかり忘れていた、種族の間にある隔絶を改めて思い出し、胸にほんの僅かな痛みを覚えた。


「マサ兄ってさ、人を褒める時に、よく頭を撫でるんだよね。

 大抵の子とは凄い身長差があるから、頭に手を乗っけ易いんだろうけど――。

 マサ兄が誰かの頭を撫でる時って、大抵その相手を子供扱いしてる時だから。

 何かが上手く行っても、それでマサ兄に頭を撫でられてる間は、私はまだ子供なんだと思う」


 キヌは、その金髪をくしけずるように撫でた正義の掌の感触を思い出した。

 確かに、あの時の正義の感情は、同じ目線の恋愛対象と対峙する時のそれではない。

 義太郎がキヌに向けていたのと同じ、庇護する相手に対する、慈愛の感情だった。

 それだけでも、キヌにとっては十分過ぎるほど幸せなことだったけれど――。

  

 バルベーラは何かを考え込んでいたが、唐突にグラスを握り、並々と満ちた酒を一気に煽った。

 胃の腑から脳天に向って、彼女の許容量を越えた酒精が真夏の陽炎のように駆け上がる。


「友枝しゃま、わらしも、ともへしゃまのように、まさよししゃまにたよられりゅけんひに……」


 呂律の回らぬ舌で、抱負らしきものを述べながらクッションに崩れ落ちるバルベーラ。

 友枝はその口元の涎をぬぐい、服を整え、そっとベッドに運んだ。


「……良いのですか、友枝さま。バルベーラは、」


 バルベーラの酩酊感を感得し、引きずられて泥酔状態に陷ったキヌは、酒精に溶かされゆく理性を掻き集め、この女子会の本意を尋ねようとした。


「マサ兄の言う通り、やっぱりバルベーラさん、頑張り過ぎちゃう所があるしさ。

 凄く凄く強いんだけど、バルベーラさん、剣道してもあんまり楽しそうに見えないから。

 だから、何か一緒にしたかったんだ、楽しいこと。

 それにほら、やっぱり私、バルベーラさんとちゃんと友達に――」


 友枝は言葉を止めた。眼前には、寝息を立てる天使のようなキヌの横顔。

 彼女は羽のように軽いその体を抱き上げ、バルベーラの隣に丁寧に横たえた。

 

「はああ~、もしかしたら、ライバル増えちゃうかな? だけど、相手があのマサ兄だからな~」


 クッションを集めて床に即席の寝床を作りながら、友枝は天井を仰ぐ。

 憂鬱そうなその口調とは裏腹に、その頬には心底楽しそうな笑みが浮かんでいた。



  ◆



 友枝のベッドの上で目を覚まし、状況を把握したバルベーラが真っ先に考えたのは、正しい切腹の作法だったという。

 その後の朝の騒乱も想定の範囲内に過ぎ去り、昼には再び友枝の稽古の時間である。

 二日酔いの頭痛と吐気に苛まれているが、それでもバルベーラの優位は揺るがない。

 馬鹿の一つ覚えのように、正面から左片手の一本打ちを仕掛けてくる友枝の剣を捌くことは実に容易だった。

 これに、一体何の意味があると言うのか。

 剣の稽古法や形は、技術の原理原則を明らかにし、体得するためにある。

 それが、必ずしも戦場での戦法と同じである必要が無いことは、ボジョレに問われるまでもなく、バルベーラも理解している。

 それにしても、友枝の左諸手上段からの片手打ちは、ピーキーに過ぎる戦法としか思えない。

 友枝の竹刀がバルベーラの面へと伸びる。遠間から鋭く切り込む、見事な一撃である。

 だがその技は、外れてしまえば全く後がない、決死の打ちである。

 鎬で流しながら、その打ち込みが粘りつくような重さを増していることに驚愕した。

 恐らく、竹刀を重いものに替えたのだろうが、それだけではない。

 より、体を捨てきって打っている。

 昨日のバルベーラの指摘とは、真逆を行くような変化。


 不意に、閃きが、バルベーラの脳内を稲妻となって駆け抜けた。

 友枝に尋ねた訳ではない。正義に尋ねた訳ではない。だが、バルベーラはその閃きが唯一無二の正解であると、確信していた。


 全てを捨てきり、初太刀を外せば命奪われる――そんなリスキーな状況に身を置くこと。

 殺らなければ殺られる。

 そんな、単純ながらも忘れられがちな剣闘の基本原理を心身に染みつかせること。

 ――それこそが、友枝の上段の目的なのだ。

 最もリスキーな状況で、最も遠間から打ち込める技を一気呵成に繰り出す。

 不退転の決意の元繰り出されるただ一刀。それこそ、この構えの真髄。

 なるほど、その気概は、正しく王者の剣と呼ぶに相応しい。

 

