第2話 正義と友枝

 祖父の四十九日が済んだ。

 慌しき日々は過ぎ去り、俺の日常も波が収まるように今までと変らぬ静けさを取り戻していった。

 位牌に記された戒名は、『範剣院義信天道大居士』質素を好んだ祖父には些か大袈裟な戒名である。祖父の生前の剣友の方々や門下生から、是非ともということで心付けを頂き、大居士なる位号と院号を授かったものの、祖父もあの世で苦笑いしていることだろう。

 切畠の屋敷を無人にしてしまうのは心苦しいが、警察の仕事は相変わらず多忙で、家に戻れない日も多かった。

 それでも、非番で家に戻ると、仏間は綺麗に掃き淸められ、仏壇には仏飯仏花も瑞々しく並び、線香は緩々と青い煙をくゆらせている。

 頼んだ訳でも無いのに、友枝ともえが気を利かせてくれているそうだ。

 気付けば、屋敷の手入れや裏庭の盆栽の世話まで、最近殆ど家の事は友枝に頼みきりになってしまい、心苦しく思っていた。

 そんな訳で、都合よく非番と日曜日が重なった今日は、友枝ともえへのサービスディだ。


「おはよう、マサ兄。それじゃあ、早速出発進行!」


 久々に洗車を終えたハリアーの扉を開き、友枝は勝手知ったる様子で助手席にその細い体を無遠慮に滑りこませた。

 一年ほど前から、俺の愛車の助手席は、友枝によってファンシーなウサギ柄の座布団やウサギのキーホルダーが持ち込まれ、何時の間にか友枝の専用席へと改造されていた。すっかり少女趣味に彩られてしまった俺のハリアーの助手席。覗いた同僚の生暖かい視線が痛かった。

 

 番匠ばんじょう友枝ともえは、少し齢の離れた俺の又従姉妹はとこだ。祖父の妹の絹世さんの孫に当たる。

 絹世さんの夫であり、切畠尚武館の初代副館長だった番匠鉄也先生に連れられて、幼い頃からずっとうちの道場に通っているので、今ではすっかり俺の妹のような存在である。

 舗装の悪い田舎道を、ごとごと車体を揺らしながら走ること十数分。少し交通の便の悪い場所に建っているのがうちの道場の難点だ。それでも、元より田舎町なので、愚痴っても仕方ないことではあるのだが、見通しの悪い急カーブが多くて、小さな事故が多いのは考えものだ。


「マサ兄、飴ちゃん食べる?」


 古臭い包装の梅飴を受け取り、口に放り込んだ。友枝は、車窓からの景色を楽しみながら、小さく鼻歌を歌っていた。……耳を澄ませてみれば、まさしの関白宣言だった。

 車窓を細く開くと、思いの外強い風が吹き込み、ショートに切り揃えられた友枝の黒髪を散らすように揺らした。慌てて髪を押さえる横顔をすがめに眺め、こいつも綺麗になったな、というどこか父親じみた感想を漫然と抱くのだった。

 友枝は現在高校2年生、まだよちよち歩きをしていた頃から面倒を見ていた身からすれば、随分と感慨深いものがある。身長は、現在172cmと言っていただろうか。この年頃の女子にしてはかなりの長身だ。身長に対して顔は小さく、手足もすらりと長い。こう言うと見事なモデル体型のように聞こえるが、身長に対して胸尻の肉付きが悪いので、立っている姿はひょろりとしてマッチ棒のようにも見える。

 そんなこと、勿論、本人の前では口に出しては言わないけれど。

 剣道部の稽古に懸かりきりになっているのと、スイーツの代わりにスルメを裂いて食べる残念な女子力のせいか、外見に反して彼氏はまだいないらしい。

 友枝に彼氏が出来たら、こうやって我が物顔で助手席に乗り込んでくることも無くなるのだろうか。それはそれで、寂しい気がする。

 

