第17話 殉教者

 刃毀れした刀の先端から滴る血花と、地に倒れ伏した骸が、小さな戦いの終わりを告げていた。

 眩暈に溺れそうな視界の中で、バルベーラは手の内の柄を固く握り直す。

 それが、己が直ぐ立つための杖であるかのように。

 足元には、剣奴兵の骸。果たして、彼女の初斬は成った。

 先手はバルベーラだった。得意の蜻蛉の構えから肩口に刀を叩き込んだ瞬間、視界が朱に染まった。

 狂奔と恐怖に背中を押されて、彼女は敵が完全に物言わぬ肉塊に成り果てるまで、刀の扱いも知らぬ子供のように、滅茶苦茶に斬り付け続けたのだ。

 武功には想像していた達成感など微塵も無く、手に残ったのは、知ってしまえば元には戻れない名状し難き不快感だった。

 敵は死に、バルベーラは生き残った。けれども、それは彼女にとって勝利と呼ぶに相応しくない無様な終わりで。

 陣形から導き出せる戦術から考えれば、彼女がこの敵を斬る必然性など無かった。

 戦場の熱に中てられ、功を焦るかのように手近にいた剣奴に斬りかかった挙句がこの始末。

 その髪のみならず、全身を真紅に染めた彼女は、まだ知らぬ破瓜のような痛みと喪失感に唇を噛む。


 ……こんな姿では、友枝様のところに戻れない。

 金切り声を上げながら、敵を膾切りにした己の姿を覚えている。

 自分が、怪物にでもなってしまったような気分だった。

 鮮やかな手並みで、敵を一刀の元に切り捨てる兄の姿を知っている。ボジョレなら、こんな愚は犯さなかっただろう。

 師のマルゴーなら、こんな無様は晒さなかっただろう。

 剣帝の裔たる正義なら――。

 相手の骨も甲冑も目に映らず、ただ刃を叩き付けた結果が、このこぼれ身の刀だ。

 バルベーラは血糊で粘る柄を握り直す。

 剣奴は所詮粗末な前衛。あの魔王を討たねば、この戦いは終わらない。

 彼女は遥か前方で戦っている筈の兄と正義に思いを馳せた。



   ◆



「それにしても、解せない」


 正義は随分と数を減らした剣奴達を見やる。


「歩兵を用意したなら、まずは雨霰と矢を射掛けるのが戦の常道かと思ったが」


 その声には、自信無さげな蔭りが混じっていた。

 正義は卓越した武道家ではあったが、歴史研究家ではない。

 多少の武術史は齧っているし、それに随伴した歴史知識も学んではいるが、専門家には遠く及ばぬとの自覚はあった。

 まして、異世界の戦の常道など、知りようが無い。


「魔道士には元より弓矢は不要。こちらから射掛けようにも、障壁に阻まれますからなあ」

「障壁?」


 ボジョレがついと目で合図をすると、親衛隊一の射手であるイエルマンが長弓に白羽の矢をつがえ、遥か彼方の魔王級――ヴァインガルトに向けて矢を放った。

 距離にして200m以上は離れていただろうか。

 矢は魔王級の前方の宙空にて、突如失速して地に落ちた。

 余りの距離の遠きに、その様子は正義の視力を以てしても鮮明では無かったが、まるで目に見えぬ壁に阻まれたが如き不自然は動きは、見紛う筈が無い。


「あれは――」

「あれが、障壁と呼ばれる常時発動型パッシブの魔道に御座います。魔道士は常に己の身を守る魔力の鎧を纏うておりますので、尋常な弓矢など一切通用致しません。

 無論、障壁の強度はその魔道士の格によって上下致しますが、魔王級ともなれば、投石機カタパルトの一斉射撃も難無く耐え切りましょう」


 己の知る常識が、歴史が、通用しない。

 この世界の戦争の形態が、自分の見知った世界のそれと全く異なることに、改めて正義は戦慄を覚えた。

 スティルトンの魔道士達が、碌に鎧も纏わぬ軽装なのも頷ける。