 ならば、己が友枝の稽古相手として為すべきことは。


 道場の上座に端座して、ボジョレと囲碁談義に興じていた正義は、バルベーラの間合いの変化を敏感に察知した。

 今までは、その対応力に任せて近間に入って上段を潰していたのが、下そうとする左小手を牽制しながら、友枝の間合いギリギリの距離を保ち続けている。

 そして、友枝はバルベーラの築いた剣の結界を破らんと、より一層威嚇を籠めてにじり寄る。

 これまでのように、力量差に任せて叩き潰すのではなく、一手一手、相手が最善手を選ぶように引き立てる。

 視線。重心。僅かな切先の動き。

 バルベーラと友枝の五体を繋ぐ、数えきれない不可視の糸。

 友枝には未だ把握しきれない数多の力と意識の流れを、バルベーラは絡まった糸をほぐすかのように、一本ずつ可視化していく。

 それは、まるで指導碁でも打つかのような稽古だった。

 何度かの間合いの攻防。彼我の距離が足の指半分詰まった瞬間、友枝には、己の切先とバルベーラの頭上の間に、一筋の間隙が白々と輝いているのを幻視した。その流れに導かれるように、友枝の竹刀が自然に面へと伸び、軽快な音を立てた。

 友枝自身意識しないうちに、痒いところに手が伸びるような、無意識と意識が半ば綯い交ぜとなって出た技だった。


「お見事です、友枝様」


 バルベーラは莞爾とした笑みを浮かべた。


「はあぁ、気持ち良かったぁ、あんな風に引き出して打たせて貰ったの、久しぶりかも」


 友枝は、今の感触の名残を惜しむかのように、竹刀を握り直す。

 正義とボジョレは、笑みを噛み殺すような顔で二人の稽古を眺めていた。


「バルベーラには、俺も友枝も世話になりっ放しだな」

「不肖の妹で、申し訳ありません」

「ところで、お前もちょっと付き合えよ」


 

  ◆


 夕方からは天気が崩れるかもしれない。

 霞がかった空を見上げて、ボジョレ=セギュールは吐息を漏らす。

 忍び寄ってきた雨の気配は、遠くから響く鰍蛙かじかがえるの鳴き声で一層濃くなった。

 自宅の窓の心配をする彼の唇を、背後からグローブじみた厚い掌がそっと塞いだ。

 ボジョレは、即座に腰間の刀の鯉口を切った。

 その速度――彼の抜刀に、思考の暇は存在しない。

 痙攣と同じ原理で、思考より先に肉体が最善手を取る鍛錬の極致。

 それに先んじて、背後の襲撃者はボジョレ自身の脇差を逆手で抜き取り、口許を押える左手で顎を持ち上げて鍛えようの無い喉笛に刀身を押し当てる。

 そのまま、躊躇無く頚動脈の上を刀身で撫でるまで、3秒とかからない。昆虫じみた感情の無い挙措。


「駄目だな、遅すぎる。まだ使い物にならない」


 襲撃者――正義は、竹光の脇差をボジョレに返しながら、頭を掻いた。


「抵抗された時のことを考えて、抜くと同時に相手の出足を払って倒したらどうでしょう?」

「う~ん、こういう技は、元々専門じゃないからな。もっと詳しく習っておけば良かった」

「貴方が、このような下品な技をご存知であること自体驚きですよ。

 全く、帝王の剣としては似つかわしくありませんね。どうぞ、内密にお願いしますよ」

「だから、お前に稽古を頼んでるんだろ」


 先ほど竹光を押し当てられた首筋を撫でながら、ボジョレは申し訳程度の愛想笑いを浮かべた。


「このような技まで学ぶとは――ケーサツとは、随分過酷な憲兵隊だったようですね」

「ああ、これは違う。同門で自衛隊――要は軍だな。そこに行った奴から習っただけだ。

 こんな所に来るのが分かってりゃ、俺も警官じゃなくて自衛隊員にでもなってりゃ良かったかもしれないと時々思うよ」


 冗談とも本気ともつかない口調に、ボジョレは空笑いを返しかねた。

 ボジョレの目にも、正義には陰から首を掻き切るような姑息な技は似合わない。

 正々堂々とした大技を正面から振るうのが絵になる男である。


「ところで、ボジョレ。お前は本当はこういう事の方が――」

「あ、いないと思ったら、こんな所にいた」


 正義の疑念の声を、友枝の歓声が遮った。

 

