第3話 再就職活動、そして――

 喪ったものは戻らない。ならば心機一転。

 何はともあれ、まず最初にしなければならないのは就職活動である。

 人間、先立つものが無ければ始まらない。

 衣食住は基本的に足りているが、これ以上漫然と貯金を喰い潰すだけの生活を続けていくのは、流石に気が引けた。


 丁度、先輩伝てに注文していた特注の義足が完成したとのことで、受け取りに行くことにした。

 左足の幻は、未だに時折引き裂くような疼きを伴って痛み、俺を苛んでいる。

 スポーツ用の義足は、俺のボディバランスに丁度良く調整されていた。その場に立って脱力すると、自分の重心が真下に降りることを確認できた。少し足幅を広げて、上体の力を完全に抜くと、脳天から糸で引かれるように真っ直ぐ立てていることを実感できる。

 歩くには松葉杖に頼るしか無かったここ数ヶ月。自らの足で真っ直ぐに大地に立つ感触は、実に久方ぶりである。

 義足は、激しい運動にも耐えられる仕様ということだ。

 軽く正眼に構えてみて、この造り物の左足が、十分に己の荷重に耐えうることを確信する。これらならば――遠からず、剣を振ることすらできることになるだろう。

 確かに、膝から下、足首の関節は使えないし、足指を使う含み足なども技法も全滅だ。それでも、使えないよりはずっといい。もっと重いハンデを持ちながら剣を握ってる剣士も沢山いるのだ。足の一本や二本で、落ち込んではいられない。

 ――そう考えて、友枝の姿が脳裏をぎった。

 足を一本失っただけの俺とは違う。気丈にああ言ってはいたが、下半身不随となってしまった友枝が、再び剣を振るのは絶望的だ。足腰は剣士の生命線、それなくしては、もう……。

 陰に傾きかけた思考を振り払い、俺は新たな仕事を探しに出かけたのだった。


   ◆


 この就職難の時代に、片足を失った元警察がありつける職など、そうそう有るものか。

 そんな心配は、全くの杞憂だった。

 有り難いことに、警察の元上司の口利きで、呆気無いほどあっさりと俺の再就職先は決定した。

 持つべきものは人の縁であることを、つくづくと実感させられる。

 地元のNPO法人、若者の自立支援センターが、俺の新しい仕事場だ。

 大雑把に言えば、ニートや引き篭りなど、社会的な自立の出来ない若者に対して支援を行う場所だが、俺はそこで、敷地内の農作業の手伝いなどの作業体験療法の手伝いを行うことになった。

 職場の方々は、俺のような人材を探していた、と歓迎してくれた。

 俺は謝意を陳べながらも、これから上司となる職場の面々の視線が、時折物々しげな俺の義足に走るのを見逃さなかった。

 要するに。


『足のないこんな可哀相な人でも頑張ってるのだから、貴方達も頑張りましょうね』


 という言外のメッセージを、自立支援プログラムの参加者達に伝えることが、俺の役割らしい。

 それについて、思う所は無いでもないが、俺は有り難くこの仕事に専念することにした。俺の役割はどうあれ、若者の社会復帰の支援を行う仕事は、尊いことだ。

 お天道様に胸を張れる、正しい仕事だ――そう信じて、取り組むことにした。


 しかし、この仕事に就いてから、一週間、二週間。どうも自分の気合が空回りしているような違和感を犇々ひしひしと覚え始めていた。

 無論、仕事に手を抜くような真似はしていない。誠心誠意、拙いながら自分に出来ることを全力で取り組んできたつもりだ。だが、どれだけ熱心に取り組もうとも……否、仕事に心血を注げば注ぐ程、暖簾に腕押しているような錯覚に襲われるのだった。

 職場の先輩方は皆良くして下さる。俺は小器用に物事をこなすのは得意な方ではないが、取り立てて不器用な性質でもない。

 よくよく己の空回りの原因を考えてみれば、それは自立支援プログラムの参加者達との間の温度差に他ならなかった。

 この自立支援プログラムの参加者達は、世間一般でいうところの、ニートや引き篭りといった、社会に上手く適合出来なかった若者達だ。若者と言っても、俺より齢上の三十代の方々も散見する。