 レディコルカの兵の装備も軽い革鎧を基調とし、メットや胴丸、関節部など、金属部分はごく少ない。

 仮想敵であるスティルトンのSランク魔道に対しては、金属鎧でも防具としての用を成さぬためだろう。

 西洋鎧の最終形態とも言えるマクシミリアン式甲冑も、マスケット銃の進歩によって防具の地位を失った。

 武器の威力が、完全に防具の防御性能を上回っている。

 そういう意味では、剣奴達の着込む旧式の金属鎧は完全に時代遅れの品ですらあった。

 それは、正義の着込む装飾的な大鎧も同様である。


「なら、どうやって倒す? その障壁とやらはどうすれば突破できる?」


 ボジョレは、刀を掲げて薄笑みを浮かべた。


「斬るしか御座いますまい。その為に剣帝陛下より授かった抗魔の加護。その為の刀で御座いますれば」


 そんな馬鹿な。

 不条理なゲームなルールを聞かされたかのように、正義は口を噤んだ。

 理性的に考えれば、それが全く非論理的な法則であることは子供にでも分かる。

 それでも――それが、この世界でまかり通っている常識。

 剣帝切畠義太郎が、この世界に付与した、新たなルール。

 そのルールに則って発達した、レディコルカの異形の撃剣戦術。

 破邪の力を得た剣士――即ち、抗魔剣士の育成に特化した武術体系。


 正義は、己を重く戒める甲冑の紐を解いた。


「なら、俺が行かなくちゃな。何にせよ、あいつの障壁を破れるのは、俺しか居ないんだから」


 全速力で駆け寄り、一刀で首を刎ねる。

 正義の100m走の平均記録は、13秒台の前半である。

 可能な限り甲冑を減らし、大小二本で相手の懐に飛び込む。

 目測で距離は200m強、装備の重量、地形、己の体調から弾き出した到達時間は、概算で50秒弱。

 無論、これは敵の魔道による攻撃を勘定に含めていない、理想の数字。

 正義自身も、一分程度で敵の懐に潜り込めるなどと楽観視はしていない。

 だが、行くしかない。こうして手をこまねいている内にも、味方の被害は広がりつつある。

 剣奴兵が数を減らした今ならば、真っ直ぐに――真っ直ぐに駆け抜けられる。

 正義は靴紐を結い直した。身に纏うかねは胴丸と鉢金のみ、残るは関節を守る革鎧に替え、刀を鞘に叩き込む。最後に栗形を押えて、ボジョレに振り向いた。


「それじゃあ――後は頼んだ」


 御武運を――そう告げるような頷きが、視界の端から消えていく。

 正義は等身大の弾丸となって一直線に駆け出した。



  ◆



「来た来た、アイツやっと来やがった!

 モブのNPCを巻き添えにするから撃っちゃ駄目なんて退屈なこと言いやがって!

 もう撃ってもいいんだよな、もう殺ってもいいんだよな、エデン!?」

  

 『おあずけ』を喰らっていた犬のような仕草で、自称勇者のヴァインガルドが喜色を滲ませる。


「ええ、ご存分に」


 黒髪の従者が首肯すると、バースディケーキに蝋燭に火でも燈すかのような気安さで魔王の指が閃き、正義を巨大な火球が包んだ。

 剣帝の首を獲らんと後を追いすがっていた剣奴達が一斉に蒸発したが、海辺=ヴァインガルトは、気に病む様子も無い。

 当然のように爆炎の中から無傷で姿を表した正義に、尚も魔道の火を射掛ける。

 その表情には、ゲームの敵キャラの攻略でも楽しむかのような、悪意無い稚気が貼りついていた。

 火も水も風も氷も雷も効かぬ。一度だけ功を奏したのは土属性。

 エデンに囁かれた戦術の通りに、ショベルカーのように掬い上げて運んでやったが、あれをひっくり返せばどうなるだろう? ヴァインガルトの端整な顔が、虫を潰す子供のような下衆な喜悦にほころんだ。

 