「ま~た男二人でこそこそしてるんだから。

 ……ね、マサ兄、今やってたようなこと、私にも教えてよ」

「友枝様、それは、」

「これはお前が学ぶべき技じゃない。お前は俺の言いつけ通り、今までと同じ稽古を続けろ、友枝」


 無邪気な提案を、正義は冷たい一瞥と共に一蹴した。

 たちまち友枝の表情には不満の色が広がり、どこか弛緩していた場の空気が一瞬にして冷めた。


「ちょ、その言い方は無いんじゃない、マサ兄!

 私、マサ兄のすぐ人を子供扱いする所、凄く嫌い!

 自分だけ大人ぶらないで!」

「……二十歳はたちを挟んで12も齢が離れていれば、十分に年長者だと思うが?

 それに、ここには叔父さんも小母さんも居ない。

 今は、俺がお前の保護者で、師だ」


 子供の駄々を宥めるように頭を撫でた掌を、友枝は手の甲で弾いて逆上した。


「そういうことを言ってるじゃない! 私だって、いつまでも――」

「お前の、そういう聞き分けの無い所が子供なんだ」


 怒りの剣幕の友枝に、正義は目尻を緩めた。

 その余裕綽綽の表情が、友枝の感情を尚も逆撫でする。

 ――実のところ、正義は友枝が思っているよりも高く彼女を評価していた。

 だからこその危惧だ。

 正義がボジョレと訓練していたのは、相手を殺害するためだけの技術である。

 剣の本質は殺人術とは云え、正義は暗殺術めいた技を友枝に使わせる気は毛頭無かった。

 有事窮まった際には、友枝をレディコルカの「玉」として逃がすというのが正義達の算段である。

 生き延びるためには、生半可な剣技などより、即座に剣を捨てて逃げ出す判断力の方が遥かに役立つ。

 だが。正義は知っていた。友枝にそれを求めるのは不可能だろうことを。

 側仕えのバルベーラにその場を任せ、己だけ落ち延びることを良しとせずに、おっかなびっくり、震える手で剣を抜く姿は、容易に想像できた。

 あの日、危険を顧ず、車椅子で踏切で手を伸ばしたように。


「――まさか、私が人の首をちょん切りに行くとでも思ってるの?

 ただ、私は知っておきたいだけ。いざとなった時に、自分の採れる選択肢を一つでも増やせるように」


 話が噛み合う筈も無い。正義達は、友枝の取る選択肢を逃走の一つに絞って欲しいのだから。

 友枝は、自分を囲む三人の表情をゆっくりと見回し、「そういうこと……」と悔しげに呟いた。

 

「要するに、私は丸っきりの足手まといだから、何もせずに、お姫様しとけってことなんだね」


 正義達の沈黙は、肯定と同義だった。


「ああ。俺には義務がある。お前を無事に日本の家に帰す義務が」

「それは、マサ兄が勝手に自分で決めた義務じゃん!

 こんな状況だし、私はマサ兄の言いつけは守ってるよ。

 でも、それはマサ兄の言葉が正しいと私も思ったから従ってるだけ。

 何が正しくて、何が間違いかは、最後は私が自分の頭で決めるから!」

「友枝、お前はこの地で何かを決断するには、まだ幼なすぎる」


 ――不意に、バルベーラは正義に猛然と反論を行う友枝の姿に、ボジョレに叱責される己を重ねた。


「お、畏れながら申し上げます。友枝様のお言葉に理がお有りかと」


 ああ、叱られる。

 今度はボジョレに殴られるだけでは済まないだろう。

 そう思いながらも、堰を切ったように言葉が溢れた。


「友枝様はお若いながら卓越した見識をお持ちです。

 わたくしバルベーラ=セギュールは、友枝様の侍従として、友枝様のご決断に従う所存であります。正義様にあらせましても、どうぞ友枝様のご決断をお見守り頂けますよう、伏してお願い申し上げます――」