 ――正直に言って、この参加者達は、俺が人生で初めて出会う人種だった。

 警察官としての職務を為す中で、社会の規範を踏み外した相手と相対することは幾度もあった。そんな手合いをあしらうのは慣れていたが、この職場を訪れる彼らは、そもそも社会に出てくることを失敗した人達だ。

 彼らの行動パターンも、交流を重ねるうちに、次第に把握できるようになってきた。彼らの多くは物事に消極的で怯えがちだ。他人とのコミュニケーションを嫌い、人と話す時に目を合わそうとしない。それらの特徴は、勿論俺の価値基準からすれば忌むべきものだ。しかし。だからこそ、これらを矯正し、彼らの社会復帰のきざはしとなることは、重要な使命であると考えてきた。

 だが、そんな俺の態度は、彼らにとって傲慢で威圧的なものに映ったのかもしれない。参加者達の俺を見る視線に、恐怖の色が混じりつつあるのを見るに至って、俺は頭を抱えた。


「はっは、正義君はガタイがいいし、見た目から結構コワいからね。元警察官だけあって、動きもキビキビしてるし。この自立支援プログラムに参加してる子達はナイーブなのが多いからさ、それだけでも怖がっちゃう子もいるんだよね。正義君の優しいところを分かって貰えれば、みんなもっと打ち解けてくれると思うんだけどね」


 そう言って職場の先輩はあっけらかんと笑ったが、俺は困惑を隠せなかった。

 彼らのような人種が存在することを、知らなかったわけではない。けれど、彼らの歩んできた道程は、自分とは違いすぎる。俺は幼い頃から、祖父の真似をして馬鹿みたいに剣を振り、体育会系一色の人生を歩んできた。

 彼らが一体どんな道程を歩いてきて、どんな風に世界を見ているのかが知りたかった。

 

 

   ◆


 そんなある日、十年以上も引き篭りを続けているという男性の家庭への訪問相談に同行することになった。その男性の家はありふれた中流家庭の一戸建てで、男性は高校生の頃から自分の部屋に引き篭り始め、以来自室で己の趣味の世界への耽溺を続けているという。現在年齢は29歳。俺と同い年だった。


「良太は、昔はあんな風に閉じこもる子じゃ無かったんです。中学生ぐらいの時までは、もっと明るくていい子で――」


 男性の母親は、行き詰った現状と家の窮状を涙ながらに語った。供述は主観的で感情の色が濃かったが、その流暢な語り口から、母親が同様の話を今までに、幾度となく相談員に繰り返しているだろうことが伺えた。 

 先輩の話を聞くと、過去幾度も扉越しの声かけを行ってはいるが、男性が部屋から出てきて顔を見せたことは一度として無く、それどころか返答さえも無いという。

 それらの話を聞きながら、俺は自分の価値観では考えられない男性の行動に驚愕を覚えていた。部屋に閉じこもって、10年間。今までの自分の10年間を振り返ってみる。多くの出来事があったが、概ね実りに満ちた10年間だった。10年間をずっと部屋に閉じこもって過ごすなど、想像しただけで頭がおかしくなりそうだった。母親をあんな風に泣かせて、心は痛まないのだろうか。親に食事だけ与えて貰うような生活をして、恥ずかしくないのだろうか。

 俺も事故に遭ってから数ヶ月、部屋に閉じこもって半ば引き篭りのような状態に陥ってしまったことはある。それでも、買い物や食事などの最低限の身の回りの世話を他人任せにするようなことはなかった。だが、この男は臆面も無く、生活の全てを親任せにして愛玩動物か何かのように暮らしている。

 天の岩戸のように固く閉ざされた扉に手を触れる。この扉の向こうにいる男の思考は、全く俺の常識の埒外だった。泣きながら扉を叩く母親と、ただ沈黙のみを返す薄い扉。その向こう側にいるのは、真実人ではなく、怪物か何かなのではないだろうか。そんな倒錯した妄想すら脳裏を過ぎる。

 結局、その日も進展は無く、俺達はその家を辞すことになった。

 やれやれ、参ったね、と先輩はうんざり顔を頭を掻いた。

 

 数日後、再び男の家を訪ねると、母親が思いつめた顔をして俯いていた。震えるその手には、小さな鍵が握られていた。母親は、ひどく冗長な言い回しで、これ以上引き篭りを続けることは息子の為にならないから、鍵を使って部屋を開けようと思っている旨を、あたかも人生の一大事であるかのように述べた。