 正義も、当然先と同じ攻撃が来ることぐらい想定済みだった。

 足元に己を動かす大地の揺らぎを感じた瞬間、正義は即座に片膝をつき、拳を握りしめた筋骨隆々左前腕を、縦に掲げたのだ。

 誰もが――後方で様子を見守っていたボジョレすら、その挙措の意を計りかねた。

 しかし、その僅か一挙動にて、足元の土砂ごと正義を動かそうとする魔道の力は完全に失効していた。


 丸木から削りだしたような逞しい正義の腕が、縦に掲げられたその様子。

 まるで、不可視の盾を構えるが如し。

 友枝は言った。抗魔圏とは、厳密には間合いでは無く、己の身体意識の範疇に従って拡大するものだと。


 これこそ、警察機動隊教練の基礎、『盾の構え』。

 隊列を組み、ジュラルミンの大盾を用いて暴徒の鎮圧などを行う際の、基本中の基本の姿勢である。

 日本の機動隊では、武器の携行が制限される為、大盾を使用した格闘技術が洗練された。

 一説には古代ローマ重装歩兵の流れを汲むと言われる機動隊の盾の用法は、単なる防具の範疇に留まらない。

 角で相手を殴りつけ、重量のある盾で相手の足先を潰すなどの、凶悪なまでの制圧力を持つ「武器」でもある。

 正義は今、剣士では無く、機動隊員として身に刻んだ盾の構えを用い、意識を深く足元へと沈墜させた。

 魔王ヴァインガルトの規格外の魔力は、この世界の比類無き矛であるが、対する抗魔力は防御の極み。

 そのイメージングに、慣れ親しんだ盾の構えは最適であった。

 大樹が根を張るが如く、盾の重量のイメージに身を任せ、下へ下へ、抗魔圏を地下深くへと浸透させていく。


「何だよ、何なんだよオマエ!」


 癇癪を起こすように、ヴァインガルトが魔力を爆発させた。

 地火風水の属性と秩序に則って発効していた魔道が乱れをきたし、子供が苛立ち交じりにクレパスを塗りたくった画用紙のように、渾然たる無秩序な力が暴発を起こしながら渦を巻いた。

 不可視の竜がとぐろを巻いて荒れ狂い、体表の逆鱗で全てをやすり削っていくような徹底的な破壊。

 奈落に通じる穴が口を開くかのような、伝説の創世神が地上に降り立つかのような、天地を貫く魔力と土砂粉塵の柱は神々しくすら見える。

 斬り合いをしていたレディコルカ軍と剣奴が、その背中に魔杖を突きつけていた魔道士達が、速度を増して唸りを上げる大嵐の煽りを喰らい、大半の兵士が立つことすら儘ならず地面に尻をついた。