「信次郎爺ちゃん、――鉄也爺ちゃんもだけど、みんな凄い先生だった、って言うけど、いつもは結構普通のお爺ちゃんだったよね?」


 車窓に流れる田舎道のガードレールを眺めながら、友枝は不意にそんなことを漏らした。


「そうだよな、普通の爺ちゃん達だったよな。信次郎爺ちゃんなんて、日曜に『お宝鑑定』を見て、『儂には分かる! これは古伊万里の銘品に違いない!』とか自信満々に言ってたくせに、その鑑定結果の3000円が出たら、『やっぱり安物だったか』なんて言っちゃうような、ごく普通の爺さんだったよな」

「あ、鉄也爺ちゃんも大好きだったよ、あの番組。高いとか安いとか言っても、全然当らないの! 一度古い刀が出た時には、ぴったり当てたのは流石だったけどね」

 

 そう言って、俺達は声を上げて笑いあった。


「本当に仲が良かったよね、信次郎爺ちゃんと鉄也爺ちゃん」

「何と言っても、刀で斬りあっちゃうぐらいの仲良しだったからな」


 これは、身内だけに伝わる笑い話である。若かりし頃、祖父と鉄也先生は顔を合わせれば喧嘩するような犬猿の仲だったそうだ。それでも、お互いの剣道の腕だけは認め合い、毎日必ず猛烈な手合わせをしていたらしい。

 そんなある日、鉄也先生は突如として祖父の前に土下座をした。


『どうか、絹世さんとの結婚を認めて欲しい』


 祖父の知らぬ間に、鉄也先生は祖父の妹の絹世さんに恋文を出し、密かに逢引きを続けていたことが発覚した。

 絹世さんを目に入れても痛くないぐらい可愛がっていた祖父は、当然のように激怒した。


『お前のような奴に妹はやらん! 絹世が嫁に欲しければ俺を斬り殺してからにしろ!』


 火のような激しい気性の鉄也先生は、その日の晩に家伝の刀を持って切畠家に押しかけた。祖父はその時の鉄也先生の瞳を見て、『あ、斬らなきゃ斬られるな』と確信したらしい。二人は刀を抜いて向かい合い、勝負は一太刀で決着した。

 鉄也先生の刀は祖父の顎先を割って、胸の正中――胸骨の上を浅く斬り裂いた。もう一歩踏み込まれたら即死だったと、白髭を蓄えた顎先を撫で、祖父は笑いながら語っていた。試合での勝ち星は祖父の方がやや多かったそうだが、気迫に押されて正中を割られたことで、祖父は素直に負けを認め、二人の結婚を許したという。

 

 この話を聞いた時、俺とまだ中学生だった友枝は、なんて無茶苦茶をする爺どもだと、顔を見合わせたものである。戦後の混乱期とはいえ決闘罪――というより、殺人未遂だ。勿論、とうの昔に時効は過ぎているのだけれど。

 めでたく結婚が決まった鉄也先生と絹世さんだが、その決闘の話を聞いた絹世さんは、泣きながら二人を木刀で殴りつけたというオチがついている。

 かくして、俺の大叔母にあたる絹世さんは番匠家に嫁ぎ、友枝が生まれることになったのだ。人の縁というというのは真に数奇なものである。

 ちなみに、友枝ともえの名付け親も鉄也先生だ。その名の由来は、若くして世を儚んだ鉄也先生の姉、ともえさんである。巴さんはあの義太郎さんの許婚であり、終戦後も最期まで義太郎さんの帰りを待っていたという。……本当に、人の運命は悲喜交々だ。


「まずは、ジョンク堂ね! その次は記伊國屋! お昼ご飯はどこで食べようか! 久しぶりに芳野屋の牛丼にする?」

「もっと高くておしゃれな所で奢ってやるから。お前、もうちょっと今時の女の子らしくしないと、彼氏の一人も出来ないぞ?」

「……彼氏なんて、出来なくてもいいもん」

 