 俺は、隣の先輩に倣って深刻そうな表情を浮かべて頷いたが、内心では母親との温度差を隠せなかった。――引き篭った息子の部屋の扉を開く。それは、決断に10年も掛かる程の大事なのだろうか。

 要するに。この母親の優柔不断な気質が、この家の大きな病根の一つなのだろう。この母親は、息子を甘やかし過ぎていた。思えば、10年間もの引き篭り生活は、母親の密な協力を抜きには成立不可能なのだ。毎日の食事を部屋の前まで運んでやり、男が通信販売で注文した品々の料金を代引きで支払い、その箱を部屋の前まで届けてやる。

 病的な域に達した息子への献身。それらの行為が年月をかけて、この扉の向こう側にいる男を腐らせていったに違いない。

 食事を運ぶのを止めれば。あるいは、男が好き勝手に通販で注文する品々の受け取りを拒否するだけでも良かったかもしれない。男が外界と接触を持つように仕向ける方法は幾らでもあった筈だ。だが、この母はただ傍観した。甘やかした。そのツケが今のこの現状という訳だ。

 部屋の鍵は内側から閉じられていたが、そのスペアキーはずっと母親が持っていた。開かずの岩戸は、その実、開けようと思えばいつでも開ける薄っぺらなドアだった。

 俺は、先輩と顔を見合わせた。先輩は、小さく肩を竦めて頷いた。

 ……それでも、扉は今日開かれるのだ。それだけでも進展があったと思おうじゃないか。職務に徹する冷静な瞳が、静かに俺にそう告げていた。


 小さな金属音を立てて、シリンダー錠が半回転。鍵は、呆気無い程簡単に開いた。


 母親は古びた引き戸に手をかけ、暫し逡巡していたが、やがて決心をつけたように、一気に開け広げた。

 ――扉の向こうは、異世界だった。

 壁一面に貼られた、アニメ調の絵柄で描かれた、破廉恥な格好をした少女のポスター。さして広くない部屋にはワイヤーラックが立ち並び、アニメキャラや特撮のヒーローと思わしき人形がびっしりと飾られている。部屋の各所には、ゲームや人形の空き箱と思われる物が山を成して積まれていたが、驚くべきことに、それら空き箱の山は、部屋の主人にしか理解出来ない規則性を持って積み上げられていた。壁や棚に規則正しく陳列された趣味の品々とは対照的に、床は飲み捨てられたペットボトルや得体の知れないゴミが雑然と散らばり、悪臭を放っていた。

 この部屋の玉座は、部屋の突き当たりに設えられた、大きなパソコンラックだった。この部屋の主は、高級そうなデュアルモニタに前にずんぐりとした肥満体を据えて、ぶつぶつと小言で何事かを呟きながら、ゲームパッドを握り締めてネットゲームに興じていた。耳を覆うヘッドフォンから聞こえる音漏れの量から察するに、己の世界に没頭するあまり、背後の様子に気付くことさえなく、長年頑なに侵入者を阻んできた扉が遂に破られたことなど、夢想だにしていないようだった。

 

「良太」


 背後からの母の一声で、己の世界に沈溺していた青年は、背筋を引き攣らせてマウスをスクロールしていた右手を止め、椅子を蹴り倒して立ち上がった。

 

「はい、はい、俺の部屋に入ってくるな、っていいいい言っただろう!」


 青年は、吃音の多く呂律の回らない口調で叫び、怯えた獣ような目付きで、自分の楽園への侵入者達を見回した。

 俺は、初めてその青年――海辺あまべ良太りょうたの顔を直視した。肉付きの良い大柄な肥満体をジャージの中に窮屈そうに押し込み、汚れた蓬髪は伸び放題。眼鏡の下では、齢不相応の稚気を残した瞳が卑屈な色を浮かべて、俺達を睨んでいた。


「何で、何で勝手に開けたんだよ、こいつら誰だよ!?」


 無遠慮に指を突きつけられ、青年と視線を交えると、瞳に籠った憎悪は忽ち萎えて、その視線を斜め下に落とした。他の参加者の例に漏れず、この青年も他人と視線を交えて会話するのは苦手らしい。彼は暫く所在無さげに眼球を動かしていたが、敵意の矛先を己の母親に定めると、無精髭の下の唇からつばきを飛ばしながら、黄色い歯を剥いて口汚い言葉で猛然と罵倒を繰り出した。