 誰もが斬り合うことすら忘れて、紫電を放ちながら回転する巨大な土砂の竜巻を呆として見つめていた。


 それは、醜く恐ろしくも、間違いなく地上に顕現した奇跡だった。 


「なんて、こと」


 バルベーラは遥か後方で、天蓋に届かんとばかりに立ち上る魔道の渦を目にした。

 単純なる風の魔道でも地の魔道でもない。竜巻の各所では暴発した火球が焔を巻き上げ、縦横無尽に紫電が駆け、尖った氷片が周囲に弾け飛ぶ。

 完全に制御を失った魔力の暴走状態でありながら、美しい竜巻の形状は、一人の敵に対する確殺の意図を告げている。

 かくも奇態な魔道は、見たことも聞いたこともない。

 この狂竜巻を引き起こしているのは魔王級と見て間違いない。

 そして、その中心にいるのは――。



   ◆



 前後左右、三百六十度を亜音速で回転する土砂の竜巻で視界を塞がれながら、正義は盾の構えを解かず、じっと己の心臓の鼓動だけを数えていた。

 低く力強い拍動は、絶世の天変地異の中にありながら、平静を保ち続けている。

 盾の構えに籠められた思いは単純して明快――その意は、堅牢無比。

 巌のように身動みじろぎ一つしないその姿――正義の心中は波紋一つ浮かべぬ水面のように、静かに凪いでいた。

 周囲の如何なる変容にも己を揺らさず、その身一つをよすがに「今立っているこの地に」根を下ろす。

 それこそが、切畠正義という人間の、ずっと変わらないスタンスだったから。


 だから、鼓膜を破らんとする竜巻の絶叫も、恐怖で理性を奪う異界の光景も、正義の心を揺らすには至らない。

 人智を超えた魔王級の魔道も、正義を害するには至らない。

 正義は唯、細長く切り取られた己の世界――抗魔圏に、独り静かに佇む。


 魔王ヴァインガルトの牙は、ついに正義には届かなかった。


 しかし。――竜巻の狂乱が終息を迎えたのを肌を感じて目を開いた正義は、完膚無きまでの己の敗北を知った。


 周囲の光景は一変していた。巨人の手が地を掘り上げたが如し。

 ぽっかりと空いた巨大な穴の只中に、脆く不安定な石柱の頂上に、正義は独り立っていた。

 魔力の竜巻が掘り削ったクレーター状の穿孔痕の中心、正義の抗魔圏の名残が、細い細い柱状に立っている。それ以外の地面の総ては、大嵐によって総て抉り取られてしまったのである。