 そう言って、拗ねたように笑う顔は、幼い頃のままだった。

 小さい頃から友枝の面倒を見てきたが、今では家のことで俺が友枝に世話をかけてばかりだ。休日に、こうして市街の本屋に出かけるぐらい安いものである。

 祖父も、父も、友枝も、勿論俺も、あの義太郎さんも、うちの家系はどうにも書痴が多いようだ。広い切畠の屋敷には、本ばかりうずたかく積まれた部屋が多いし、祖父達が書き残した手記の類も数多く遺されている。

 機を見て処分しても良かったのだけど、古い本や、祖父や義太郎さんの遺した手記を読むと、昔が偲ばれる様々なことを発見できて、いつも処分を躊躇ってしまう。お陰で、切畠の屋敷は本ばかりだ。

 

 友枝がルーズリーフにずらりと並んだ本の題名を、眉根を寄せて眺めている。俺も友枝も本に関しては基本的にはジャンルを問わない乱読だ。違いがあるとすれば、友枝の方は俺よりも小説の類を好んで読むことぐらいだろうか。俺は全く手を出さない、若者向けのライトノベルの類も友枝は嗜んでいるようだ。

 少し、友枝の年相応の面が見れて安心する。軽佻浮薄なジュニアノベルの類は好きではないが、女子高生が三島由紀夫や太宰ばかり読んでいても、それはそれで心配というものだ。

 

 突如、友枝は意思の強い瞳できりりと俺を睨みつけた。


「マサ兄、お昼は圓亀製麺のうどんにしようよ。天麩羅4つぐらい乗せてもいい?」


 ……随分図体は大きくなったが、メンタリティの方は、『大きくなったら、マサ兄のお嫁さんになるのー』などと言っていた頃から、あまり変っていないようだ。



   ◆

 

 本を選ぶのに興が乗りすぎて、帰宅は随分と遅くなってしまった。

 そのまま夜の稽古に向うため、車は屋敷に止めずに、そのまま道場前の駐車場に乗りつけることにした。


「あれ、正義先生!」

「こんばんは~」


 車から降りると、丁度稽古に来ていた友枝の高校の剣道部員達と、鉢合わせた。

 助手席から顔を覗かせた友枝は、何故か気まずそうに頬を引き攣らせた。


「小百合、佳美、来てたの……?」


 友枝の同級生達は、俺の車から降りた友枝を取り囲み、悪戯げに微笑んだ。


「あれあれ~、一体、今日は友枝は何処に行ってたのかな~」

「そっかー、今日が楽しみにしていた本屋デー……」

「あぁぁぁぁ、小百合、佳美、早く着替えようよ!」

 

 友人二人の袖の掴むと、友枝は脱兎の如く更衣室へ走り去っていった。妙に慌てふためいていたのが気になる所だ。

 まあ、稽古の時には元通りに戻っているだろう。

 ああ見えて、友枝は剣道部の女子エース、一年生で全国大会進出し、今年は全国ベスト8に入った程の腕前だ。

 鉄也先生譲りの威勢の良さと、同級生の中で際立って長いリーチ、そして、普段の様子からは想像もできないような狡猾さ、そんな強力な武器を数多く備えた友枝の剣には、俺も一目を置いている。

 しかし、友枝の剣には大きな欠点があった。さかし過ぎて、捨て身の勝負を避ける傾向だ。相手にちらりちらりと隙を見せて、誘いに乗ってきた瞬間に小手を盜むような小技は得意なのだが、一か八の飛び込み技を使うのを躊躇ってしまう。これは、大抵の相手には読み勝ててしまう友枝の頭の良さの悪影響である。

 竹刀を持った友枝は、普段の軽い様子からは想像もつかない程、冷静で狡猾だ。だが、この特性は、自分より格下の相手を効率的に仕留めるには適するが、格上の相手を打倒するには向いていない。

 祖父に斬り付けた時の鉄也先生のような、捨て身の気位を教える必要があった。

 そんな訳で、ここ一年ばかり、俺は友枝に火の位――上段の構えを教えている。

 