 彼の母親は、弁解とも言い訳ともつかないような曖昧な抗弁を試みたが、青年は意にも介さず、稚拙な罵倒を続ける。

 その光景を見る俺の脳裏に、諦観が過ぎった。

 躾らしい躾が出来なかった母親と、その息子。眼前の母子の関係は、分かり易過ぎる程にシンプルだった。この青年の人格の矯正が一朝一夕で終わる筈も無い。これから長い長い時間が掛かることだろう。

 海辺良太は俺がこの仕事を始めて出会った、引き篭りという人種の中でも極北に当る人間だった。環境次第で、人間の人格とはここまで歪むものなのか。その事実に、戦慄さえ感じていた。

 しかし、言い争いで――というより、単なる青年の罵倒であったが――頭に血が上ったのだろうか。青年が卓上のキーボードを振り回して、己の母親に殴り懸かろうとするのを見逃す程、元警察官としての勘が鈍っている訳でもない。その手首を押さえて、キーボードを取り上げるのは実に容易に事だった。


「暴力はいけませんよ」


 毒にも薬にもならないような柔らかい正論で窘め、後の仕事は先輩に任せることにした。

 この青年には、間違いなく精神的な治療が必要な状態だ。専ら作業療法の手伝いを任されている自分には、出る幕は無いだろう。自分が同行することになったのは、恐らく、先程青年がキーボードを振り回して暴れたような、予期せぬ暴力に対する抑止力としてだ。これから先は、専門家の仕事だ。

 先輩が青年に話しかけるも、青年は聞く耳持たず、頭を押さえて譫言うわごとを漏らすばかりだった。

 あわや、頭にキーボードを振り下ろされる寸前だった母親は、澎湃と涙に暮れながら、


「……間違っていた、私の育て方が、間違っていたんです」


 と繰り返した。俺は『知ってますよ』と返したくなる気持ちを腹に呑み込み、ただ事態の沈静化を待つばかりだった。

 


   ◆


 そんな、海辺家の訪問が、幾度か繰り返された。

 息子に殴りかかられたのが、余程ショックだったのだろうか。母親は息子に対する態度を一気に硬化させ、それが親子の軋轢に一層の拍車をかけている。悪循環だった。

 俺も幾度か海辺良太と話す機会があったが、何を話しかけても、無気力な生返事が返ってくるばかりだった。

 しかし、時には海辺良太から言葉を投げかけられることもあった。


「お前、俺の事を馬鹿にしてるだろ?」


 海辺は、卑屈な上目遣いで俺を見上げ、むっちりとした頬に自虐的な笑みを浮かべた。


「どうせお前も、お、俺の事、人間の屑だとか思って見下してるんだろ?」


 俺は、返答に詰まった。海辺のこれまでの行状に対して己の中に蔑意が育っていたことを、否定しきれなかったからだ。しかし、自立支援センターの人間として、利用者に対して蔑意をぶつけるような言行は言語道断だ。取り締まることが職務だった警察時代とは違う。今の自分の職務は、導くことなのだと己に言い聞かせていたが、本音の部分を指摘され、スマートな返答を行う事が出来なかった。小器用な対応が苦手なのは、相変わらずである。

 そんな俺を見て、海辺は嗤った。


「ほ、ほら、やっぱり。真面目ぶってても、お仕事でやってるだけで、本音を言えば俺のような屑のことなんでどうでもいいんだろう? ぎ、偽善者野郎」


 安い挑発だった。同様の言葉は、警察時代にも補導した少年達に幾度か投げつけられたこともある。その時は、何と答えただろうか?


「違う、俺は違う、本当は、俺は、本当の俺は……」


 海辺は、怯えたような仕草で親指の爪を噛んだ。この男の挙措は不安定で痙攣的だ。散々自虐的で冷笑的な態度を取ったと思えば、己の現状を否定し、ネットゲームの中での自分の地位や功績を自慢げに話し、かと思えば、不意に何かに怯えるような挙動を見せることも多い。

 兎に角、自我の礎と呼べるものが不安定な人間なのだ。

 繰り返し口の端に登らせる言葉は、『こっちはリアルじゃない』『あっちが本当の自分だ』などという、ネットゲームの世界のアバターとしての自分を崇拝し、徹底して自己の現実を否定する文言ばかりだった。