 遠目から見れば、まるで巨大な燭台。

 正義が立っているのは、細い蝋燭立ての針の上である。

 足元の地面は、野球のバッターボックスの半分程度の面積すらない。

 四方は事実上の断崖絶壁。

 そこから一歩でも踏み出せば――後は、奈落の底への転落が待つのみである。

 詰んだ。正義はそう直感した。

 高さは目算で20m弱。転落して無事で済む高さでは無いし、よしんば五体が無事であったとしても、このすり鉢状の穴を這い上がることは不可能だろう。


「想定外だったな、これは」


 正義は見誤っていた。

 魔王級の魔力と、抗魔力。この二つは単純に比較考量できぬ相反する力であるが、絶対値としての力の量が違い過ぎることを。

 抗魔力は、魔道から生まれたあらゆる効果、副次的な派生エネルギーの全てをキャンセルする。

 だが――魔力で空いた穴に身を落とすことは正義の『自殺』と見なされ、通常の物理法則の範疇であるとして抗魔は一切の加護を与えない。

 抗魔力が、魔道に対する絶対防御だと信じたが故の陥穽である。


「いいザマじゃないか。攻撃無効化属性も、ちょっとコンボでハメてやればこんなもんだな」


 進むことも退くことも出来ない正義の様子に、ヴァインガルトが満足そうに頷く。

 けれども、彼は決してこの効果を期待して魔道の力を振るった訳では無かった。

 駄々っ子のように無秩序に魔力を暴発させた結果、「運良く」この形に正義を追い詰めることが出来たのは全くの偶然である。

 しかし、ヴァインガルトにとってはそんな過程はどうでも良く、自分が正義に勝ったという結果のみが重要だったらしい。

 喜色満面、隣の従者に己の力が如何に巨大か、その判断力が如何に優れているかを自慢げを捲くし立てた。

 従者エデンは、賞賛の言葉を並べつつ、些事のように本来の目的を魔王に訊ねた。


「流石はヴァインガルト様! これで決着がつきましたね。あの男、レディコルカの王を名乗っております。

 取り調べたい事がありますので、捕縛して尋問にかけても宜しいでしょうか?」

「ん? どうでもいいよ。あんな雑魚、俺はもう興味は無いしさ。それより、帰ってシャワーを浴びたいよ。

 可愛いアブリルもベルヘアも俺のことを心配してるだろうからさ、早く帰って安心させてあげなくちゃ」


 もう興味を失せたとばかりに、今夜は誰を夜伽の相手として楽しむかの妄想を始めたヴァインガルドに、精悍な表情の女魔道士が恭しく注進をした。


「――ならば、マレビトはこの場で息の根を止めるべきです。

 マレビトは厄人。生かしておけば如何なる害悪を撒き散らすが想像も出来ません。

 なに、お手間は取らせませんので――」


 スティルトン魔道七師匠の四席、ライラーである。

 彼女はエデンが異議を挾む間も無く、手を挙げて己の配下に伝令を飛ばした。


 即座に、森の奥に配置していた戦奴が弓や弩を一斉に構え、正義に狙いを定めた。

 ライラーは、エデンがマレビトを捕獲しようと企んでいたことを知っていた。

 だが、彼女はマレビトを即座に誅殺することを選択した。

 例えそれで、魔王級の信を失うことになっても、国家の仇敵を打倒することこそ、スティルトンの正義であると信じて。


「成る程、矢が降って来ないと思ったら、こういうことだったのか」


 正義は盾の構えを解いて、どっかりと腰を下ろして胡坐をかく。

 擂り鉢状の穴の周囲に弓兵がずらりと並び、満月に引き絞られた弓のやじりの先を、揃って正義に定めていた。


「やっぱり、もう少し厚い鎧を着てくるべきだったかな?」

 

 苦笑に応えるかのように、一斉に放たれた矢が雨霰と降り注いだ。

 正義は顔面を腕で抱え込むようにして、身を小さく丸めた。

 弓矢は、剣に比べて教練の難易度が著しく高く、的に当てることができるようになるまで、相当の訓練を必要とする。自分にとって都合のいい仮定であるが――あの弓兵達の錬度が剣奴達と同程度であるなら、めくら撃ちも同然だろう。

 殆どの矢は、オレに当たらずに穴に落ちる。正義はそう確信して捲土重来の時を待つ。

 圧倒的不利な形勢だろうと、完膚無きまでに敗北を喫しようと、必ず次の機会が来ると信じて。

 耳元の地面に、音を立てて矢が突き立った。

 頭上を、飛蝗の大群と化した矢が風切り音を立てて通り過ぎていく。

 無論、全ての矢が都合よく狙いを外してくれる訳ではない。

 筋肉の鎧で覆われた逞しい肉体。その肩口に。腿に。肩胛骨に。次々とやじりが突き立っていく。

 だが正義は眉一つ動かさず、呻き声一つ上げない。

 その心臓が止まるまで、生存を諦めない。

 それが切畠正義という生物の生態である。


 狙え。よくオレを狙え。己だけを狙え。

 この期に及んでしまったらば、我が身を標的トロフィーとして晒すことにこそ勝機がある。

 一点を狙うことのみに執着する人間は、視野が極端に狭窄する。

 弓に不慣れな新兵ならば、猶更だろう。

 その隙に、あの男ならば――。


「―――――――!?」


 壮絶な鬨の聲と共に、頭上を飛び交う矢風が一気に勢いを減じた。

 頭を上げずとも、正義にはありありと想像と出来た。

 ボジョレ率いる親衛隊が、正義に狙いを定める弓兵達を片端から背中から斬り倒し、巨大な蟻地獄の穴に蹴り落としていく光景が。

  

「ちっ」


 舌を鳴らしたのはライラーである。

 彼女は根っからの魔道選民主義者。剣奴や戦奴などに最初から信など置いてはいない。

 それでも、彼女はスティルトンの魔道士の中では飛びぬけた現実主義者リアリストだった。

 抗魔力を持つマレビトの打倒の為には、旧弊の技術をも使用し、人海戦術を使うのが最良であると理解はしている。

 彼女が手を閃かせると、幌に覆われた荷車が牽く馬も無しに森の中から進み来た。

 中に納められていたのは、攻城戦用の巨大な大型弩砲バリスタの数々。

 周辺の属国で八方手を尽くして集めた、スティルトンには無用の骨董品である。

 魔王級には及ばずとも、杖の一振りで壊滅的な破壊を顕現させるⅢS級の魔女にとっては、時代遅れの機巧からくり仕掛けの玩具も同然だ。

 そんなものを恃む屈辱に端整な顔を歪めながら、彼女は配下の剣奴達に命じた。

 