 初めて友枝に上段を構えさせた時のことを思い出し、思わず口許が緩んでしまった。

 あの時は、傑作だった。友枝は強張った不器用な上段を構え、俺に対して尋ねたのだ。


『それで、この構えからどう打てばいいんですか?』


 俺は、友枝の一足一刀の間合いから数歩離れて正眼に構え、こう答えた。


『そのまま目を瞑って、相手の間合いの中までにじり寄って、顔に相手の息が吹きかかったらそのまま竹刀を振り下ろせ』


 ――これは、上段は己が一撃の必殺を確信するまでは、そう易々と刀を振り下ろしてはいけないという心構えを説いた、一種の譬え話だ。実行したという話はここ暫らく聞いたことがない。

 しかし、俺の言葉を聞いた友枝は一瞬の逡巡すらなく、背筋を伸ばして瞳を閉じた。

 天を指した竹刀は微動だにさせぬまま、小刻みな送り足で、そのまま俺の方に一歩一歩、間合いを詰めてくる。傍目には、剣士に相応しい天晴れな度胸の持ち主に見えるかもしれない。

 しかし、おっかなびっくり進める足取りは緩慢で、その呼吸は浅く乱れていた。友枝は知っている。構えを緩めれば、目を閉じていようとも無防備な喉元に俺の竹刀が突き立つだろうことを。

 友枝は時折足を止め、唾を飲みこみながらも、背筋だけはしっかり伸ばして、蛞蝓のような速度で俺へとにじり寄る。俺には友枝の心境は手に取るように分かった。俺に突かれないだろうか。己は正しい方向に進んでいるだろうか。間合いはどれぐらい狹まっただろうか。

 何も見えない恐怖は、体に染み付いている筈の距離感を狂わせる。判断力を鈍らせる。

 それでも、歯を食いしばって友枝は俺の傍まで詰め寄った。

 その間合いは、正しい上段の間より二尺余りも近寄った位置である。

 褒美とばかりに、ふっ、と軽く息を吹きかけ、面金の下の前髪を揺らすと、友枝は痙攣の如く体を強張らせ、面ッという掛け声と共に、ガチガチに力んだ諸手で俺の肩に竹刀を振り下ろした。


『よし、それでいい』


 ぽむ、と面布団の上に手を乗せると、友枝は固く瞑った瞳を恐る恐る開いた。その貌には、不安と恐怖が色濃く残っていたが、俺の顔を見てゆっくりと安堵の息を吐き出した。

 ――友枝は、威勢こそいいが、決して勇敢な方ではない。特に、自分の手に負えない物事に対しては、臆病過ぎるきらいさえある。

 しかし、どれだけ懼れても、怖がっても、それらの感情を呑み込んで、なんとか「痩せ我慢」をしながらやり遂げてしまう。

 それこそが、友枝の一番の長所なのだ。


 今日は、どうやって鍛えようか。

 日々の友枝の成長を見守るのは、俺の稽古の大きな楽しみだった。 


    ◆


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛……」


 風呂から上がると、友枝はマッサージ椅子の上でだらしなく大の字になり、不気味な声を上げていた。

 『亀齢の湯』は、小さいながらも源泉かけ流しで肌当りのよい湯屋で、俺達は時折ここに稽古の汗を流しに通っている。

 コーヒー牛乳を飲みながら番台の親爺と近頃の野球の話題に興じていると、電源の落ちたマッサージ椅子から立ち上がった友枝が、小動物のように駆け寄って、無言で俺に右手を差し出した。

 掌中に100円玉を落とすと、友枝は旧式の自販機から牛乳を取り出し、スッポンで蓋を外して、腰に手を当てて気持ち良さそうに一息で飲み干す。


「ほら、白いヒゲがついてる」


 口の周りを指で拭うと、友枝は不機嫌そうにその手を払い除けた。

 