 海辺良太の更生の第一歩は、目を背けずに正しく現実認識を行うことから始まるのだろう。

 ――その時に俺は、悠長にもそんなことを考えていた。

 

 


   ◆ 



 特製の義足の調子はすこぶる良く、俺の足は、もう簡単な稽古なら難無くこなせる程の回復を見せていた。流石に機動隊特練の荒稽古にはまだ耐えられそうにないが、町道場で中高生の相手を相手にする程度なら何の問題も無い。

 この日は、リハビリも兼ねて古くから付き合いのある道場へ居合の出稽古に足を延ばしてみた。


「なあ、引き篭り、って、どう思う?」


 特に深い考えがあった訳ではない。偶々出稽古の帰り道が海辺家の近くで、あの男の顔が脳裏を過ぎったので、何の気無しに隣の友枝に尋ねてみたのだ。――友枝は相変わらず車椅子での生活を強いられているが、切畠道場にも顔を出し、こうして俺の出稽古にも同行するようになった。無論、稽古に参加できるわけでは無い。それでも、見取り稽古も練習のうちだと言って、胴着と居合刀を包んだ風呂敷を持って、必ず道場に顔を出すのだ。不器用に車椅子を降り、胴着と刀の包みを抱いて、道場の端に横座りに腰を落ち着け、じっと稽古を眺める友枝の様子は、否応無しに哀れみを誘った。

 稽古の狭間に、友枝に同情や励ましの声をかける方も多い。友枝がどれだけ気丈に日々を耐えていても、これからずっと、友枝は周囲の目が作り上げた不幸に包囲されて生きていくのだろう。

 そう考えると、気が重かった。


「う~ん、引き篭りねえ。私は引き篭ったこと無いし、引き篭りの友達も居ないから、良く分からないかなあ。あ、暫く病院に入院してたから、その間はちょっと引き篭りっぽかったかな?」


 にへら、と頬を緩めた友枝の冗句を、俺は笑うことが出来なかった。


「そう言えば、マサ兄も一時期引き篭りっぽくなってたことあったよね? 引き篭りの人って、要するにあんな感じなの?」


 あの事故の後。俺が、お天道様の光を見ることができずに部屋に閉じ篭っていたあの頃。

 少しだけ思案し、違うな、と自答した。確かにあの頃、俺は自責の念から一日の大半を部屋に閉じ篭って過ごしてはいたが、食事や身の回りのことは自分で行っていたし、再就職の必要性も理解していた。

 あの頃の経験を踏まえて考えてみても尚、海辺良太の行動原理は俺の理解の範疇の外だった。一瞬だが、海辺と視線が交わったあの時、決して理解し合えない隔絶を感じた。

 いや。それでも理解するのだ。理解出来るようにならなければいけないのだ。……それが、今の俺の仕事なのだから。


「どうしたの、マサ兄? ぼーっとしちゃって」

「……いや。何て言うべきかな。引き篭りにも、色々あるみたいで、どうも、世の中には俺に理解出来ないような人種も多いみたいで、ちょっと悩んでたところだ」

「新しいお仕事で、何かあったの?」

「いや、大したことじゃないよ」


 友枝はそれ以上追及してくることは無かった。


「引き篭りかぁ。引き篭りの人って、何が楽しくて引き篭ってるのかなぁ。私は入院してる間退屈で仕方がなかったけど。やっぱり、テレビでやってたみたいに、ずっとゲームとかしてるのかな?

 一日中ずっとずっとゲームをするなんて、飽きないのかなぁ? 外で体を動かしたくならないのかなぁ?」


 少しだけ安堵する。友枝の引き篭りに対する感想は、概ね俺と同じのようだ。


「ねえ、マサ兄、もし私が引き篭りになっちゃったりしたら、どうする?」

「引っ張り出す。頭に一発拳骨落として、腕を摑んで部屋から引きずり出してやるよ」


 そう言って人差し指を突きつけると、友枝はケラケラと笑って「だったら、一度ぐらい引き篭ってみてもいいかも」と冗談とも本気ともつかない声色で呟いた。


 会話が途切れた。

 夏至も近づいた太陽の歩みは蛞蝓のように遅く、午後の七時半近くなっても、夕日の残照はいつまでも山際の梢の先に留まっていた。

 俺は、友枝の車椅子を押して、茜さす帰路を急いだ。友枝は自分の座る車椅子を他人に押されるのを嫌がることも多かったが、この日は俺の手出しを咎めるようなことは無かった。――あるいはこの時、友枝も何か不吉の予兆じみたものを感得していたのかもしれない。