「剣帝本人を狙う必要は無い。足場の岩の塔を狙いなさい」


 正義が蹲る、細く脆い岩のトロフィーに、投槍もかくやという太さの投擲鏃が凄まじい運動量を伴い、幾本も突き刺さった。

 足場の石塔に激震が響き渡り、蜘蛛の巣状に微細な罅が広がっていく礫音に、流石の正義も顔色を変えた。

 正義の抗魔力によって魔力の掘削から取り残された不自然な石柱だ。

 真っ直ぐ立っているだけで元より奇跡。正義の体重だけでもいつ崩壊してもおかしくなかった仮初の砦は、大型弩砲バリスタの砲撃により崩れ、ゆっくりとかしいでいく。

 そこには、魔も神秘も介在しない。春に流氷が溶けて砕けるが如き自然の働きだ。

 止めようがある筈も無く、正義は腰の脇差しを抜いた。

 せめて登山のピッケルのように岸壁に突き立てられないかという、テンポラリーな抵抗である。

 そんなやぶかぶれな弥縫策びほうさくが、功を奏する筈も無く。

 斜にずれゆく視界の中で、正義は信じられないものを目にして叫びを上げた。


「馬鹿かっ、お前らっっ!」


 弓兵達に刃を向けていた親衛隊が、奈落に通じるが如く開いた大穴に向って、次々と身を投じていた。

 正義の窮状を目にした親衛隊の隊員達は、何の合図も掛け声すらなく、まるで一個の意志を持った生物のように、躊躇も無く大穴に身を躍らせていく。

 卓越した運動能力で擂り鉢状に歪曲した穴の斜面を滑り落り、己の身一つで正義の落下予想地点へ向って一斉に疾駆する。


 何という烈誠の極み。


 一瞬の浮遊感。

 正義は崩れいく石塔の破片と共に、回転する視界の端に己を救う為に命を擲つ部下達の姿を見た。

 轟音。衝撃。

 ――いくつもの、いくつもの、骨が砕け、肉がひしゃげる音を聞いた。

 身体機能の把握など、とうに失っていた。全身の打撲と、骨折。

 正義に意識が残っていたのは――否、命が残っていることさえ、全くの僥倖に過ぎない。

 己の足元に埋もれている筈の仲間の安否を確かめようにも、声帯には未だ衝撃から発声機能が戻らない。


 そんな正義に向って、生き残ったスティルトンの弓兵達が再び無慈悲な鏃を向ける。

 今度こそ、阻むものの無い矢衾が、正義を針鼠も同然に変えるだろう。

 

「正義親王陛下を御守りするぞっ!」


 誰かの大喝。

 先の崩落を受け止めて生き残った親衛隊員達が、満身創痍の肉体でなおも立ち上がる。

 その手には、斬り殺した敵の骸を。味方の骸を。もう動けない仲間の肉体を。そして、空手の者は己が肉体を盾とし、正義を護らんと立ちはだかる。

 レディコルカの軽装の皮鎧では、長弓の矢を止めることなど出来はしまい。

 だが、その程度、端から承知の上。

 旧レディコルカ第三憲兵隊――現剣帝親衛隊の面々は、あなぐらの底で己が身命を以てその忠を叫んだ。 

 

 


   ◆

 