 即座に、バルベーラの髪をボジョレが掴んで頭を地に押し付けた。


「正義様、愚妹がご無礼を致しました、どうぞご寛恕賜りますよう――」


 その手を払い、バルベーラが毅然と顔を上げる。


「ボジョレ=セギュール隊長。

 私は、正義陛下より友枝様の剣の御稽古の相手と、御身の周りの万事のお手伝いをお任せ頂いた友枝様の侍従。友枝様の御為に身を尽くすことが職務です!

 幾ら親衛隊長だからと言って、陛下より賜った聖なる職務に口出しするのは謹んで頂きたい!」


 勢いだけの出鱈目な反論で、こんな横車が通らないのはバルベーラ自身分かっていた。

 殴られる程度では済まない。懲罰房で済むかも分からない。

 もう、正義にも友枝にも仕えることは適わないかもしれない。

 そんな思いが脳裏を過ぎり、目をぎゅっと瞑り唇を噛んで己に下る沙汰を待った。

 だが、叱責の言葉の代わりに訪れたのは、頭を撫でる暖かな掌の感触。

 癖の強いバルベーラの頭を、ぐりぐりと、正義の厚く大きな掌がかき混ぜていた。


『マサ兄が誰かの頭を撫でる時って、大抵その相手を子供扱いしてる時だから。

 何かが上手く行っても、それでマサ兄に頭を撫でられてる間は、私はまだ子供なんだと思う』


 友枝の台詞が蘇った。

 寂寥感と幸福感の混じったくすぐったさに、バルベーラは下を向く。


「それじゃあ、半人前が二人で、合わせて一人前ということにしておくか。 

 それでいいだろ? ボジョレ」


 白い歯を見せる正義に、ボジョレは「仰せの儘に」と頭を下げた。

 バルベーラが頭を上げると、反対側の掌の下で、友枝も居心地悪そうに頭を撫でられていた。 

 目が合うと、二人は肩を竦め、気恥ずかしそうに笑い合った。

 ――本当は、心の底から正義に/ボジョレに反抗したいと思っていたわけではないのだ。

 もう少しだけ、背伸びをしたかった。大人扱いして欲しかった。

 友枝とバルベーラ。二人の抱えるコンプレックスはとても似通っていて、ついつい共感してしまった――それだけの話。

 仕えるべき主人である筈なのに。友枝のことを近しい友人のように感じてしまった己の不敬に、バルベーラは気を引き締める。


「じゃ、友枝のこと、よろしく頼んだぞ」

「はい! 命に替えましても!」


 肩に力が入ってるのは相変わらずだな、と正義は笑う。


「そんなに気を張らなくていい。お前、俺が死ねと言ったら死ぬつもりなのか?」


 強ばった敬礼をしていたバルベーラは、不意の問いかけに口許を緩めた。


「死にますよ。当たり前じゃないですか」


 正義は、たまにはバルベーラも冗談を返すことがあるのだな、などと思って笑ったが。

 バルベーラにとっては、正義の問いこそが、冗句だった。

 しょうがない奴だ、と正義は再びバルベーラの赤い癖毛をぐしゃぐしゃと混ぜる。

 バルベーラの胸を昂揚させるのは、崇敬する正義に褒められたという喜びだけではなかった。

 けれども、マレビトに己を捧げて尽そうとする彼女にとって、その感情を定義することは許しがたい不敬だった。 

 その矛盾を抱えつつ、バルベーラは正義と友枝に仕えていくことになる。

 

 