「もぅ、女の子の唇を触るなんてデリカシーないな~」

「普通の女の子はそんなオヤジ臭い牛乳の飲み方はしない、マッサージ椅子で妙な声は上げない、神田川を唄いながら風呂に浸からない」

「き、聞いてたのマサ兄!?」

「女湯お前しか入ってなかっただろ? 上機嫌でこうせつを気取って唄ってたのが男湯まで響いてきたぞ」

「うわぁぁ」


 自称女子力の高い17歳。色気の無いジャージ姿で頭を抱えた。


「はっは、相変わらず正義ちゃんと友枝ちゃんは仲がいいねえ」


 鷹揚に笑う番台の親爺とも、もう20年以上の付き合いだ。

 友枝は不満げに俺を睨み、ジャージの首元のファスナーを小さく下げた。露になった首筋から鎖骨の下の当りには、小さな赤い痣が桜の花弁のように散らばっていた。

 

「見てよ、これ!」

「――? それがどうかしたのか?」

「昨日の学校の体育の時間に、みんなに見つかってキスマークと間違われたんだよ、これ!」

「そうか。良かったじゃないか、これで彼氏が出来たと見栄を張れるな」

「全然良くないよ! 凄っごく恥ずかしい思いをしたんだからね! それにこれ、元は言えば全部マサ兄がつけた痕じゃない!」

「妬けるねえ、色男」


 稽古帰りの剣士を見慣れた番台の親爺は、全ての事情を知って野次を飛ばす。

 確かに、友枝の首筋の痣をつけたのは俺だが、これは別段艶っぽい事情でも何でもない。


「お前が怖がって体を捩るから、突きが中途半端に逸れてそんな痣が出来るんだ。突きなんて正面から喰らっちまえば、そうそう痣なんてできないぞ」

「それにしても、こんなに痣だらけになるまで女の子を突くかなあ、普通」


 胸元を閉じて友枝はつん、と顔を逸らした。


「相応の加減はしてある。後は、お前の気構えの問題だ」

「……それにしても、もう少し乙女心というものをですね……」


 ごにょごにょと駄々を捏ねる友枝の袖を引き、帰路についた。

 星と虫の声だけを楽しみに、片田舎の暗い秋の夜道を歩く。

 松虫、蟋蟀、鈴虫、轡虫。藪の傍を歩くと、風流の域を越えて、やかましい程の虫の声が木霊していた。携帯用の蚊取り線香をポキポキと幾つかに折って、その両端に火を点す。

 暫らく二人で無言で歩いていたが、不意に、友枝がさっきの話を蒸し返してきた。


「相変わらず、マサ兄はつれないなあ。上段の稽古も良く分からない指導ばかりだし。目を瞑って打てー、だとか、捨てきって打てー、だとか」

「不満か?」

「ううん。言われた通りにやってたら、最初は意味が分からなくても、出来るようになったら分かってくるし――何より、マサ兄や爺ちゃん達の言う通りにしたら、絶対に強くなれるから、そこはきちんと信じてるよ」