 噎せ返るような血臭と鉄の臭いの中、正義は独り闇に佇んでいた。

 平衡感覚は既に無い。

 視界は総て闇に閉ざされている。

 全身に圧し掛かる重圧感。

 折り重なって斃れた親衛隊の骸の下で、正義の命の灯火はかろうじてその輝きを保っていた。

 全方位から降り注ぐ矢衾の下、親衛隊の隊員達は、一人、また一人とその命を散らしていった。

 斃れた仲間の骸を傘として、正義に降り注ぐ矢の雨を遮りながら、全身に矢を受けて正義の上に倒れこむ。最も単純かつ効果的な人の盾。

 死地にあって、誰一人遺す言葉の一つすら口にせず、正義の延命にのみ執心した。

 やがて視界は忠烈なる衛士達の亡骸で埋め尽くされ、微かに漏れ来る苦痛の呻き声すら絶えて、正義は独り、己を守った骸達に取り残された。

 全身を流れ伝う仲間の血潮も冷たくなって久しい。

 何時間経ったか、何日経ったか。

 正義の狂った体感時間では計りかねたが、実際には僅か数十分すら経っていない。

 だが、指一本動かせない暗闇での責め苦は、無限の時間にも等しかった。

 シグロ。ロラメル。イエルマン。ゼド。第三憲兵隊の頃から馴染みの連中も、親衛隊に格上げされた際に新たに入隊した見知らぬ連中も、皆揃って物言わぬ骸に成り果てている。


 己独りを助けるためだけに。


 正義は忠義の泥濘に埋れながら、今、狂気に落ちてもいいと思った。

 生まれて初めての、意識を拐かす程の衝動。

 それは、彼の強靭な精神を以てしても、耐え切れぬ、混沌とした負の感情の奔流だった。

 限界まで擦り切れた精神の狂気への転落を防いだのは、闇の中に浮かんだ小さな蛍火だった。

 妖精ピクシー揚羽アゲハが、最初からそこにいたかのように、骸と骸と骸の折り重なる小さな隙間で、体育座りをするように身を丸め、特徴的な紫紋の付いた羽を震わせていた。

 鈴を転がすような音が広まり、発狂寸前だった精神が、少しづつ、落ち着きを取り戻していく。


「アゲハ……どこから、入ってきた?」


 妖精ピクシーは、応えない。

 燐光に照らし出された闇の中、妖精ピクシーの背後には息絶えた骸の顔があった。

 視界が闇に包まれていたので気がつかなかったが――正義は、鼻が触れ合う程の距離で、ずっと骸と顔を合わせていたのだ。


 正義の見知らぬ、新入りの隊員だった。

 側頭部に幾本もの矢を受け、眼窩から右の目玉が零れかけている。

 即死だっただろう。

 と、ぎょろりと、骸の無事な片目が動いた。


「……レディ……レディコルカ辺境警……所属……コート=ブール二等兵……本日を以て……レディコルカ剣帝親王陛下……直属……親衛隊に……」


 その口が死に掛けの金魚のようにぱくぱくと開閉し、壊れたラジオのように言葉を漏らした。

 

「我々……レディコルカ国祖……剣帝切畠義太郎陛下に誓いて……生涯を……この……

 …………忍苦鍛錬力を養い…………以て皇道を…………守護せんことを……」


 それは、親衛隊が正式に編成された際に行われた、誓詞奏上の言葉だった。

 入隊の日、正義に捧げた誓詞を、コート=ブール二等兵は今一度正義の前で誓い上げる。

 彼に、眼前の正義を認識するだけの理性は残されていなかっただろう。

 コートの脳髄は四本の鏃に掻き混ぜられ、思考力の片鱗すら残っていない筈だった。

 何故、コートが突然息を吹き返し、親衛隊入隊誓詞を口にし始めたのかは定かではない。

 きっとそれは、生きながら捌かれる魚が無秩序に跳ねるような、壊れかけた脳の誤作動なのだろう。

 それでも、彼は魂に染み付けた言葉を奏で続ける。


「我は…………賜りし剣を以て……全ての敵を打倒し……全ての……全ての……全ての……」


 正義は、じっとコートの誓詞奏上に耳を傾けていた。

 その言葉は次第に不明瞭に崩れゆく。例え一時とて息を吹き返したことが奇跡に近いのだ。


「志を高く……護国の鬼と化し……忍従と忠誠を……忠誠を持って君国に報ぜんことを……」


 その零れかけた瞳を、閉じてやりたかった。


「剣帝親王陛下に……この身命を捧げんことを……この身命を捧げ……この身命を捧げ……この身命を捧げ……この身命を捧げ……この身命を身命を身命をささげ、しんめいをささげ……しんめ……ささげ………………」


 細々と続いた誓詞が、ついに途切れた。

 コートの口は半開きのまま血塗れの喉奥を覗かせ、誓詞を最後まで奏上できなかった無念を訴えるように、左の瞳が正義を睨みつけていた。

 正義は、妖精ピクシーの微かな燐光のみをよすがに、次第に濁りゆくコートの瞳を見つめ続ける。

 

 

 

  ◆


 