   ◆



「楽しそうな顔をしておるのう、ボジョレ。

 また、悪巧みが上手くいっておるのか?」

「……悪巧みなど、とんでもない。全ては、この国のためです」


 師である国王マルゴーに、ボジョレは仏頂面を返した。


「矢張り、正義様は友枝様と神国ニッポンに帰還なさる方法を探されるようです。

 レディコルカのために、何としても阻止しなければなりません」

「うむ。全てはレディコルカを大磐石に導くために、必要な仕儀。

 陛下には、お世継ぎを設けて頂かなければ、義太郎陛下の代と同じく皇統の血筋が絶えることになりかねぬ」

「正室に友枝殿下をお迎えするのは当然として、問題は側室ですね」

「その通り。マレビトは一時いっとき客人まろうどに過ぎぬ。レディコルカの民と正義陛下の間にお世継ぎを頂くことこそ、八千代の果てまで続く真の契りとなろう。

 されど、正義陛下はあのご気性。傾国の美女を以てしてもなびきはされまい」

「艶には流されぬとも、情には流されるご気性。正義陛下に近しい侍女ならば、あるいは」


 マルゴーは愉快げに口許を吊り上げた。


「それで、散々己の妹を焚き付けておったわけか」

「あれは、そういう娘です。禁じれば禁じるほど、それに抗おうとする。

 家を出て第三憲兵隊に入隊した時もそうでした」

「して、ボジョレ。バルベーラは正義陛下の御眼鏡に適う娘か?」

「今はただの粋がっているだけの小娘に過ぎませんが、今後の成長次第では、あるいは」


 淡々と語るボジョレの口調が、微かに楽しむのような弾みを帯びた。

 マルゴーはにやりとして問いかける。


「もし、仮に、の話じゃが……バルベーラが陛下のお情けを賜り、御子を授かったとすれば如何にする?

 皇太子の外戚がいせきとして、この国のまつりごとに口でも挿むつもりか?」

「そんなつもりは毛頭ありませんよ。

 この国の未来のためには、正義陛下の御胤を賜る必要があります。

 最もそれに近かったのが、己の妹だった――ただ、それだけです」


 暗転。



  ◆


 形式上は国主となった正義だったが、レディコルカの政治などにはなるべく関わらず、慎ましやかな日々の暮らしを営んできた。

 多くを望めば、身を滅ぼす。

 歴史上の数多の為政者を顧みれば、当然の身の振り方と言えよう。

 かといって、特定の権力者の傀儡となるのも気分が悪く、のらり、くらり、と象徴的存在というポジションを維持することに腐心した。

 あの戴冠式から日は浅いが、自らに取り入り、権力を手にしようとする人間の顔は一目で見分けることができた。キヌの力を借りるまでもなかった。

 世界は変っても、人というのは概ね変わらないものらしい。

 それが、帝位に就いた正義のここ数週間の素朴な感想である。

 

「次は、エメンタールね! 久しぶりにカベルネさん達に会えるよ!」


 修学旅行の前日のような表情で鞄に荷物を詰める友枝に、正義は苦笑する。

 この度、試の儀を行ったエメンタールに赴き、国王と正式な会談を行う運びになったのだ。

 要は、今までと同じ国事行為には違い無いが、行幸で各地の風物に触れることは、最近の正義の大きな楽しみとなりつつあった。


「そうだな。久しぶりにあいつと酒でも飲むか」

「うん、飲もう飲もう!」

「……ところで、友枝、お前、時々こっそり酒を持ち出してバルベーラ達と飲んでるだろ。

 見逃すと言ったのはあの無礼講の晩だけだった筈だけどな?」

「な、何の話かな、マサ兄」


 エメンタールの暗い森は、正義にどこか故郷の山河を想起させた。

 また、魔物狩りなどと口実をつけて出かけてみようか、などと考えていると、ノックも程々に、力なく扉が開いた。

 そこには、キヌとバルベーラの姿が。


「……正義様」


 二人の血の気の引いた蒼白の顔は、何か尋常ならざる事態が起こったことを雄弁に告げていた。


「何があった、バルベーラ」

「それが――」


 それは、何の前兆も無い未曾有の大災厄だった。

 レディコルカが二人のマレビトを迎え入れたことを、自国を侮辱する挑発行為であるとしたスティルトンが250年に亙る休戦協定を一方的に破棄。

 レディコルカの同盟国であるエメンタールへと一方的に侵攻したのだ。

 エメンタールの国家魔道士隊と各地の傭兵ギルドは当然これに応戦したが、会敵して僅か30分足らずで全滅。

 断片的な情報を繋ぎ合わせて判明したことは、スティルトンが神話の中でしか存在しなかったⅢS超級――俗称『魔王級』と呼ばれる魔道士を戦線に投入したという悪夢のような戦況だった。 

 

 

 


 

 

 

  

 


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