 田舎道の古びた踏切に辿り着くと、線路の向こう側に一人の男が佇んでいるのが見えた。

 遮断機は上がっている。電車が通る様子もなく、歩みを妨げるものは何一つ無い筈なのに、踏切の前で俯いてじっと線路を見つめている。

 男が、顔を上げた。背後から照りつける逆光の西日に塗りつぶされていたその男の顔が明らかになり、俺はあっと声を上げた。

 大柄な肥満体、手入れのされていない蓬髪、眼鏡の下の卑屈な視線。見紛う筈もない、それは、あの引き篭りの青年、海辺良太だった。

 だが、その表情は彼の自宅で会った時のものとは一変していた。顔に貼り付けた冷笑は消え、無精髭に塗れた頬からは血の気が失せている。ただ、生気の感じられない、血走った瞳が当て所も無く彷徨っていた。


「――誰? マサ兄の、知ってる人……?」


 海辺の尋常ならぬ風体を訝しんだのか、友枝が俺の袖を掴んだ。

 部屋の扉を開けることはあったが、今までに海辺が自発的に自室から出てきた事は、一度たりとてなかった。その彼が、自分から家を出て散歩に出歩くなど、一体何があったというのだ。

 拙いな。

 俺は、過去の警察官の仕事の中で、こんな瞳をした男を幾度も目にした。友枝ですら一目で気付く程の異常性。

 ――これは、限界まで追い詰められて、何をしでかすか判らない人間の瞳だ。

 稽古の帰りだったが、仕方がない。ここは穏便に物事を治めて、彼を家まで送り届けた方がいいだろう。


「やあ、どうしたんですか! こんな所で!」


 ひょいと右手を上げ、可能な限りのフレンドリーな笑みを意識して、気さくな調子で踏切の対岸の海辺に語りかけた。海辺は、俺の顔を見て取るや、視線を下に逸らし、黄色い歯を剥き出して笑みを返した。その笑みを見た瞬間、言葉に出来ない悪寒が胸中を駆け抜けた。得体の知れない動悸に合わせるように、踏切の警報機がけたたましく夕焼け空に叫び声を上げ始めた。

 するすると、スズメバチじみた黄色と黒の警戒色の遮断機が、俺達と海辺を隔てるように下りていく。

 踏切の警報機の奏でる騒音の下で、海辺の口がゆっくりと動いた。


『 し ん で や る 』

 

 言葉は聞こえなかったが、口の動きと表情から、その意は十全に伝わった。

 ああ。薄々、そんな悪寒はしていたのだ。海辺の顔を見た瞬間に、取り押さえて家に送り届けるべきだったのかもしれない。

 そんな後悔に浸る余裕すらなく、遮断機の下を潜った海辺の後を追って、電車の迫る踏切に俺は足を踏み入れた。

 ……元警察官として、可能な限り迅速かつ的確な行動は取れていた筈だ。緊急停止ボタンを真っ先に押し、眼前の遮断機を折り飛ばして踏み切りに駆け込む――この踏切の遮断機が、田舎で良く使われている脆い竹製の物だったことが幸いした――踏切の中央で、大の字に寝そべる海辺に「馬鹿な真似は止せ」と一喝しながら、胸倉を掴み上げる。

 海辺は、悲痛な声を上げて自己弁護じみた言葉を漏らした。

 曰く――母親にネットゲームのデータをサーバから消されたこと。インターネットの回線を切られたこと。世界の全てが消えてしまい、もうこの世に居場所が無いこと。そんな内容のことを、早口に叫んでいたと思う。しかし、その時の俺には、海辺の妄言に耳を傾ける余裕など勿論無く、数秒後に迫った死を回避する為に全身全霊を賭けて、踏切の外へと抜け出そうとしていた。

 だが、海辺は赤子のように手足を振り回し、奇矯な叫びを上げて線路にしがみつく。

 これは、死んだかな。

 頭の中の冷静な部分が、そう囁いていた。ああ、海辺に看破された通りだった。俺は、海辺のことを、どうしようも無い人間の屑だと見下していた。本当なら、自殺しようがどうしようが、知ったことではなかった。