「ならいいだろう」


 ぽむ、と頭に頭に掌を乗せると、まだ不満はこぼし足りない様子だったが、


「ん……」


 と一声漏らして、口を噤んだ。

 そのまま、ぼんやり水瓶座の辺りを眺めながら歩いていると、


「ねえ、マサ兄。私、強くなれるよね」


 アスファルトの上の消えかけた歩車分離線を見つめながら、友枝は訥々と漏らした。


「お前は今でもそれなりに強いよ。全国ベスト8はかなりのもんだぞ」

「うわ~! 一年生で優勝カップを持って帰った切畠先輩がそれを言うと、凄く嫌味ったらしく聞こえるんですけど~!」

「勝った負けたじゃなくて――そういうを抜きにしても、お前は強いよ、友枝。鉄也先生も、爺ちゃんもお前のことは認めてた」


 主に、お前の痩せ我慢を。そんな言葉は口に出さなかった。


「うん。来年は私も優勝カップを持って帰って、マサ兄のカップの隣に飾るんだ!」


 友枝は、さっぱりとした屈託の無い笑顔を浮かべて見せた。

 また、言葉もなく二人で黙々と細い山沿いの国道を歩む。

 道場から湯屋までは徒歩にして10分程度。車を使ってもいいのだが、友枝が稽古後の汗の臭いがつくのを嫌って、整理運動がてら、いつもぶらぶら歩いて通っている。

 明らかに制限速度を超過して、白いワンボックスが駆け抜けた。

 この細い国道は、田舎道が災いし、夜間は交通マナーの悪い車が駆け抜けることもしばしばだ。

 友枝の腕をとり、そっと歩道の内側へと引っ張る。


「夜は車に気をつけなくちゃ駄目だぞ。特にこの辺り、ガードレールも途切れてるし、夜は無茶な運転をする車も多いんだから」

「マサ兄のそういうとこ、本当におまわりさん、って感じだね」


 そう言って、友枝は目を弓にした。

 と、そんな俺達の会話を遮るように、けたたましくクラクションを掻き鳴らしながら、派手なデコレーショントラックが国道を駆けぬける。デコレーションの強烈な灯りと、ハイビームに思わず目を閉じた。


「言ってる先から、なんてマナーの悪いトラックだ」


 ぼやきながら目を開けた瞬間――俺は、眼前に迫る二台目のトラックを見た。

 クラクションの残響は耳に残り、ハイビームの残照で、視界には未だ白い靄が張り付いている。

 それでも、主観の中で無限に引き伸ばされた時間の中、歩道に乗り上げて迫り来るトラックと、恐怖の色を表情に貼り付けて、身じろぎ一つ出来ずにそれを見つめる友枝の姿が明瞭に瞳に写った。

 友枝の口が動く。何を言ったのか。耳は未だに先のクラクションの残響から回復しない。

 再び、ハイビームの灯りが視界いっぱいに広がって、俺達を飲み込もうとする。

 友枝は、動かない。


「馬鹿野郎ッ!」


 叫んだ時には、行動は終わっていた。

 全力で飛び込み、車の向こう側へと友枝を突き飛ばす。そのまま倒れ込んだ俺は怪物のあぎとのような10tトラックの前輪を目前にして、ああ、これは死んだな、とぼんやり他人事のような感想を抱いていた。

 しかし、金切り声のようなブレーキ音が頭上を通り過ぎ、トラックの車体が山壁の舗装を削りながら停止する音を耳にして、間一髪、己が死神の鎌の下を潜り抜けたことを確信した。


「友枝っ」


 突き飛ばしてしまった友枝は無事だろうか。どこか怪我などはしていないだろうか。そればかりを思って、必死に駆け寄ろうとするも、ずるりと滑って尻餅をついてしまった。幾度立ち上がろうとしても、ずるり、ずるりと左足が滑って立つことが出来ない。

 ――目を落とすと、左足のふくらはぎから下は見事トラックに礫き潰され、血泥に塗れて余り物のように膝から下で揺れていた。

 ――俺の事はどうでもいい、そんな事より友枝が先決だ!

 山壁にぶつかって大破したトラックのコンテナの向こうに、見慣れた赤いジャージ姿が倒れていた。


「おいっ、友枝、しっかりしろっ」


 怪我をした獣のように、残った三肢を使って必死に友枝に駆け寄る。


「マサ、兄、私、どうなった、の?」

「友枝……っ」


 友枝の腰から下は明らかに不自然な方向に捻子ねじ曲がり、その口と鼻からは細く血が滴り落ちていた。

 ……俺は、どうやっても取り返しのつかない物を失ってしまったことを悟った。

 


   ◆



 それから半年――俺は、未だお天道様の光を見れずにいた。


 友枝に下された診断は、腰椎挫傷による、下半身不随。今後の回復も絶望的という残酷なものである。

 そんな無情な宣告を、俺は奇麗に無くなってしまった左膝から下を見つめながら聞いていた。

 友枝は、これから一生、車椅子での生活を余儀なくされる。

 とうに失われた筈の左足には、虎挾でも踏み抜いたかのような激しい疼痛が時折襲い掛かかる。

 それは、己の罪科を忘れるなと、左足が俺を責め立てているかのようだった。

 