 吐き気を押えるかのように、虚ろな瞳でキヌは口元を押えた。


「今、沢山の人が……正義さまが……」


 友枝にとって不吉極まりない一言を残し、ついにキヌは操り人形の糸が切れたように崩れ落ちた。


「キヌさん……? ねえ、どうしたの……マサ兄に、何があったの……?」


 キヌは応えない。友枝は不安げにその青褪めた頬を撫でると、小鳥のような体を抱き上げて、侍女のドメーヌにそっと預けた。


「私、行ってきます」

「いけません、友枝様! どうかお留まり下さい、友枝様!」


 ドメーヌの必死の制止を振り切って、友枝は御用馬車の幌を開けた。

 友枝には自信があった。

 

 ――私は、ただの女子高生じゃない。そりゃあバルベーラさん達には勝てないけど、地元で私に勝てる子なんて一人もいなかった。マサ兄の真似をずっとしてきて、普通の女子高生には出来ない経験は山程積んでる。卵を産まなくなった鶏の首を切り落とすのなんて、朝飯前。大きな猪を逆さ吊りにして裂いて、お腹の中身を取り出したこともある。このエメンタールでも、冒険者として大きな魔物を何匹も倒してきたんだから。

 ――だから、血なんて怖くない。何があっても、怖くなんか――。


 馬車の前に転がっていたのは、ヴァインガルトの作り出した竜巻の煽りを食らって吹き飛んだ無惨な骸。

 五指の欠けた手足は有り得ない方向に捻り曲がり、頭蓋は砕けてプリンのような脳漿が覗き、赤い毛糸玉を転がしたように垂れた臓物が長々と零れ出していた。

 友枝は、その場で膝を付いて嘔吐した。

 人の血潮も、鶏や猪の血と何の変わりも無い赤――だが、その彩度が違う。明度が違う。

 何もかもが、違い過ぎる。

 胃の内容物を総て吐き出し、空えずきに苦しんで、……それでも友枝は立ち上がった。

 眼前の骸よりも、何よりも。

 何か自分の見知らぬ所で、尋常ならざる事態が起こり、正義がその渦中にいる。

 そのことが、恐ろしくて堪らなかった。

 近辺を警護している筈のバルベーラの姿の無い。

 剣奴兵の骸があちらこちらに斃れ伏しているばかりだ。

 それが、間違った選択肢であることは承知していた。それでも、押え切れない衝動に突き動かされるようにして、友枝は重い足を引きずるように、轟音の響いた方角へと歩を進める。


「友枝様! 御無事でしたか!」

「ボジョレさん!」


 木立ちの間から覗いた見知った顔に、友枝は安堵の息を漏らした。


「一体何があったんですか!?

 凄い音がして……マサ兄達は、無事なんですか!?」


 ボジョレは、友枝を落ちつかせるように、力強い笑みを浮かべてゆっくりと頷いた。


「勿論御無事でいらっしゃります。只今、戦線から離脱されて、あちらでお休みになっておられますよ」


 その指は、己が姿を顕した木立ちの奥を示していた。

 轟音の発生源より大幅に外れ、真東に向う方角である。


「よかった……よかったぁ」


 安堵の余り目尻に涙さえ浮かべる友枝は、「……首が要るな」というボジョレの一言を聞き逃した。


「陛下もお疲れでしょう。戦況も一段落ついた所ですし、お会いになっても良い頃合でしょう」


 何事も杓子定規なドメーヌやバルベーラと違い、ボジョレという男は融通が利くところがある。

 友枝も正義同様に、親衛隊長であるボジョレには大きな信を置いていた。


「ありがとう、ボジョレさん」


 礼の言葉もそこそこに。友枝はボジョレの側をすれ違い、彼の指した木立ちの奥へと駆け出そうとする。


 ――その細いくびに、背後からボジョレの剛腕が音も無く巻きつき、獲物を絞め殺す毒蛇の速度で、容赦なく頚動脈を締め上げた。




 エメンタールの黒い山々の稜線に、緩々ゆるゆると夕焼けの残照が消えていく。

 夜が、始まる。

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