 それでも。――友枝を助けられなかったあの瞬間が、フラッシュバックする。

 目の前で、人が轢かれて死ぬのを見るなんて、死んでも御免だという単純な思いのみを燃料にして、海辺の肥満体を引いて踏切の外へと駆ける。僅か1メートル程度の筈の距離が、無限遠に等しい。耳をつんざく電車の警笛。轟音とライトが背後に迫っている。0秒後の死がすぐそこまで、今海辺を捨てて飛べば俺の命は助かるかもしれない、いや、何としてでも――。


 俺の手首を、小さな掌が柔らかく包んだ。

 友枝が、迫り来る電車にも躊躇わず、車椅子の轍を踏切の線路に交えて、ぎゅっと、俺の手を引いていた。


「ばかやろう」


 呆としてその一言を漏らした瞬間に、俺、切畠正義の意識は木っ端微塵に粉砕された。

 瞼の奥の残照には、夕焼けに照らし出された誇らしげな友枝が笑顔が映っていた。

 

  




   ◆




「友枝っ! ――っ痛ぅ」


 悪夢からの飛び起きざまに、頭痛に顳顬こめかみを押さえて蹲った。

 調心、調息を意識しながら動悸を抑えながら、たった今見たばかりの強烈な夢の光景を頭を振って脳裏から追い払った。


「何て、酷い、夢だ」


 背伸びをすると、ずるりと何かが背中からずり落ちた。

 ――愛刀の入った、刀袋。

 何故俺は、刀を背負ったまま眠るような無作法をしているんだ?

 刀だけではない。背負った鞄には、居合道具の一式が詰まっている。

 己の体を見下ろせば、夢の中で出稽古に出かけた時と、何一つ変わらないジャージ姿だった。

 

「……どこから、夢だったんだ? ……そんなことより……」


 周囲を見渡す。俺をぐるりと囲んでいたのは、見慣れぬ異郷の草原だった。

 枕元の土を掴み、その匂いを嗅ぐ。

 草の間から、兎とも栗鼠リスともつかないような、奇妙な齧歯類が顔を出し、フンフン、と鼻を鳴らすと、何処ともなく駆けていった。

 空を見上げれば、巨大な猛禽類のような鳥が、円を描いて羽ばたいていた。――郷山さとやまトンビとは訳が違う、鷹を思わせるような猛禽である。しかし、風切り羽根が緑に縁どられた猛禽など、見たことが無い。

 

「ここは、一体何処なんだ?」


 コロポックルでも棲みそうな大きな円い葉の上では、図鑑でしか見た事が無いような極彩色の蛙が呑気に喉を鳴らしていた。――尤も、こんな奇妙な彩色で巨大な蛙は図鑑でも見たことが無かったが。


「俺は、夢を見ているのか? これは、あの悪夢の続きか?」


 ふと、足元を見下ろした。


「いや……夢だとするなら、一体どこから夢だって言うんだ?」


 俺の左膝の下には、とうの昔に失われた筈の左足が真っ直ぐに伸び、力強く地面を踏み締めていた。

 あの事件さえもが――俺と友枝が巻き込まれた、あの忌まわしい事故でさえも、夢だったのいうのなら、俺は諸手を挙げてこの不可解な状況を喜ぼう。受け入れよう。

 そう思った矢先に、俺の左足が何か固いものを踏みつけた。

 ――それは、外れて転がった義足だった。俺の足にぴったり合うように調整された、特注の義足だった。

 

「はは、何だよこれは、辻褄が合わないだろう?」


 あの事故が無かったのなら、此処にこの義足が転がっている筈が無い。

 あの事故が有ったのならば、こうして俺の左足が生えている筈が無い。


 混乱の渦中にある俺の眼前を、緩々と横切る小さな影が。

 見れば、蝶々の羽と幼児のような裸体を併せ持った、お伽話の妖精そのものだった。


 ふと思い出したのは、何かの折に読んだ藤村操の辞世の一説だ。


「――万有の真相は唯だ一言にして悉す、曰く『不可解』」


 そらんじて、倒れ込むようにして大地に背中を預けた。


「友枝は何処だ……? 一体、何が如何どうなってるっていうんだ?」

 

 答えてくれる相手は居なかった。

 ただ小さな妖精ピクシーだけが、円を描いて舞い踊りながら、剣道師匠国レディコルカに漂着した俺のことを、静かに歓迎してくれていた。

 


 

 


 

 

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