『心が残っていたら、左足は出ない。左足が残っていたら、体は出ない――』


 それは、幼い頃から何度も祖父に言い聞かされていた教えだった。

 祖父の教えは、とうの昔に俺の体に染み付いていたものだと思っていた。確信していた。

 しかし、あの10tトラックの灯りに照らされた俺の体は、出なかった。

 残った左足は、トラックの轍の下敷きとなり、轢断の憂き目である。

 しかしまあ、これは俺の自業自得とも言えるものだ。

 ――許せないのは、あの日、もう一寸踏み出して友枝を遠くに突き飛ばしていたなら、友枝にこんな障碍を残さずに済んだということである。

 

 要するに、俺はあの日、あの瞬間、怖れたのだ。恐がってしまったのだ。

 普段の職務、そして長年の稽古で身につけた筈の武技は、真に危急の石火の機に到っては、何ら役に立たなかったのだ。

 粘性を帯びたあの一瞬を、俺は幾度と無く夢に見た。

 眼前の驚擢疑惑に縛られ、足取りは重く地にへばりつく。渾身の力で友枝の背を突き飛ばすも、その細い背中はトラックのバンパーに接触し――。


 事故の原因は、トラックのドライバーの居眠り運転である。

 当の運転手は、山壁への衝突の際に脳挫傷で死亡していた。

 行き場の無い怒りは、全て己の裡へと刃を剥いた。


 警察の仕事は傷病退職することになった。当然の話である。

 祖父の死から間も無かったこともあり、多くの方が親身に世話をしてくれた。

 スポーツ用品メーカーにツテのある先輩は、高性能の義足を安価に入手できるように手回ししてくれた。

 これまでの貯金と、失業保険。そして巨額の慰謝料。再就職先を探す必要はあるだろうが、当面暮らしていけるだけの条件は整っていた。

 そうして、俺は独り部屋に閉じこもった。

 お天道様に背くことなく生きろ、と祖父は常々口にしていた。

 俺は、今の自分を白日の下に晒すことが、恐ろしくて堪らなかった。

 日の光を見ることも無く、薄暗い家の中で古い本を読み漁りながら、一日が過ぎるのを待つ日々である。

 買い物などは、全て日没後に遠くのスーパーで済ませるようになった。近所の店で、憐憫と同情の視線を浴びるのにも、飽き飽きだった。

 粗末な食事で食い繋ぎながら、一週間、二週間が経っただろうか。

 刀を握ることもなくなった。畳に大の字に寝転びながら、離れの道場に響く竹刀の音に漫ろに耳を傾ける。少し前は竹刀の交わる音を聞くだけで心が浮き立ったというのに、他人事のように頭上を通り抜けた。

 今の俺には仏壇の扉を開くことなど到底出来なかったが、定期的に誰が来て手入れをしてくれている音が聞こえた。番匠の叔母さんだろうか、と胡乱な頭で考える。

 時には、俺に声をかけに来てくれる元同僚もいたようだ。当たり障りのない会話でお茶を濁して帰って貰った。

 次第に、本を読むのも億劫になり、畳の上に大の字になって一日を過ごすようになった。

 左足の幻肢痛は未だ消えない。


   ◆


 その日も畳の目を数えながら日没を待っていると、珍しく玄関のチャイムが鳴った。

 玄関など鍵もかけずに開け広げているのが当然のど田舎では、わざわざチャイムを鳴らす客など滅多に居ない。

 NHKの集金か何かだろうと居留守を決め込んでいると、ゆっくりと玄関の引き扉が開く音が聞こえた。


「こんにちは」


 その声を聞いて、畳に押し付けていた俺の心臓は跳ね上がった。

 聞き間違える筈もない。それは、友枝の声だった。

 あの事故の日以来、友枝とは顔を合わせていない。診断結果を聞いた時も、その場に友枝は居なかった。俺の病室に見舞いに来てくれた友枝のご両親に、土下座して詫びたことは覚えている。

 一体、どんな顔をして会えばいいかも分からなかった。

 

 家に上がってくると思いきや、友枝の気配は玄関前に留まったまま動かなかった。

 考えてみれば、当然である。今の友枝は、車椅子。玄関の上り框は越えられまい。

 すぐに、玄関先に向かえに行くのが筋というものだろう。だのに、俺の体は鉛を呑んだように重く、畳の上から剥がれようとしなかった。

 カチリ、と奥歯が鳴った。友枝は一体何をしに来たのだろうか。

 俺に、半年間積もりに積もった怨恨渦巻く悪罵をぶつける心積りか。

 ……ああ、それなら全く筋道が通った話である。友枝は俺に恨み言をぶつける権利があるし、俺はそれを甘んじて受け止める義務がある。

 さあ、上り框へ友枝を迎えに行かなくては。

 固まりかけた決意を、玄関の異音が掻き消した。

 そのまま、ずるり、ずるりと這い摺る音がこちらへ向かってくる。 

 ――框を越えるために、車椅子を降りて這うことを選んだのか!?

 友枝はまだ、松葉杖をついての歩行もままならないと聞いていたのに!

 すぐに、立ち上がって迎えに迎えに行くべきなのだろう。

 しかし、体は金縛りにあったように動かない。

 友枝の這う音は廊下を縦断し、襖を開いて、ゆっくりと俺のいる書斎へと侵入して、俺の背中の前でぴたりと止まった。

 小さな息遣いと、仄かな体温が、ちりりと背中を灼く。

 友枝は、一瞬だけ、逡巡するように息を乱したが、大きく腹から息を吸って、


「マサ兄っ!」

 

 俺に、呼びかけた。

 観念して肚を決め、友枝に向き直って座を正す。

 そこに、憎悪や悲哀の表情を想像した俺は、拍子抜けするぐらい記憶のままの友枝の笑顔を見て、困惑した。

 友枝もまた、腕で足を折り畳み、無理矢理正座じみた形に坐り直し、あろうことか、深々と頭を下げた。


「マサ兄、ありがとう、ございました、あの時、命を助けてくれて」


 その言葉の意味を咀嚼するのに、十秒以上の時を要した。

 床に頭を伏せて上げる気配の無い友枝を前に、俺は何て答えていいか戸惑っているうちに、涙が溢れた。

 

「違う! 俺は、俺はっ……済まない友枝、俺は、お前を助けることが出来なかった! あと一寸飛べていれば、お前はこんなことには――俺が、不甲斐無かったせいで……」

「違う! それは違うよ! あの時動けなかったのは私だった! あの時、マサ兄独りなら簡単に避けられたはず! 私を助けに飛び込んだから、マサ兄の足が――」

「お前は、俺を恨んでいい」

「私は、マサ兄の足と引き換えに、命を助けられた」


 背中に、温もりが覆い被さってきた。

 友枝は、不器用に俺の背をよじ登ると、俺の首に腕をまわした。


「私、リハビリ頑張るから。絶対、また立って歩けるようになるから。

 だから、マサ兄も、もう自分を許してあげて……」


 友枝の声の端は震えていた。あれから、手術とリハビリで学校は休学が続いている。剣道の全国大会への夢も露と消えた。ショックを受けていない筈などないのに、俺の為に、虚勢を張って気丈に振舞っている。


「ちくしょう……」


 ――これが、友枝の強さ。

 ずっと小さな妹のように思っていた又従姉妹の少女は、立ち止まっていた俺よりも、ずっと気丈に健やかに、前を進もうとしていた。

 それは、なんて尊い「痩せ我慢」。

 友枝のこんな姿を見せられては、陽の当らない暗い場所で蹲っていることなど、出来ようも無い。


「面倒をかけたな、友枝。俺もまた、頑張っていくから――」


 俺は、半年ぶりに部屋の扉を開き、お天道様の光の下に出た。

 初夏も終わりかけ、山々には夏の気配が漂い始めていた。


 

  

  

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